【聖なる経済学】 不蓄財③
訳者コメント:
ここでは、不蓄財という態度には、スピリチュアルな、魂の側面があることが説かれます。分断の物語の中では、人はみな個別ばらばらの存在なので、自分の持ち物以外は自分の物ではありません。ギフト文化の中では、たとえ海辺の別荘を所有することができなくても、そこを自分の家のように自由に使わせてくれる人と繋がりを持てれば良いのです。それはお金で買うものではありません。すべては関係性の中にあるのです。
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(②から続く)
自然界のあらゆる生物、体内のあらゆる細胞は、ある量のエネルギーまでしか処理できません。私たち人間も同じです。エネルギーの流れが多すぎると、その通り道は破裂してしまいます。エネルギーを蓄積し過ぎると、それは腫瘍になります。一度も訪れることのない城や、15台目のロールス・ロイスを買うような無駄遣いは、収入過多の症状です。その生き物は、エネルギーの流れを必死に消散させようとして、手放しながらも同時にしがみつこうとしているのです。贅沢な金持ちが本当にしたいのは、お金を手放して、与えることと受け取ることのバランスを取ることなのですが、実際にはただ物を買って所有するだけです。手放しながらもしがみつこうとする彼を駆り立てる恐怖とは何でしょうか。それは、宇宙にたった一人で存在する、切り離された自己を支配する恐怖です。蓄積とは、切り離された小さな自己を拡大する手段なのです。しかし究極的には、この拡大は露骨な嘘です。私たちは、生まれたときと同じように、裸のままこの世を去るのです。
富裕層の持つ成金趣味の贅沢品のほとんどは、彼らが本当に必要とするものの代用品に過ぎません。スポーツカーは自由の代用品、豪邸は縮小した自己から失われた繋がりを補うもの、ステータスシンボルは自己と他者から受ける真の尊敬の代わりです。富という茶番劇は、実に悲しいゲームです。富がもたらすはずの安心感さえも欺瞞であって、人生の苦難は富という要塞にも忍び込み、そこに住む人々を苦しめるのは歪んだ形の社会悪であり、他のすべての人を苦しめるものと同じなのです。依存症、鬱病、自己免疫疾患は、富が有ろうと無かろうと区別なく襲います。もちろん、富があれば命を救える様々な医療上の緊急事態などを想像することはできるでしょうが、だから何だというのでしょうか。私たちは皆いずれ死ぬのです。どれだけ長く生きようとも、やがて訪れるその瞬間に、あなたの人生を振り返れば、夜闇の中の稲妻のように短く感じられます。そして気づくのは、人生の目的は最大限の安全と快適さの中で生き延びることではなく、私たちがこの世に生まれたのは与えるためであり、私たちにとって美しいものを創り出すためなのだということです。
私が不蓄財を実践することで何か高尚なことをしていると思われないように、はっきり言っておきますが、私がこのように生き始めたとき、自己犠牲の感覚は全くなく、むしろ軽やかさと自由を感じていました。私はごく平均的な寛大さの持ち主で、聖人とは程遠い人間です。ここで私が提案するのは高尚な考えなどではなく、実際的なものです。その理由は第一に、そうすることで心が軽やかに自由でいられるからです。第二に、私が与えるなら、受け取ることになると知っているからです。第三に、継続的なつながりの豊かさの中で生きることになり、贈与を通して自己の輪が拡大するからです。第四に、物質的な意味でも美しく生きることになると信じているからです。例えば、私は海が大好きで、何年も前からいつか海辺の家に住むことを夢見てきました。それはとても鮮明な夢で、カモメの鳴き声や潮風の匂いが感じられます。以前なら、それを手に入れるには莫大なお金を稼がなければならないと思っていました。今では、私が海辺の家を「所有」することは決してないとしても、いつでも海辺の家に泊まりに来るよう招待してもらえるし、家主が「どうぞ自分の家だと思ってゆっくりしていって下さい」と言うとき、それは心からの言葉だと信じられるからです。
もし世界が私の仕事を熱狂的に受け入れてくれるなら、私は自分自身が使い切れないほどの多くの贈り物を頂くはずです。莫大な資産、株式や投資、債券や証券、地下室や屋根裏にいっぱいの持ち物を蓄積するのは、なんと無駄なことでしょう。この世には分かち合えるものがたくさん余っているのに、なぜ蓄積するのでしょうか。劣化する通貨や贈与経済が私たちの生きている間に実現してもしなくても、私たちは今すぐその経済の中で生きることができます。ゲゼルの言葉を借りれば、お金は雨傘のような存在に成り下がり、困っている友人に自由に貸したり贈ったりすることができるのです。もちろん、私の必要な時に必要なお金やその他の贈り物が必ず手に入るという保証はありません。時にはお金が全くないこともあるでしょうが、これはさほど心配するような事ではないでしょう。一方で、私は飢えに瀕して、貯蓄をしておかなかったことを後悔するかもしれません。しかし、私はそう思わないでしょうし、私にとっては心配や不安から解放されること、つまり手放すことで得られる開放的で流れるような軽やかな感覚は、リスクをはるかに上回る価値があるのです。もし保証が欲しいなら、どんどん貯め込むことです。でもいずれは、約束された安全が蜃気楼であり、人生の浮き沈みは富という要塞をも突き破ることに気づくでしょう。
