【聖なる経済学】 不蓄財①
訳者コメント:
狩猟採集を行っていた原始人にとって、食糧を蓄積・貯蔵することは意味のないことでした。現代人が持っている原始時代に対する先入観では、彼らの人生は孤独で残忍なものだったということになっていますが、考古学的な証拠から、狩猟採集民の方が農耕民より栄養状態が良かったことが判っています。「もっと働いて将来のために蓄えなければ」という強迫観念は、農耕と共に出現し、機械文明によって極限まで高められたものです。
本節のタイトル Nonaccumulation は、文字通りには蓄積しないこと、蓄財しないことですが、「不殺生」のような宗教的含みを持った一語として使われているので、一般的ではありませんが「不蓄財」とします。
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第19章:不蓄財
富の蓄積がもはや社会的に高い重要性を持たなくなったとき、道徳規範に大きな変化が生じるだろう。私たちを200年間苦しめてきた多くの偽りの道徳原理から、私たちは解放されるだろう。私たちはそれらの原理によって、人間の最も忌まわしい性質のいくつかを最高の美徳の地位にまで高めてきたのだ。
―ジョン・メイナード・ケインズ
富があなたを強欲にする前に、慈善の心を持ちなさい。
―サー・トーマス・ブラウン
本書では、富を蓄積ではなく流れと捉える概念を明らかにしてきました。これは新しい考え方ではありません。富が蓄積されるようになったのは、農耕文明の勃興があってのことです。狩猟採集民は、ごくわずかの例外を除いて遊牧生活を送っていたため、所有物は文字通り彼らにとって「重荷」でした。しかし、農民は定住生活を送っているだけでなく、特に穀物中心の農耕においては、蓄えた食料に生計を依存していました。狩猟採集民は手付かずの生態系がもつ収容力以下の人口で生活していました。干ばつや洪水のときは簡単に移動して順応できました。しかし農民はそうではありませんでした。農民にとって、7年間の豊作の後に7年間の不作が続くことは往々にして起こり得るため、最大の安全策は大量の食料を蓄えることでした。蓄積し貯蔵することこそが最良の安全策であり、そこから富、地位が生まれ、今日私たちが美徳とみなす多くの習慣、すなわち倹約、犠牲、いざという時のための貯え、労働習慣、勤勉、努力が生まれたのです。
食料を貯蔵せずに暮らしていた狩猟採集民は、当面のニーズを満たす必要以上の労働はせず、長い余暇を楽しんでいました。農民の余暇には、少しの罪悪感が伴います。もしものために、もう少し頑張って蓄えておけばよかったのです。農場には、常にやらなければならないことがあります。今の私たちは農民の態度を受け継ぎ、その極限にまで推し進めてきました。その中には農耕における富の定義も含まれています[1]。農耕に続き、このような労働倫理、未来のための現在の犠牲、蓄積、支配・管理という態度は、「機械の時代[2]」に次のレベルで表れ、最も富裕なファラオでさえ夢にも思わなかったような富を蓄積するに至りました。
そして今日、私たちはいわゆる情報化時代にいます。これは同じ態度がさらに強まったものであり、富の蓄積と、対照的な貧困、そして自然界からの疎外が、以前の例をはるかに超えるほど深刻化しています。多くの識者が見るところでは、こうした「時代」はそれぞれ、指数関数的に加速するペースで前の時代に取って代わり、実際には重なり合っています。大まかに言えば、農耕の時代は数千年、産業の時代は数世紀、情報化の時代は数十年続きました[3]。今、多くの人が感じているように、私たちは特異点の瀬戸際にいるのです。おそらく、新しい時代が数年、数ヶ月、数日に凝縮され、そして全く新しい時代、つまりこれまでとは全く異なる、未知の何かへと移行するのです。それについて私たちはまだ多くを知らないかもしれませんが、来るべき〈再合一〉の時代について確かなことは、人類はもはや自然の法則から免れている振りをしないということです。
確かに蓄積は、新たな人類が自然と結ぶ関係とは矛盾する自然法則違反の一つです。個人が消費できる量を超えて資源を蓄えることは、自然界では全く無いとは言えませんが稀であり、多くの形の食料貯蔵(例えば、リスが木の実を蓄えること)には別の説明があります[4]。一般的に、自然システムの特徴は資源の蓄積ではなく、流れです。動物の体内で、細胞は数秒分の糖分しか蓄えませんが、細胞にとっての宇宙である身体からの継続的な供給を信頼します。
進化生物学者は、遺伝子決定論の立場から人間の資源貯蔵行動について二つの説明を提示しています。一つ目は、それが安全、つまり生存上の利点をもたらすというものです。その主張によれば、狩猟採集民や他の種もそうしたいところですが、一般的に彼らにはその手段がないのです。二つ目の説明は、資源をこれ見よがしに蓄積し消費するのは、一種の求愛行動であるというものです。生物学者のウォルター・K・ドッズは次のように述べています。
男女による資源の支配と消費の誇示は激化する(贅沢熱につながる)が、それは資源の過剰な獲得が性的に淘汰された特質だからである。生活水準の高い社会では、自分自身と配偶者、そして子孫の生存を確保するのに十分な資源を支配していることを示すだけでは不十分である。魅力的な誇示をするためには、配偶者候補となる競争相手よりも多くの資源を支配していなければならない。[5]
