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仮女子寮の加藤記念館

京大史記 京都大学創立九十周年記念協力出版委員会 編著京都大学創立九十周年記念協力出版委員会 1988.8 p. 645


 京大の女子寮が完成する前の時代、吉田山の麓である下大路町に仮女子寮として使われた建物があった。大正時代、すぐ北に柳宗悦が住んでいた。
 この記事では、正式な女子寮が開かれるまで闘った学生らの記録をまとめていく。

柳宗悦

 民藝運動を進めていた人物であり、関東の大学で教鞭をとっていた。

 大正十三年四月、京都市上京区大路六六番地に移る。

柳兼子の生涯 : 歌に生きて
小池静子 著 勁草書房 1989.11
p. 115

 吉田下大路の住居は、宗悦の友人清閑寺侍従の口利きで小西という人の持家を借りたもの黒谷の真如堂や法然院が近く、下大路の坂の石段を上りつめた傾斜地に新築された眺望の良い家だった。北側はからは京大が、南側には平安神宮や矢坂の塔が望める。先年(平成元年日七月)私も訪れる機会を得たが、宗悦の注文によるというガラス障子をはじめ、柳宗悦が住んでいたころのまま、全く手を加えていないということで、十数年の年月に家はもとより古び荒れているが、却ってそれが赴きと親しみとを感じさせた。この家での暮らしから、宗悦の京都時代は始ったのである

評伝柳宗悦 水尾比尾志 ちくま学芸書房 筑摩書房 1992.5.1 p. 159

 柳宗悦の友人志賀直哉が京都に住んでおり、以前から京都移住の誘いを受けていた。関東大震災がきっかけとなり、その翌年に家族で京都に移り住んだ。宗悦の同級生で侍従の清閑寺が吉田神社の近所に自宅があり、その口利きで吉田山中腹の古い家にした。

柳兼子の生涯 : 歌に生きて小池静子 著 勁草書房 1989.11 p. 115

 京都に引っ越してからは、夫婦で同志社に勤める。この番地に住んだ時期は長くなく、数年で京都市内の別の家に引っ越す。
 文献によっては「上京区大路六六番地」「上京区吉田下大路六十六」「京都吉田下大路六十六の六」ともある。いずれにせよ、近衛坂の近くである。

2026年5月6日追記

 近衛坂に南面する吉田下大路町66-6はご近所の方曰く、小西さんという方が住まれていた。後述する小西夫妻の仮女子寮はもう一筋ほど南側になる。

女子懇の座談会

  熊野寮建寮は総長官舎へ吉田寮生を中心とした学生らの直接交渉の結果だったことは以前書いたが、女子寮もまた直接交渉していた。

 1951(昭和26)年に結成された女子学生懇談会がその役目を果たす。結成と同時期に開かれた座談会の様子を京大新聞の前進である、學園新聞が伝えている。

學園新聞 第607・608号 1951年7月1日

 大学への要望として真っ先に出てきたのが女子寮の設置だ。

“女子寮を作ってほしい”
司会 では最後に大学に対する不満とか、こうしてほしいというようなことを。
今井(ミ) それなら大ありですわ。(笑声)まず第一に女子の寮をつくってほしいこと。
足立 鴨沂の女子寮が男女共学になって空いてるのを買いとってほしい。
塚本 宇治からこちらへ移るとき、鴨沂寮へ入れるっていうんであてにしてたんですけど、借りるんじゃなくてはっきり大学が買いとるなり新しく建てるなりしてほしいとおもいます。

學園新聞 第607・608号 1951年7月1日

 文中の「鴨沂の女子寮」「鴨沂寮」について気になるので調べてみた。京都第一高等女学校が共学化し鴨沂高等学校になったのは1948(昭和 23) 年だ。国会図書館で調べると、1950~1952年の植物学雑誌に「左京区北白川上終町98鴨沂高等学校寄宿舍」と記載がある。この番地は、戦時中は京都帝国大学の南方特別留学生が国際学友会京都寮として利用していた点は以前記載した。戦後も内乱で帰国できないインドネシア留学生を中心に20名が居住していた。1949(昭和24)年のインドネシア独立後に寮を空けたとすれば、翌年から鴨沂高校の寄宿舎もしくは寮として利用されたとしてもおかしくない。座談会いわく、その建物を京大の女子寮として借りようとしていた可能性がある。場所は、農学部グラウンドから京都芸術大学の間くらいだ。