深いレベルでは、蓄財と不蓄財の区別は誤った区別で、希少性と分断という前提を密かに持ち込んでしまいます。贈与の考え方では、世界の豊かさを個人的な豊かさとして体験し、その考え方に沿った人生を体験します。分断の考え方では、贈与、貸付、貯蓄を三つのまったく異なるものとして捉えますが、本当にそうでしょうか。もし私が人生のある段階で、使い切れないほど多くのものを受け取ったなら、それを贈与して感謝を生み出すこともできますし、他人に貸し出して感謝ではなく義務感を頼ることもできますし、あるいは単に貯蓄して、見かけの上では他人に全く頼らないようにすることもできます。しかし、これら三つの選択肢は見た目ほどに異なっているわけではありません。まず、先に述べたように、感謝と義務の間にある境界線は非常に曖昧なものであり、贈与文化ではそれぞれが互いを強化します。与えてくれた人への贈与を促すのが感謝の気持ちであれ、あるいは最終的には感謝の原則(与えてくれた人に対する贈与の正しさ)に基づく社会的な合意であれ、その結果は同じです。貯蓄と投資に関して言えば、アメリカのような信用に基づく通貨制度においては、これらは貸付と何ら変わりません。貯蓄口座は銀行への随時貸付です。貸付と同じように、金銭的な貯蓄とは「過去に私は他人に貸し付けてあるので、将来には他人から返してもらうように要求できる」という意思表示です。株式や現物商品の場合でさえ、資産の蓄積は所有に関する社会的な慣習に依存します。
つまりある意味では、贈り物を受け取る側が蓄積しないことは有りえません。社会的な注視の中で私が与える限り、私は将来のための豊かさの源を築くことになります。(たとえ社会的な注視がなくても、宇宙は私たちが与えたものを、おそらく別の形で、おそらく百倍にして返してくれると私は信じています。)すると結局のところ、不蓄財の本質は、お金を与えたり、貸したり、投資したり、貯蓄したりするときの意図にあるのです。贈与の精神では、私たちは目的に焦点を当て、自分自身への見返りは二の次、後回しにします。蓄財の精神では、私たちは見返りを確実に最大化しようとし、贈り物、貸し付け、投資の行き先はその目的に役立つものにします。前者は自由、豊かさ、信頼の状態です。後者は不安、欠乏、支配の状態です。前者に生きる人は豊かです。後者に生きる人は、どれほど多くの富を持っていても貧しいのです。
将来、経済レント(つまり、土地やお金などを所有することから得られる利益)を排除する社会的な仕組みが整えば、私が述べたような生き方は、スピリチュアルな魂の論理だけでなく、経済的な論理にも一致するようになるでしょう。お金が何らかの形で価値を失うのなら、必要以上に持っておくよりも、無利子で他人に貸す方が賢明です。さらに、豊かさの心理構造が広まるにつれて、貸付と贈与と投資の区別は曖昧になるでしょう。贈与の返済に関する正式な合意があろうとなかろうと、そこには義理が生まれ、特定の個人に対してでなくとも、社会や宇宙に対してそれを負うのだと知るとき、私たちの心は安まります。この認識は、私たちが移行しつつある神聖な経済の根底にある、つながり合う自己という〈新たな自己の物語〉の自然な帰結です。あなたの分が増えれば私の分も増える。魂の観点から言えば、これは常に真実で、分断の時代の最盛期でさえそうでした。経済的な観点から言えば、かつて贈与文化の中で真実であったものが、現代の文脈で贈与経済を再構築する新たな経済制度を確立するにつれて、再び真実になりつつあるのです。
こうした新たな、贈与に沿った経済制度は、一般的な態度が変化する原因であると同時に、その結果でもあります。十分な数の人々が不蓄財の生活を始めると、新たな経済制度が成り立つ精神的な基盤が築かれます。実際、人々は新しい種類の通貨を、自分たちの価値観や魂の直感を反映したものとして認識するでしょう。彼らはそのことを「得心」し、熱心に受け入れるでしょう。これはもう既に起こっています。補完通貨の使用には構造的に大きな阻害要因があるにもかかわらず、人々はそれらを刺激的で魅力的だと感じています。まだそれらを使用する経済的な理由がほとんど無いにもかかわらず、人々はそれらを使ってみたいと考えており、自分たちが踏み入れようとしている〈新たな自己の物語〉にこれらの通貨が一致していると直感的に理解しています。既に、私たちの魂の直感は、来るべき時代の真実を前もって示しています。すなわち、所有は重荷であり、本当の富は分かち合いから生まれ、他者に対してすることは自分自身に対してもすることになる、ということです。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-19-nonaccumulation/
翻訳メモ:
social witnessing:社会的な注視