従来の遺伝理論を前提とすれば、その論理は完璧に見えます。(それを批判することは本書の範囲を超えます。)しかしこの議論は、私たちが置かれている現在の環境、つまり資源不足と不安と競争を自然に向けて投影するという、巧妙な循環論法に基づいています。資源を蓄積し過剰消費する能力が生殖上の利点となるのは、資源が公平に分配されていない社会だけです。贈与に基づく共有の文化なら、配偶者が優れた狩猟者や腕の良い採集者であるかどうかは、子供の幸福にそれほど影響しません。さらに、人類学の証拠はドッズの説とは反対です。狩猟採集民や原始農耕民は、資源の蓄積や管理よりも余暇を常に優先し、生産量を抑えていました[6]。遺伝子に駆り立てられた富を誇示する競争は存在せず、むしろ富の蓄積が招いたのは、高い地位ではなく軽蔑でした。さらに、資源が広く共有されたので、生産能力は実際的な意味を失いました。もし遺伝的に選択されるものがあったとすれば、それは分かち合って部族の幸福に貢献しようとする傾向でしょう。多少誇張して言えば、贈与コミュニティにおいては、合理的な自己利益は利他主義と同じになるのです。
切り離された自己という誤った直観は、私たちに深く浸透しているので、しばしば偽りの形を取りつつも、自明の真理として受け入れてしまいます。「人間の本性とは何か」と問うとき、私たちが遡る想像上の時代では、「各個人が自分のためだけに生きている」、あるいはむしろ「各家族が自分たちのためだけに生きている」という状態だったのであり、共同体はその後で発展し、自然状態に比べたら進歩したのだと想定します。注目すべきは、この分野における二人の先駆的な哲学者、トマス・ホッブズとジャン=ジャック・ルソーは、自然状態における生活について正反対の見解を持っていたにもかかわらず、この点では一致していたことです。ホッブズにとって、人生は「孤独で、貧しく、不快で、残忍で、短い」ものであり(強調は筆者)、以下のようにルソーにとっても孤独なものでした。
一方、この原始的な状態にあって、人間には家も小屋も、いかなる種類の財産もなかった。ただ住める場所に住み、一晩以上滞在することはめったになかった。男女の結びつきは意図せぬもので、偶然や、単に機会があったから、あるいはその気があったから出会ったに過ぎない。また、互いに意図を伝えるために言葉はそれほど必要なく、別れるときもまた同じように無関心だった。母が子に乳を与えるのは、最初は自分のため、その後、習慣によって子が愛おしくなると、子のために乳を与えた。しかし、子たちが自分で食べ物を探しに行けるほど強くなると、自ら母のもとを離れた。そして、常に目の届く所にいること以外に互いを見失わない方法がほとんどなかったため、別れたら間もなく、偶然再会しても互いを認識できなくなった。[7]
当時それが真実であったかどうかはともかく、現在では蓄積が少なくともある程度の安心感、ひいては性的魅力を高めることは間違いありません。しかしそれは、市場や、資本主義、切り離された自己の社会といった状況が生み出すものです。蓄積の精神は〈分断〉の台頭と同時期に生まれ、〈分断〉の時代とともに終焉を迎えつつあります。贈与経済における拡張された自己にとって、蓄積はもはや意味をなしません。
(②に続く)
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注:
1. 採集民と農耕民という二分法は、やや人為的なものであることに留意してください。両者は徐々に融合しましたが、採集民本来の態度はなかなか消え去らず、実際その一部は今日まで残っています。焼畑農民、中世盛期の農民、そしてバントゥー族の牧畜民は、狩猟採集民とほぼ同じくらいゆったりとした生活を送っていました。
2. 産業革命と関連付けられる機械時代は、農耕時代と明確に区別されるものではなく、むしろ農耕時代の上に重ねられたものと言えます。その起源は古代世界の建設社会に遡り、ピラミッドや記念碑の建設には、現代の工場システムを特徴づけるのと同じ分業と、製品、工程、そして人間の機能の標準化が必要でした。それらはまた、現代の工場システムと同様の人間の苦しみ、労苦、貧困をもたらしました。
3. これらの前に存在した、3万年の象徴文化の時代(これは最古の具象芸術の年代とほぼ同じであり、ある見方では象徴言語の年代でもあります)、30万年の火の時代、そして3百万年の石の時代を挙げたいと思います。
4. 例えばリスは、実際には木を植えているので、木の繁殖を助ける役割を果たしています。木はリスに餌を与え、リスは木の繁殖を助けます。これは、スズメバチとイチジクの木、そしてその他無数の生物種間の関係と同じです。このような関係を観察すれば、初期の人類が自然を「贈与」という観点から捉えていた理由が容易に理解できます。
5. ドッズ、『人類の足跡』、123頁。
6. 過小生産の多くの例については、マーシャル・サーリンズの『石器時代の経済学』を参照。
7. ルソー、『人間不平等起源論』、第 1 部。
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原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-19-nonaccumulation/
訳者コメント:
nonaccumulation:不蓄財。文字通りには蓄積しないこと、蓄財しないことですが、「不殺生」のような宗教的含みを持った一語として使われているので、一般的ではありませんが「不蓄財」とします。