 ただ、鴨沂高校の資料『学校より家庭へ』1934(昭和9)年4月9日の臨時増刊号曰く、高校の寮が存在したのは浄土寺西田町108は吉田山のすぐ北にあたる。鴨沂高校の寮が50年代にインドネシア留学生らが戦時中に住んでいた寮とは異なるようだ。となると、50年代に京大の女子寮候補にされていた建物がどちらなのか、またほかにもあるのかはまだ分からない。
 鴨沂高校の資料をお探しいただいた先生、ありがとうございました。

女子懇による直談判

 女子懇親会(懇談会とも)の結成は學園新聞いわく反戦と平和を名目にしていたが、後述するように皆から相談をよく持ち込まれる女子学生が立ち上げた会だ。

平和グループ結成か 京大女子懇談会開く
新制、旧制にわかれてバラ〱状態の京大女子学生が、まとまったグループを作ろうと有志が相談し、六月十六日(土)午後三時「女子学生懇談会」を開いた。

學園新聞 第607・608号1955年7月1日

 女子懇は花谷会館の二階で活動していた。

原爆投下の広島、調査団襲った台風 記憶伝える京大・花谷会館が解体 2021年9月17日 16時00分 永井啓子

 この本部構内に2021年まであった花谷記念館も戦争と絡む歴史があるが、今回は割愛する。
 1951(昭和26)年、女子学生らによる懇親会が開かれる。同じ1951(昭和26)年7月1日付の學園新聞には、それまでトイレなど基本施設もなく不便を強いられ、下宿は女子であることを理由に断られるなど明確に性差があった。下宿では隣りの部屋が男子学生で、ふと見ると立っていたり落ち着かないといったエピソードもある。こうした受け入れられる体制が整っていない中で入学し、大学に訴えざるを得ない切実な状況が伝わってくる。
 學園新聞の座談会にも参加していた梯葉子は、後年の大学文書館の聞き取り調査で女子寮の建寮運動を振り返っている。いわく、男子学生も含めて集めた署名を当時の14代総長服部へ直接渡すも、それを事務局長に渡してしまう学長を見て、学生らは沸騰する。

で、行ったら、代表5人としか会わないという。 代表になる人を、できるだけ恰幅のいい人を5人揃えて、その人が署名を持って行ったんですが、さっき言った内藤事務局長が隣りに座っていて、服部学長と内藤事務局長が並んでいた。そこに5人が入っていって、私は外で見ていたんですよ。そして、その署名を学長に渡した。学長は、自分より実務的に力のある内藤事務局長に渡したんです。私にはそう見えたんです。代表はそれまでは比較的おとなしい人たちだったんですけど、それを見たとたん、闘争に変わっちゃったんです。小野理子さんという、今神戸大学の教授をしてらっしゃるんですけど、その方がね、目の前にこんなテーブルがあったんですが、それをドスンとたたいて、学長それは何事ですか、とこうやったんです。それからみんながわあーつと言い出しちゃって大変なことに。そして、ついに吉田山の山麓にちょっと小さ-68な建物があって、それを改造して、一部屋二人かな、全体で十何人しか入れないところを作って。それは大学が買い上げた建物で橋本記念館と呼ばれていました。

京都大学大学文書館研究紀要第5号2007年<聞き取り調査>川合一良民氏 葉子氏「同学会・原爆展 ・女子学生懇親会等について」

 川合葉子は振り返ってこう語る。「そういう歴史があって。あれは獲得した、という感じがしましたね。で、一番最初に入った方が寛久美子さんという、神戸大学で中国文学をやっている方です」。
 特徴的なのは、運動を率いた人々のうち寮に住まなかった人も多い点だ。名前の出た島田久美子はより困窮者に譲って仮女子寮をすぐに出たし、梯葉子も実家が京都にあった。署名した男子学生も含め、多くの人が自分のためでなく利他的に動いていたことがわかる。

 ひょっとすると、戦後の京大で最初に学生から起こした建寮運動のきっかけは女子懇かもしれない。

農学部加藤記念館

 場所は近衛通り東端からさらに東の吉田山の麓あたりだ。

立命館近代京都オーバレイマップ(昭和26年頃京都市明細図総合資料館版)

