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【聖なる経済学】 贈与文化を学び直す③

訳者コメント:
ギフト文化を学び直すという本節の中心的なテーマは、無私無欲で気前よく与えるということよりも、「受け取ることを拒まない」ということです。私たちが社会生活を送る上で必須の感覚として身に付ける「遠慮」が、ギフト文化の障害になります。もちろん、差し出された贈り物を奪ってそのまま逃げてしまうような「フリーライダー(只乗り)」は論外ですが、受け取って生じる「義理」をコミュニティ全体に対する責任と捉えることが、ギフト文化の核心となります。遠慮とは人間関係の回避であり、責任の回避なのです。


②から続く

贈り物ギフトの拒否が私たちの文化の中でいかに蔓延しているか、そしてどれほど多くのことを学び直す必要があるかがお分かりいただけるでしょう。謙遜けんそんや遠慮と呼ばれるものの多くは、実際には繋がりの拒絶であり、他人と距離を置き、受け取ることを拒否しているのです。私たちは与えることを恐れるのと同じくらい、受け取ることを恐れているのですが、実際には、その片方だけを行うことはできないのです。受け取るよりも与える方を進んですることで、私たちは自分を無私で徳のある人間だと想像するかもしれませんが、この状態は逆のことをしているのと同じくらいけちくさいものです。なぜなら、受け取ることがなければ、私たち自身の贈り物ギフトの源泉は枯れてしまうからです。それは、けちくさいだけでなく傲慢でもあります。私たちが与えるものの源泉は何だと考えているのでしょうか。自分自身でしょうか。それは違います。生命そのものが贈り物ギフトであり、生命とそれを育むものすべて、つまり母や父はもとより生態系全体に至るまで、すべてが贈り物ギフトです。どれも私たちの努力が作り出したものではありません。私たちの創造力、肉体的・精神的な能力についても同じことが言えます。この真実を直感的に理解している人は、神から与えられたものだと言うかもしれません。

もちろん、贈り物を断るのが完全に適切な場合もあります。特に、その贈り物ギフトが暗示するような関係性を築きたくない場合はなおさらです。どんな贈り物も「紐付き」なのです。しかし往々にして、私たちが贈り物を受け取るのをためらうのは、特定の関係性への嫌悪からではなく関係性全般を嫌悪していることから来ている場合が多いのです。

「豊かさに心を開く」などというニューエイジのスピリチュアルな決まり文句を聞くと気持ち悪くなりますが、ほとんどの決まり文句と同じように、その裏には真実が隠れています。しかし、受け取ることへの恐れは、自己啓発の導師が布教するように、単に自己肯定感が低いとか、自分には価値がないと感じるからというだけではありません。それは突き詰めれば、与えることへの恐れです。常に、この二つは表裏一体です。この両方が合わさると、人生への恐れ、繋がりへの恐れとなり、これは一種の閉じこもりです。与え受け取ること、借りを作り貸しを作ること、他人を頼り頼られること。これこそが、真に生きているということです。与えることも受け取ることもなく、すべてにお金を払い、誰を頼ることもなく、経済的に自立し、コミュニティや場所に縛られず、自由に移動すること……。これは、個別ばらばらの自己という幻想の楽園に過ぎません。これと対応するのが非執着という精神的な思い上がり、世俗を超越するという宗教的な妄想、そして自然を支配し超越しようとする科学的な野心ですが、それは楽園ではなく地獄であることが判明しつつあります。

非執着、独立、超越といった幻想から目覚めるにつれ、私たちは本当の、広い自己との再合一を求めます。私たちは共同体を切望します。そもそも独立や非執着は幻想に過ぎませんでした。過去も未来も変わらない真実は、私たちはお互いにも、自然にも、完全に、そして絶望的に依存しているということです。また決して変わりようがないのは、依存し、受け取り、愛し、失うこと以外に選択肢が唯一あるとすれば、それは生きるのをやめることだということです。

確かに、非執着にも真実があります。それは私たちが物に執着しなくなると贈与ギフト文化に反映される真実です。この非執着が存在する文脈は愛着と繋がりなのであって、独立や断絶の文脈ではありません。実際、贈り物ギフト自我エゴへの執着を手放す助けになりますが、それは、贈り物ギフトによって自我を超えて自己が拡大するので、相互に繋がる大きな存在の幸福と、自己の利益が一致するからです。贈り物ギフトは、自己が自我を超えて拡大することに役立つと同時に、その結​​果でもあります。つまり原因であり結果でもあるのです。他者との繋がりを感じると、私たちは与えたいと願います。与えれば与えるほど、繋がりをより強く感じます。贈り物ギフトは、存在の根底にある一体性が社会の実体として現れたものなのです。

