【聖なる経済学】 感謝を信じる
訳者コメント:
お金の制度も社会制度も変わっていないのに、自分だけギフト精神で生きる意味はあるのでしょうか。ギフトの返礼を受け取るとき、相手の感謝の気持ちが命ずるままを受け入れるのですが、そこには何の保証もありません。相手の感謝を信じるというのは、恐ろしいことです。でも、ギフトを与えるとき返礼や対価を予め決めるなら、それは等価交換の商品になってしまいます。ですから、返礼品が決めてあるクラウドファンディングは、本質のところでギフトとは異なるものです。
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第21章:贈与の中で働く
地球上における私たちの境遇は奇妙だ。私たちは皆、なぜここにいるのかも分からず、短い滞在のためにやって来る。しかし、時には神の目的のために来ているようにさえ思えることもある。だが、日常生活という観点から言えば、一つだけ確かなことがある。それは、私たちは他者のためにここにいるということだ。
―アルベルト・アインシュタイン
感謝を信じる
何度も出てくる疑問は、「今の貨幣経済の中で、自分の才能を活かしながら生計を立てる方法はあるのか」というものです。この疑問を抱く人の中には、自分の活動から「収入を得る」方法を見つけられずに絶望している芸術家、治療者、活動家などがいます。また、事業や職業で成功しているものの、自分の仕事に対する料金設定に何か問題があると感じ始めている人もいます。
確かに、サービスに対して料金を請求することは、あるいは物品の代金を請求することでさえ、贈り物の精神に反します。ギフト精神に入っていくと、私たちは自分の創り出したものを他者や世界への贈り物として扱います。返礼を事前に指定することは贈与の本質に反します。なぜなら、それはもはや贈与ではなく、物々交換、つまり売っているのです。さらに、多くの人々、特に芸術家、治療者、音楽家は、自分の仕事を神聖なもの、神聖な源泉に触発されたもの、無限の価値を持つものと捉えています。それに値段をつけるなら、価値を貶めること、冒涜のように感じられます。でも芸術家は自分の仕事に対する報酬、つまり補償を受け取って当然ではないのでしょうか。
「補償」という言葉の根底にある考え方は、仕事をすることであなたの時間を犠牲にしたということです。あなたが仕事に費やした時間は、本来なら自分のやりたいことに費やせたはずだったのです。この言葉が使われるもう一つの場面は、訴訟です。例えば、怪我や精神的苦痛に対する補償を求める場合などです。
「神聖」という形容詞がふさわしい経済において、労働はもはや時間や生命を奪うものではなく、痛みや苦しみの種でもなくなります。神聖な経済での認識は、人が働くことを望んでいるということ、つまり、自らの才能を発揮するために生命エネルギーを注ぎたいと願っていることです。この認識に「補償」という概念は存在できません。労働は喜びであり、感謝の源です。最高の労働には値段をつけることさえできません。例えば、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を描いたことや、モーツァルトがレクイエムを作曲したことに対して、「補償を支払う」などと言うのは冒涜だと思いませんか。神聖なものと交換するためには、どんな金額も十分ではありません。最も崇高な作品というのは、無償で提供する以外にそれを捧げる適切な方法が無いものです。たとえ今、モーツァルトのような天才に匹敵する才能を持つ人がほとんどいなくても、私たちは皆、神聖な仕事をする能力を持っています。私たちは皆、自らの技を通して、自分自身よりも偉大な何かを伝えることができるのです。何かが私たちを通して形を成し、地上における顕現の道具として私たちを用いるのです。このような営みにおいて、「補償」という概念がいかに異質なものか、お分かりでしょうか。神聖な創造物を売り渡すことの不名誉さを、感じ取れるでしょうか。どんな値段であれ、あなたは自分自身を過小評価し、その贈り物の源を過小評価しているのです。私はこう表現するのが好きです。「世の中には、あまりにも良すぎて売ることのできない物があります。私たちはただ、それを贈り与えるしかないのです。」