 島田久美子曰く「文人好み風に建てられた、二階建て離れ付きのかなり古びた大きな民家」だった。長い間使われていおらず荒れた家屋には虫がいたが、それでもかまっていられないと13名の女子学生が職員で管理人の小西夫妻と台所などを共有する形で同居を始めた。二畳の玄関にすら一人住んでいた。
 近衛坂一つか二つ、南の筋を東に向かった突き当りにあったと想定される。その周辺を調べると、建物入り口に小西の文字を見つけた。

地面に右から読んで小西の文字
2026年2月23日撮影

 国会図書館で調べると昭和のはじめまではこの番地に住んでいた人物がもいるが、空き家の期間もあったとみられる。いつの時代からか京大農学部のいち施設となった。農学部関係の資料に時々記載がある。

きっかけはリカードの『原理』の講読会であり、四九年九月二九日にはじまっている。場所は吉田山西側中腹にあった橋本記念館の離れを使うことが多かった。記念館は山荘風のつくりで、母屋と渡り廊下でつながっている離れは、ふすまを外すと広さ二十畳はあったろうか、少人数には格好の研究会場であった。庭の緑に囲まれた閑静な敷地は、当時、教室事務主任であった中西崇高夫妻が住込み、立派に管理されていた。

学と人 : 柏祐賢教授の歩み 柏祐賢著作集編集委員会 編
出京都産業大学出版会

1988.11 p. 135

 戦後間もない1946(昭和21)年頃の農学部による1週間にわたる農業簿記講習会で宿泊所として利用されている。

例えば受講生は, 毛布1枚(簡易宿泊所:橋本記念館)および1日当たり米3合(26年から28年までは4合)と弁当箱を持参しなければならず, また, 事務局は空腹を満たすために21年には南瓜10貫を給食するなど、食糧難時代には空腹対策も講じなければならなかった。「空き腹に見物もできず, 宿にいて天井の節穴じっと睨めり」受講生の講習会感想文の一節であるが, 当時の情景が偲ばれる。

農業計算学研究 (25) 京都大学農学部農業簿記研究施設 [編]京都大学農学部農業簿記研究施設 1992-12 p. 85 桂利夫:農業簿記研究施設活動に関する若干の覚え書

 加藤記念館の由来は定かでない。文字通り、農学部の加藤という人物を記念したものなら、加藤教授という人物がいる。また、農学部同窓会にも名前のあった教授が吉田山の反対側、西斜面に住んでいた。

仮女子寮の暮らし

 京大初の女子入学は戦後、1946(昭和21)年になる。当時、吉田寮(当時は学生寄宿舎と呼ばれることが多い)は男子しか住めず、また地塩寮も同様であった。1951(昭和26)年の京大における女子学生比率は3%程度だ。また、1955(昭和30)年のデータでは、四大への進学率は男女でそれぞれ13%と2%である。

【特集】京大の女子学生とジェンダーバランス 京都大学新聞2023.05.16

 学生課長角南正志名義で借り受けた橋本記念館を仮女子寮とした。

學園新聞742・743号合併号1954(昭和29)年3月22日

 昭和29(1954)年5月、長年の懸念であった京大女子寮開設問題が、さしあたって農学部の橋本記念館を角南正志学生課長が個人名義で借り受ける形で落着し、7室(1室2名)、維持費1人当たり100円で、開寮されることになった。当時の女子学生数は約200名で、初回の入寮希望者は19名であった。募集手続きは学生部が行ったが、入寮者の選考はすべて女子学生懇談会にまかされたのである。

京都大学百年史 資料編3 第2章学生部第1節総記 p. 1150

 偶然かもしれないが、この時の入寮希望者数は、後に完成した女子寮の収容人数19人と等しい。

女子懇のメンバー

 1951(昭和26)年7月1日の学園新聞女子学生座談会参加者をはじめ、特に名前の残っている中心人物は梯葉子、山内理子、島田久美子だ。それぞれ、後の川合葉子、ロシア文学者の小野理子、中国文学の筧久美子である。 

島田久美子(新姓:筧)

