第2話:いつか戻るために先に進む
『今振り返ると、あの時が人生のターニングポイントだった』
人生が大きく変わるような選択は、それほど多くありません。
2年2ヶ月のタンザニアでの生活を終え、日本に帰国してからの約3ヶ月間。
活動が終わったことの達成感。
日本に帰ってきた安堵。
家族や友人に再会した時の喜び。
そして、次のステージへ向かうための期待。
日本以外の国で、私自身を認めてもらえたという経験は、
『どこに行っても、何でもできる』
と大きな自信へと変わりました。
一方で、
目標を失ったことによる虚しさ。
達成感からくる気力の低下。
仕事で成果をあげている同期を見て焦る気持ち。
次の活動先を決めるまでの3ヶ月間は、自信と焦燥が混じり合いながら、自分の人生についてもう一度深く考え直した時期でもありました。

見慣れた駅の改札口を出て、大きなバックパックを抱えてタクシーに乗りこみました。
「大きな荷物ですね」
『アフリカから2年ぶりに帰ってきました』
「えっ!?どこから!?」
『アフリカのタンザニアというところです』
「ほ〜、アフリカから帰ってきた人を初めて乗せたよ」
久しぶりに聞く地元の訛りと方言。
ようやく帰ってきたことを何気ない会話から実感しました。
車は目的地に到着。
2年2ヶ月ぶりに実家に戻ってきました。
『おかえり』
再会した両親の姿は、出発前と変わることなく、いつも通りの笑顔で私を迎えてくれました。
『ただいま』
その日の夜、外食するでもなく、懐かしい料理の味とお酒を飲み、タンザニアの話をツマミに夜通し話をしました。
二人と話しているうちに自分の心に変化があることに気づきました。
それは、私が10歳を過ぎたころから漠然と抱いていた気持ち。
『どこかに自分の居場所があるはずだ』
この気持ちは、実家を離れ、上京した後も変わることはありませんでした。
ですが、タンザニアで現地の人と一緒に暮らし、働いて、少しずつ生活を共にする中で、その気持ちは消えていきました。
正直にいうと、両親に再会した時、日本でずっと抱いていた気持ちが戻ってくるのではないか、と思う自分がいました。
でも、久しぶりに二人と話す中で、
いつも陰ながら私を支え、周りがどれだけ反対しても、二人だけは私の気持ちを尊重してくれたこと。
タンザニアという、すぐに会いに行くことはできない場所で、安全なのかどうかも分からない中、ずっと待ち続けてくれたこと。
当時の私は、両親の気持ちを察することができていませんでした。
色んな感情が混ざり合い、それでも
『ここも私の居場所だった』
と改めて気づくことができました。

「タンザニアどうだった?」
「やっぱり暑いの?」
「治安はどう?」
久しぶりに友人と会い、タンザニアの現地の食事や彼らの人柄、飲み会での振る舞いや冠婚葬祭に参列した話、文化や宗教のこと。
人種や境遇は日本とは異なるけど、そこに住む人たちは自分たちと変わらないことを熱弁しました。
私としては、タンザニアの話は面白い経験談として受け入れられるものだと勝手に思っていました。
ですが、話題は仕事の愚痴の話へ。
当時、友人たちは25歳、会社で働いて3年目、少しずつ仕事を任されるようになり後輩もいる立場に。
彼らが話す内容に、海外の話題は含まれていませんでした。
心の中に少しの違和感と友人の会話に入ることのできない疎外感を感じました。
その時を境に、仕事を早く決めて日本で働かなければいけない、と焦る気持ちが出てきたことを覚えています。
そこからの日々は、農業法人に2泊3日住み込みで体験入社したり、大学の教授に大学院の話を聞いたり、開発分野の専門家と会食に参加したり。
とにかく人に会って、自分の経験を伝え、意見をいただくことに奔走していました。
ですが、どの意見を聞いても自分が納得できる選択肢が浮かんできません。
気づけば、タンザニアから帰国して1ヶ月が経とうとしていた時、いとこから一本の電話。
『タイで農業ビジネスをしている友人がいるけど、興味ある?』
次の活動先は日本で、と決めていた私は迷いました。
タイに強い憧れがあったわけではなく、ただ、このまま日本にいても答えは見つからないかもしれない。
次の活動先を見つけたいという焦りから、とりあえず1ヶ月だけタイに行くことを決めました。
そして、両親には、
『まだどうするか分からないけど、いとこの友人がいるから問題ないよ。
1ヶ月だけタイの活動を見に行ってくる。』
と伝えて実家を後にしました。