読者の心にはすぐに疑問がいくつも湧き上がるでしょう。これまで述べてきたことにもかかわらず、「でも、芸術家は自分の作品に対して報酬を受け取る権利があるのではないか」と、また考えている自分に気付くかもしれません。分断の直感は、これほど根深いものなのです。そこで、次のように言い換えてみましょう。「素晴らしい贈り物をした人は、素晴らしい贈り物をいただく権利があるのではないか。」もし「権利がある」という言葉に何か意味があるとすれば、答えはイエスです。神聖な経済において、これは強制ではなく感謝の仕組みを通して実現します。売る人の態度はこう言います。「この贈り物を差し上げますが、代金を支払っていただく場合に限ります。私が妥当だと思う金額を支払っていただく場合に限ります。」(しかし値段がいくらであっても、売り手は常に損をしたと感じるでしょう。)これに対し、贈る人の態度が言うのはこういうことです。「この贈り物を差し上げます。そして、あなたが適切だと思う金額を支払ってくださると信じています。」もしあなたが素晴らしい贈り物をして、それでも感謝の気持ちが返ってこないなら、それはおそらく贈る人を間違えたという印かもしれません。贈与の精神は、ニーズに応えるものなのです。感謝の念を抱かせることが贈与の目的なのではありません。感謝の念は印、指標であって、それが示すのは贈り物が適切に行われ、相手のニーズを満たしたこです。だからこそ、本当の寛大さを持つ人なら見返りに感謝の念さえも求めないという一部のスピリチュアルな教えに、私は賛同できないのです。
では、これを実践的に考えてみましょう。私がこの問題にしばらく取り組んだ後で気付いたことは、自分の作品にお金を請求するのは間違っているように感じる一方、作品を受け取って感謝してくれる人からお金をいただくのは問題ないと感じることです。感謝の度合いは人それぞれです。この本があなたにとってどれほど価値のあるものになるかを、私には事前に知ることができませんし、あなた自身も事前にはわかりません。だからこそ、まだ知らぬものに前もってお金を払うというのは、贈与の精神に反するのです。ルイス・ハイドはこの点を最も的確に説明しています。
先に述べたように、サービスに対する料金が感謝の力を弱める傾向のある理由が、これでより明確になったかもしれない。ここでの要点は、一般的な意味での交換は、前もって決済することができないということだ。自分の努力の成果を予測することはできないし、実際にそれをやり遂げられるかどうかさえ分からない。感謝には「未払い」の負債が必要であり、負債を「感じる」限りにおいてのみ、私たちは交換を進める意欲を持つ。負債を感じなくなれば、私たちは交換を止めてしまうが、それは当然のことだ。したがって、変容をもたらす贈り物を売ることは、その関係を偽ることになる。それが示唆するのは、返礼の贈り物が既に行われたことだが、実際には変容が完了するまで返礼の贈り物はできないのだ。前払いの料金は贈り物の重みを宙に浮かせ、変化の原動力としての力を弱める。したがって、市場を通じて提供される治療やスピリチュアルな体系は、より高次の状態への魅力からではなく、苦痛への嫌悪から交換に必要なエネルギーを引き出す傾向がある。[1]
そこで私は、贈与の精神に沿って仕事を進めるためにできる限りのことをしてきました。例えば、私の文章や、音声録音、動画の多くをオンラインで無料公開し、読者の皆様には感謝の気持ちを表す贈り物をお願いしています。この贈り物は必ずしも私に宛てる必要はありません。例えば、私の作品を公開していることへの感謝の気持ちがこの宇宙に向けられているのであれば、おそらく「恩送り」という形で贈るのがより適切な方法でしょう。
その指針は、ふつう次のようなものです。講演料が支払われる会議で登壇する場合、私はふつう、それを断りません。私が提唱する考え方は長いこと非主流のものだったため、より定評のある講演者と同等の報酬を要求しています。この見方にも価値があるということを示したいのです。さらに、前もって報酬の提示があることは、主催者が私の提供する内容をどれほど求めているかを私に伝えてくれることもあります。私は、自分の贈り物が求められている場所にそれを捧げたいと思っており、お金はその意欲を伝えるいくつかの手段の一つとなります。