世界から切り離された人は、世界に対して善も悪もほとんど行うことができません。世界に身を置くことで、私たちは富を賢く使うよう求められるのです[9]。社会的な絆や義理の領域に完全に身を投じることは、寛大な行為です。宗教的な理想に反して見返りを期待するような形で「公に」贈り物をすることで、私たちは自分自身を通り抜けていく贈り物の流れを増やし、与える能力と欲求を増幅させるのです。そこにある考えは、見返りを強要したり、見返りを受け取るように仕向けたりすることではありません。それでは贈り物ギフトとは言えません。その目的は、ニーズを満たし、絆を作ることです。

贈り物ギフトは、物語とともに、人間関係やコミュニティを繋ぐ糸となります。この二つは密接に関係しています。物語は贈り物ギフトの一種であり、物語が贈り物ギフトに添えられることで、その唯一無二で個人的な側面をより一層引き立てます。贈り物ギフトにまつわる物語を語りたくなる衝動は、ほとんどあらがいがたいものです。祖母がこんなふうに言っていたのを思い出します。「ええと、最初はメイシーズで探したんだけど、そこにはなかったから、それからJ.C.ペニーに行ったのよ…。」いずれにせよ、誰が誰に何を贈ったかという物語は、寛大さやコミュニティ意識を育む社会的な証しの一部なのです。

「私はあなたに無償で贈ります。そのお返しは、あなたからであれ、私たちの贈りの環の中の他の人からであれ、適切なものを受け取れると信じています」という贈り主の態度は、深い共感を呼び起こします。何か永遠の真実のようなものが、見返りを期待せず恩を売ろうとしない感謝と寛大さの精神にはあります[10]。ですから、ここに逆説があります。一方では、義理を生み出す贈り物ギフトの働きは、社会的な連帯とコミュニティを生み出します。他方では、私たちの心を動かすのは、義理を生み出そうとせず、見返りを求めない贈り物ギフトであり、見返りを期待せずに贈る人の寛大さが、私たちの胸を打つのです。この逆説を解決する方法はあるのでしょうか。あります。なぜなら義理の源は、個別ばらばらの自己の利己心を無理やり動かす社会的な圧力である必要はないからです。逆にそれは、感謝の結果として自然に、強制されずに生じることもあるでしょう。この義理は自生的な欲求で、それを自然に必然的に生じさせるのは、私たちが感じた繋がりの状態であり、その感覚は、贈り物ギフトを受け取ったり、寛大な行為を目にしたりした時に自発的に生まれるものです。

切り離された自己という論理によれば、人間は根本から利己的だということになります。生物学における利己的な遺伝子であれ、アダム・スミスの経済人であれ、あなたの分が増えれば私の分は減るのです。すると、社会は様々な脅しや動機を使って、個人の利己的な行動を社会全体の利益に合わせなければなりません。今日、生物学における新たなパラダイムが新ダーウィン主義の正統論に取って代わりつつあり、同時に、スピリチュアリティ、経済学、心理学における運動が、デカルトの原子論的自己概念に異議を申し立てています。新たな自己は相互依存的であり、さらに言えば、自らの存在そのものが、自分とつながる他のすべての存在を、存在させる行為に参加しているのです。これがつながり合う自己、より大きな自己であり、それが徐々に広がって、贈与ギフトの環の中にすべての人とすべてのものを取り込むのです。その環の中では、あなたの分が増えれば私の分は減るというのは、もはや真実ではありません。贈り物ギフトは循環し、他者の幸運があなたの幸運となります。この広がりを持った自己意識に浸れば、分かち合いを強制するための仕組みは必要なくなります。贈与ギフトの社会構造は今もなお重要な目的の役に立っています。それは、構成員に互いが繋がっているという真実を思い出させ、それを忘れてしまった者を戒め、贈与ギフト構造を提供して社会のニーズを満たすことです。誰が、誰に、何を贈るか。その正しい答えは文化ごとに異なり、その環境、親族制度、宗教的信念など、多くの要素によって左右されます。贈与ギフト構造は時代とともに進化し、文化的に適切な資源配分を導くのです。

