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【聖なる経済学】 富の法(ダルマ)

訳者コメント:
「法(ダルマ)」とは、サンスクリット語の「dharma(ダルマ)」、パーリ語の「dhamma(ダンマ)」に由来し、仏教やインド思想において「宇宙の真理」「法則」「仏の教え」を意味する言葉です。(達磨さんとして親しまれている菩提達磨ボーディダルマは、この「法」という言葉を名前に頂くインド人の僧でした。)ここでは、富や投資の本質にあるスピリチュアルな真理について語られます。


第20章:正しい生き方と聖なる投資

私たちはこれまで、自分たちにとって良いことは世界にとっても良いことだという前提で生きてきた。しかし、それは間違いだった。世界にとって良いことは自分たちにとっても良いことだという、正反対の前提で生きられるように、生き方を変えねばならない。そのためには、世界を知り、世界にとって何が良いのかを学ぶ努力が必要なのだ。
ウェンデル・ベリー

余剰資産は神聖な信託財産であり、その所有者は生涯にわたり、社会全体の利益のためにそれを管理・運用する義務を負う。
アンドリュー・カーネギー

富のダルマ

はっきりさせておきましょう。不蓄財の目的は、金銭中心の文明の罪から自分を免責することではありません。それは単なるエゴです。貧困だからといって美徳の評価には繋がりませんし、不蓄財はそれ自体が目的ではありません。その目的は、本物の富を享受することです。それは繋がりと流れという富なのであって、所有という偽りの富ではありません。しかし、もしあなたの持っている富が、日常生活の流れの中で分かち合える以上のものだったらどうでしょうか。

良心的な人にとって、そのような富は賜物ギフトというよりむしろ重荷に思えるかもしれません。私たちは与えられたものを正しく使う義務があり、またそうすることに喜びを感じます。富も例外ではありません。多くの富に恵まれ、あるいは呪われた人々が、その義務を放棄する理由を持たないのは、誰もが生まれながらに持っている才能、責任、そして奉仕の機会を拒否する理由がないのと同じです。

余剰の富には、親族から相続したものであれ、自身の人生の早い時期に築いたものであれ、それを有効活用したいという欲求が伴います。それはダルマ、つまり道理なのであって、これは奉仕への呼びかけです。それを贅沢品に浪費したり、意味も無くばらまいたり、あるいは富を増やすことに没頭したりすることは、いずれもその呼びかけを拒否することになります。余剰の富で難しいのは、それを惜しみなく、美しく与えることです。これには何年も、あるいは何十年もかかり、長期的な計画や大きな組織の設立が必要になるかもしれませんし、あるいはたった一度の寛大な行為として実現するかもしれません。いずれにしても、これは未来の経済に一致した投資です。未来の経済では、地位は所有することではなく与えることから生まれ、安全安心は蓄積することではなく、流れの中心となることから生まれます。これは、投資を富の増殖と同一視する従来のパラダイムとは全く異なる心理構造メンタリティです。

当初、私は投資(インヴェストメント)という言葉と概念をきっぱり廃止すべきだと考えていました。しかし、その語源を考えてみると、それは「着せる」こと、つまり、裸のお金に新しい装束ヴェストメントを着せ、物理的・社会的な領域において物質的なもの、実在のものをまとわせるという意味合いが込められているのです。お金とは、むき出しの人間の潜在能力であって、まだ物質的・社会的な構築物を「着せられていない」創造のエネルギーなのです。

正しい投資とは、お金を神聖な装束で包むこと、つまり、今日私たちにとって神聖となりつつあるものを創造し、守り、維持するために使うことです。これらは、明日の経済の根幹を成すのと同じものです。したがって正しい投資とは、きたるべき世界への実践であり、心理的な訓練であると同時に、実践的な準備でもあるのです。それによって、富に対する新たな考え方、すなわち生産的な貢献のための道筋を見つけることに慣らします。それが作り出し強化するそのような道筋は、現在の貨幣制度が崩壊した後も残るかもしれません。私たちが知っているようなお金は消え去るかもしれませんが、感謝と義理の関係は残るでしょう。

少し詩的な想像を巡らせるなら、前の段落で述べたことはすべて、もう一つの「きたるべき世界」、つまり死んだ後の世界にも当てはまります。これを理解するのに、霊界の存在を信じる必要はありません。死の床についた自分を想像してみてください。その時あなたは何も持っていけないことに気づくのです。金融投資が経済崩壊を乗り越えられないように、人生の終わりは私たちのあらゆる蓄財の終わりを意味します。その時、あなたに喜びをもたらすのは何でしょうか。それは、あなたが与えてきたすべてのものの記憶です。死に際して、私たちが携えて行くのは、これまで与えたものだけなのです。贈与文化のように、それが私たちの富となるのです。与えることによって、私たちは天界に宝を積み上げるのです。私たちが万物と一体となるとき、私たちは万物に与えたものを受け取るのです。

お金に余裕のない人にとって、お金の最も美しい使い方は、おそらく自分自身と子供たちに食事を与え、生活の基本的ニーズを満たすことから始まるでしょう。しかし、自分自身や愛する人々を超えて、お金を美しく使うには、「投資」と呼ぶべきものが必要です。神聖な経済において、投資は現代とはほぼ正反対の意味を持ちます。現在、投資とは人々が富を守るために行うことですが、神聖な経済においては、富を分かち合うために行うことなのです。

不蓄財と同様に、この概念は非常に単純明解なので、子供でも理解できます。「私には使い切れないほどのお金があるので、他の人に使ってもらおう」という考え方です。これは投資や融資と同じことです。そして、銀行などの投資仲介者は、お金を使う人を見つけることに長けている存在です。銀行業務には神聖な側面があって、「あなたのお金を美しく活用できる人を見つけるお手伝いをします」と言っているのです。かつて、ある会議で出会った銀行員にこの考えを伝えたところ、彼の目には涙があふれました。それは、彼の使命のスピリチュアルな本質を理解した涙でした。

今から千年後、お金が今日私たちが知っているものとはあまりにも異なり、もはやお金だと分からないような時代になっても、投資という基本的な考え方は残っているでしょう。なぜなら、宇宙の根源的な豊かさと人間がもつ無限の創造性のおかげで、私たちはしばしば、差し迫ったニーズをはるかに超える恵みの流れに加わることができるからです。私たちは常に、人類の集合的な努力と〈地球という恋人〉との協働を通して、驚異的な創造物を生み出すために必要な、資金的手段を持ち合わせているだけでなく、それは時間とともに増大していくのです。最も基本的なレベルで、神聖な投資とは、この溢れる豊かさを創造的な目的へと意図的に向けることに他なりません。それはニーズを満たすことから始まり、美の創造へと展開していくのです。


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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-20-right-livelihood-and-sacred-investing/


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