大切なのは、「贈与の中で生きる」ことを崇拝したり、美徳の基準にしたりしないことです。善人になるためにそうしてはいけません。心地よく感じるためにそうするのです。もしあなたが高額の小切手を受け取って喜んでいるなら(私もですが)、それでいいのです。人間は大きな贈り物をいただくと喜ぶものです。たとえあなたがけちで、恨みがましく、貪欲な気持ちになったとしても(やはり私も時々そうなりますが)、ただそれに気づいてください。再び贈与へと戻る道のりは長く、私たちは贈与からはるか遠いところまで来てしまっているのです。私は、新しい(そして古くからある)領域を探検する多くの探検家の一人として、他者の発見や自分自身の過ちから学んでいるのだと思っています。
私が修養会を主宰するときは、宿泊費と食費、その他の実費のみを請求し、贈り物は歓迎します[2]。そのときの私のアドバイスは次のようなものです。「それはあなた次第です。明確さ、バランス、そして適切さを感じられる金額、つまりあなたの感謝の気持ちや価値感を反映した金額を、いくらでも、あるいは全く支払わなくても構いません」。これは決まったルールではなく、それぞれの状況に合わせて柔軟に解釈される考え方です。たいていの人はかなり気前が良いと、私は感じています。
このモデルが私にとって実際に「うまくいく」意識状態に入るまでには、しばらく時間がかかりました。何もくれない人を恨んだり、高尚な原則を唱えることで、本当の感謝の心が命ずる以上の贈り物をするよう人々に強いたり操ろうとしたり、あるいは自分の苦難、犠牲、貧困ゆえに当然の権利があることをほのめかして、さりげなく「罪悪感」を抱かせて贈り物をさせようとしたりするなら、私はまったく贈与の精神で生きているとは言えません。むしろ私は暗に欠乏意識や物乞いの状態で生きているのであり、その状態を反映するかのように、贈り物の流れはたちまち枯渇します。人々が私への贈り物を手控えるだけでなく、私自身の贈り物の源泉も枯渇してしまうのです。
贈与を基盤としたビジネスモデルを探求し、人々にその指導を行う中で、私はその成功を妨げているさまざまな「影の動機」を発見しました。そこには、自分の提供するものの価値に対する疑念や、高潔に見られたいという願望、お金に駆り立てられ世界を破壊する金融マシーンへの加担から自分を免罪したいという欲求、あるいは単に商取引を取り巻く厄介な人間関係の修羅場に巻き込まれたくないという気持ちなどが含まれます。私のオンライン講座『ギフトの中に生きる』では、市場経済が私たちに刷り込んできた習慣や恐怖から、本当の「贈与」の動機を明らかにするための、より深い取り組みを提供しています。
贈与の意図が本物なら、いただく贈り物の量は、与える贈り物の量とほぼ同等以上になることが多いものです。返礼の手段は時に謎めいていて、私が贈ったものと間接的にしか結びつかないこともあれば、全く結びつかないこともあります。しかしそれでも、返礼が届いたとき、そこには元の贈り物の魂が何らかの形で宿っているのです。いただいた贈り物と贈った贈り物を結びつけるのは、ほんのわずかな偶然の一致や象徴的な繋がりだけということもあります。理性的な頭では、返礼品は私が贈ったものとは全く関係がない、つまり「いずれ私はそれをもらっていただろう」ということになります。しかし、心はそうではないと分かっています。
返礼は後からやってくるので、贈与に基づく生き方に足を踏み入れると、信仰の時の中で生きることになります。見返りの保証がない中で、私たちが本心からそう思っているのかどうかが分かります。自我はもがき苦しみ、確実な利益を探し求めようとします。お金でなくても、自分の寛大さを訴えて賞賛を得ようとするかもしれません。内心で密かに自分を褒め称え、贈与に疎い人たちよりも自分のほうが上だと感じようとするかもしれません。私の経験では、贈与という生き方に新たな一歩を踏み出すたび、それは恐ろしいものです。手放すことが本物でなければ、そこに見返りはありません。
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注:
1. ハイド、『ギフト―エロスの交易』、66頁。
2. 私が経費を請求する理由は、イベントを共同創造と捉えているからです。イベントを実現するため、私たち一人ひとりが何らかの貢献をします。これは感謝の領域ではなく、共同創造、つまり意図を実現するために資源を結集することです。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-21-working-in-the-gift/
翻訳メモ:
receive:「受け取る」の他に、「いただく」「もらう」とも訳しています。