これは本質的に、私たちが貨幣経済に求めていることでもあります。つまり、人間(と人間以外)のニーズを、それを満たせる人間や自然からの贈り物ギフトと結びつけることです。本書で挙げた経済・貨幣に関する提案はどれも、何らかの形でこの目標の達成を目指しています。古い経済体制はこの目標と相容れず、その向かう先は、富の集中、支払い能力のない者(貧しい人々、他の生物、地球など)の贈与ギフト循環からの排除、匿名性と非人格化、共同体と繋がりの破壊、循環性と回帰の法則の否定、お金と財産の蓄積への志向です。神聖な経済はこれらすべての状況とは正反対を行きます。平等主義で、インクルーシブで(全てを包み込み)、個人を尊重し、絆を生み出し、持続可能で、貯め込みません。このような経済がもうすぐ実現するのです。古い経済は長続きしません。今こそ、新たな経済に備えて、その原則に基づく生活を始める時なのです。


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注:
9. 禁欲者の道は、この考え方によれば、「私は(あらゆる形の)富をうまく使う準備ができていないので、準備ができるまでそれを控える」と正直に認めることから生まれる場合にのみ正しいものとなります。実際、私は富をうまく使う人にほとんど出会ったことがありません。これが当然だといえる理由は、富が贈り物ギフトだからであり、才能、活力、時間と同じように、それをうまく使うためには、授与の精神をめざさなければならないからです。

10. したがって、モースは重要な何かを見落としていて、贈与社会の力学を二極化した視点から捉えていると思います。モースが哲学的に反対している功利主義は、人間を社会的存在として軽視し個人主義を強調しますが、それでも彼が受け入れているのは、この教義の根底にあるいくつかの前提、特に人々は主に自己利益によって動機づけられているという前提です。彼は『贈与論』の冒頭でこう問いかけます。「後進的あるいは古風な社会において、受け取った贈与に対して義務的に返礼することを強いる合法性と自己利益の規則とは何か」(3)。この問い自体が排除しているのは、彼の問いの後半部分、「贈与された物が持つ力、受け取った者にそれへの返礼を起こさせる力とは何か」を説明できるような、自己利益と義務以外の働きです。
 モースの贈与力学に関する説明が完全であるとすれば、現代の貨幣を介した制度がそれとどう違うのかという疑問が生じるのも当然でしょう。貨幣という媒体を通して、私たちもまた、自己利益を使って社会的圧力をかけ、贈与が必ず返されるようにしています。金銭的な負債が直接的に類似しているのは、モースの言う「古代社会」で贈与が作り出す義務です。さらに、モースが引用した社会はh、地位上の理由から返礼の贈与が受け取った贈与よりも大きくなければなりませんが、そこには高利貸しも存在します。こうした類似点から導き出せる結論の一つは、昔から何も変わっていないということです。つまり、今日の貨幣経済は古代の贈与経済が機械時代にまで延長されたに過ぎないということです。しかし、事実に同じように合致するもう一つの結論は、モースが現代の考え方や動機を過去の人々に投影しているというこものです。後者の結論には、それを裏付ける証拠が数多く存在し、例えば、多くの旅行者が記録しているように、現地人の率直で子供のような寛大さなどです。それにはクリストファー・コロンブスでさえも心を動かされました(ただし、彼らを殺害したり奴隷にしたりするのを思いとどまるほどではありませんでしたが)。「(アラワク族は)持っているものすべてを惜しみなく分け与えてくれる、とても素朴で気前の良い人たちだ。実際に見たことがない人は信じないだろう。彼らは何かを求められたとしても決して断らない。それどころか、それを分かち合うように誘い、まるで自分の心がそこにあるかのように愛情を示してくれる。」彼の描写は重要な何かを示唆しています。彼らの素朴さが暗示するのは、彼らの寛大さの中には子供のような原始的な何かがあることです。彼らの愛情深さは、モースが言うような社会的に強制された自己利益とは全く異なる動機を示唆しています。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-18-relearning-gift-culture/

翻訳メモ:
reticence:遠慮して口を閉ざすこと→閉じこもり。
energy:人のエネルギーという場合、気力・活力のこと。
autochthonous desire:自生的な欲求。autochthonは土着のもの、自生種。土着ではこの文脈に合わないので。

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