 同じく中国文学者の筧文生と結婚した。筧久美子いわく、角南学生課長は一見とっつきにくいが、じっくりと学生の意見を聞いてくれたという。強面であることは同時代の他の学生も述べている。

京大史記 京都大学創立九十周年記念協力出版委員会 編著京都大学創立九十周年記念協力出版委員会 1988.8 p. 644

山内理子(新姓:小野)

 1952(昭和27)年文学部入学、1956(昭和31)年文学部中国文学科卒業。関西女子学生大会では司会を務めている。梯葉子のビラまきに応じて一回生で女子懇の立ち上げメンバーとなる。学長に迫ったのは2回生のときだ。

燎原184号 小野理子さんのこと(上)-共学が始まったばかりの京大で- 川合葉子2009年9月15日

 夫は荒神橋事件で無期停学となった小野一郎である。これがきっかけで8割の学生が参加するストライキが起きた。同学会委員長として停学処分にあった小野一郎は当時交流の少ない東側諸国のひとつへプラハ経由で留学準備をしており、山内理子は小野一郎と結婚した際、新郎不在の結婚式を挙げている。

燎原185号 小野理子さんのこと(下)-ロシア文学者に華麗な変身- 川合葉子 2009年11月15日

 山内理子が視界を務めた関西女子学生大会はその名の通り関西中の女子学生が集まった学生の自治大会で、どの大学でも女子寮がないことが課題になっていた。

燎原184号 小野理子さんのこと(上)-共学が始まったばかりの京大で- 川合葉子2009年9月15日
燎原185号 小野理子さんのこと(下)-ロシア文学者に華麗な変身- 川合葉子 2009年11月15日
京都大学大学文書館研究紀要 河西秀哉 <資料紹介> 1953年11月 関西女子学生大会

梯葉子(新姓:川合)

 1951年入学。梯葉子は京大文学部出身の大学教授梯秀明の長女だ。梯葉子の在学中は立命館で教授をしている。2回生で文学部から理学部に移った。また、周囲から何でも相談される人だったので、その流れで三回生のときに女子懇談会を立ち上げた。医学部の川合良一と結婚し、大学文書館の聞き取り調査に夫婦で応じている。このとき、角南正志学生課長は総合原爆展にも協力したことが残されている。夫は元吉田寮、京都府寮連合初代委員長。

・京都大学大学文書館研究紀要第6号2008年<資料紹介> 1953年11月 関西女子学生大会 河西秀哉
・京都大学大学文書館研究紀要第5号2007年<聞き取り調査>川合一良民氏 葉子氏「同学会・原爆展 ・女子学生懇親会等について」
燎原246号 川合葉子さんを偲ぶ 小畑哲雄 2020年12月15日

追悼!川合葉子さん(本会常任世話人)夫君とともに貫く「非核平和の生涯」本会代表 望田幸男

父・梯明秀のこと立命館百年史紀要 12巻, p. 63-70, 発行日 2004-03

 学生課長角南正志は「厚生補導」に京大の学生課長時代の思い出を残しており、特に印象に残った二つの事件の内一つに、女子学生が男子学生に殺害された事件をあげている。この件も別途深堀していきたい。

2026年5月6日追記

 66-6の番地も66の番地も、その昔は小西という方の所有だった。両方とも同一人物かもしれないしご親戚かもしれない。柳宗悦の家と仮女子寮は近所ではあるが別々であった。京大史記に掲載された仮女子寮として使われていた建物は石畳の坂の突き当りに現存している。

まとめ

 後年、自治組織女子懇親会によって入寮者選考が行われた。女子懇は女子で切実な悩みを共有しあって自治組織化し、学長に直接掛け合い、大学職員から協力を得て立ち上げたものだった。吉田山の麓にあった仮女子寮の設置が、京大最初の学生による団体交渉かもしれない。

年表

・1946(昭和21)年 京大に初の女子入学
・1951(昭和26)年 女子学生座談会開催
・1954(昭和29)年5月 仮女子寮設置
・1959(昭和34)年 女子寮設置
・1974(昭和49)年 吉田寮女子入寮開始、のちに定着せず 同年熊野寮女子入寮開始
・1985(昭和60)年 吉田寮女子入寮開始
・2019(平成31)年3月27日 女子寮新築竣工式 

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