4月のタイは、季節でいうと夏。
タンザニアとはまた違う暑さを感じ、空港に着いてすぐ上着を脱ぎました。
バンコクの空港から、国内線の飛行機でイサーンと呼ばれるタイの東北部へ。
空港のエントランスで、いとこの友人(Sさん)と合流。
Sさんは、私の出身大学の先輩で、日本での仕事をやめて、タイの日系会社に就職し、農業を通して、貧困や飢餓、格差を解消するなど、社会的な問題の解決を目指している方でした。
約1ヶ月、Sさんの現地の農場を見学することに。
朝から晩まで、毎日Sさんと会話するうちに、日本にいたときの私はタンザニアの経験をただ人に伝えていただけだったと気づきました。
人に経験を伝えることも大切ですが、自分の次のステージを考えるためにまずやるべきだったのは、
タンザニアでの経験を通して、どんな学びを得て、それをどう次に繋げるのか。
そして、経験したあとだからこそ見える、自分のやりたいことは何なのか。
Sさんと話す中で、自分のことをもう一度見つめ直す良いきっかけとなりました。
1ヶ月の農場見学も終わりに差し掛かり、別れのとき。
タイ語は分かりませんでしたが、農家さんから、いつでもまた遊びにきてね、という言葉をいただきました。
その時のタイの方々の笑顔が、タンザニアのお世話になった方々の笑顔と重なり、胸が熱くなりました。
『やっぱり、自分はタンザニアに戻りたい。
あの人達と一緒に暮らしたい。
でも、今戻って自分には何ができる?
何がある?』
その日の夜、Sさんと最後の食事。
感謝を伝えるとともに、自分がこの1ヶ月間で考えていたことを素直に伝えました。
『やっぱりタンザニアに戻りたい気持ちが強いです。
だけど、技術も社会経験もない自分が今戻ったところで彼らの役に立つことは難しい。
そして、お金が尽きたら日本に戻らなければならない。
ですが、一緒に農作業をしたタイの農家さんと、タンザニアの農家さんが重なって見えました。
仕事を終えたあとの、彼らの笑顔を見るのが本当に好きでした。
私は、あの笑顔のために働きたい。』
それを聞いたSさんは、
「だったら、タイに来たらいい。
ここでは、生産と販売を両方学ぶことができる。
ただし、まずは親御さんと話をすべきだし、一度日本に戻って、それでもタイに来たいと思うなら連絡してほしい。」
そう言ってくれました。
一本の電話がきっかけでタイまで繋がったご縁に感謝しつつ、日本へ戻り両親と話をすることを決めました。

「タイはどうだった?」
タイから実家に戻り、現地の気候や習慣、農場での出来事を話したあと、Sさんとの会話や1ヶ月のなかで考えたことを伝えました。
タイであれば、生産と販売を学ぶことができる。
自分のやりたいことに繋がる選択なんだ、と熱弁しましたが、
「そうか」
その一言だけをつぶやいた両親の表情から、肯定的でないことはすぐに分かりました。
そして、何とか二人に納得してほしいと思う一心から、伝えたいけれど今ここで言うべきではなかったことが頭によぎりました。
両親の気持ちを察することができるなら、いつかタイミングをみてからでも良いのではないか?
そう思うよりも先に、言葉が出てしまいました。
『実は、いつかタンザニアに戻りたいと思っているんだ。
何年後か分からない。
だけど、次行くなら彼らと一緒に仕事をして、生活したいと思っている。』
それを聞いた両親は黙り込んでしまいました。
もしかしたら自分は、両親を追い詰めるようなことを言ってしまったのかもしれない。
アフリカよりは、タイの方が距離的に近いし、親日国である分、心配は少ないのではないか。
そう親に思わせてしまった気がしました。
そして、両親は一言。
「少し考えさせてほしい」
翌日、夕飯を食べながら二人は切り出しました。
「どうしてもタイに行きたいということは理解した。
ダメだと反対したところで、タイに行ってしまうことも知っている。
ただ、これだけは覚えておいて欲しい。
子供が、会いたくても会えない場所に行ってしまうことを嬉しく思う親はいない。
だから、すぐに会えない場所に行くこと、日本の外に出ることを賛成はしない。
だけど、応援している。」
私は一言だけ伝えました。
『ありがとう。』
そして、この両親との話し合いから2週間後にタイへ旅立ちました。
今でも、この言葉を伝えてくれた状況を思い出すことがあります。
それは、辛いとき、困難な壁にぶつかったとき、
『応援している』
この言葉を思い出しては、まだまだもう一度頑張ろう!と思えるからです。
まさか、次に実家に戻るのがはるか先になってしまうことはこの時の私は知る由もありませんでした。
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