南方特別留学生の京都寮
↑googleストリートビュー2024年11月の北白川山田町70周辺
これまで、戦時中に京大の寮として開かれた光華寮や吉田学寮(吉田寮とは異なる)について取り上げた。本記事では、北白川にあった京都寮について記載する。南方特別留学生が過ごした場所であり、原爆で亡くなった広島の南方特別留学生が最期を迎えた場所でもある。
北白川上終町
国際学友会の京都寮は北白川上終町98にあった。現在の北白川通りに面し、「北白川上経町」と書かれた資料もあるが、存在しない地名なので誤字とみられる。

北白川通が十二間道路と呼ばれるようになる拡幅工事までは、細い道だったことが航空写真からわかる。

上終町周辺の北白川通拡幅工事は1951(昭和26)年頃とみえる。
戦中における京大の留学生受入方針
戦時中、日本の占領地から王族の子弟を本土で留学生として受け入れる南方特別留学生という制度があった。占領地への融和政策でもあり、教育という形での人質でもあった。とくに、京都帝国大学は留学生が集中する場所だっだ。
大学に行っているものは、各地域とも京都大学に集結し、高等諸専門学校については、蒙古、満州は仙台、盛岡、青森、山形、中国は主として京阪地方、南方は、前に書いたように、中国、九州と云うことにした。各補導団体は、留学生の集結する都市に、寄宿料を経営し、学生の面倒を見ることとした。
確かに、戦時中の台湾出身の留学生である陶堤土は第一志望と異なる京大から合格通知が来たとある。
私は二高(旧制)に在学していたが、東北大学を第一志望に公言したつもりが、京大から合格通知が来てしまった。そして、光華寮との深い関わりが始まった。
全国の大学のうち、特に京都が留学生受け入れの集結に選ばれた理由は明確でない。想像するに、大規模な空襲に遭っていない点や、留学生への日本文化の学習といった面があるかもしれない。
大学側としては、受け入れの条件の一つに大学が寮の経営主管である点を挙げていた。
京都帝国大学総長の羽田亨氏は、この非常措置に関する会議の席上、従来の留学生教育が学校内における教育と日常生活の補導とが、分離されている点を指摘され、京都帝大が留学生を受け入れる条件として、寮生活の指導まで委せて欲しいといわれたのであった。その結果、京大正門前にあった洛東アパートなど、数軒の留学生寄宿寮の経営主体を、京大学生課の所管に移すこととなった。
ということは、光華寮も吉田学寮(吉田寮とは別)もこの京都寮も、れっきとした京大の寮だった。文中の洛東アパートは光華寮の前身である。南方特別留学生らは当時の羽田亨総長とも会っている。
南方留学生十二人挨拶ノ為来室ビルマ、ジャワ、仏印等異色トリドリなり応対の挙止言語思ひしよりも生彩に富めり
1945(昭和20)年4月15日、北白川上終町98のアパートが、京都寮として開寮した。
21人の南方特別留学生が京都帝国大学に就学することになった。4月15日国際学友会は京都市左京区北白川上終町98番地にあるアパートを貸り上げ京都寮とし,そこだけでは狭かったので,同区北白川川蔦町20番地に寮の分室を設けた(2)。
参考:
・国際学友会の歩み 財団法人国際学友会編
圓光寺にあるサイド・オマールの墓
広島の留学生寮である興南寮で原爆に被爆し、京大病院で亡くなったマラヤ(現在のマレーシア)ジョホール州王族のサイド・オマールという留学生がいた。

終戦後の帰国のため広島から移動し、その途中に京都寮に立ち寄った。直前まで一緒に行動していた南方特別留学生の手記が残っている。
私がサイド・オマールに最後に別れたのは京都でした。私たち五人(パンゲラン・ユソフ、アリフィン・ベイ、アディール・サガラ、サイド・オマールと私)は広島を離れて東京に戻る途中でした。京都に途中下車して国際学友会京都寮に到着するや、サイド・オマールは気分が悪くなったため、私達と一緒に東京へ帰るのを急遽取りやめました。やがて、サイド・オマールは一九四五年九月三日の月曜日に死んだ、という知らせが届いたのです。
オスマン・プティ 著, 小野沢純 [ほか]訳
勁草書房 1991.7
埋葬はムスリム式にのっとるべく、京都帝大の南方特別留学生や学生課長らも奔走した。とくに、同州出身のアブドゥル・ガダル・ユソフはじめ4人の留学生仲間は入院中から親身に看護し、泣きながら大日山へ柩を担いでいったという。
9月4日(火)
午前10時ごろ, 京都北白川教会の奥田成孝牧師のところに, 京都大学法学部在学中のマライ留学生アブドカダル・ユーソフと, 国際学友会京都寮の寮長夫人との2人が訪れてきた。マライ留学生サイド・オマールが昨夜死亡したので墓地を探している。キリスト教の墓地でもよいから入れてくれないかとのことであった。しかし, キリスト教団体の墓地は狭く, 余裕もなかった。そこで奥田牧師は光田作次・京都大学学生課長をわずらわし, 左京区役所に市営墓地の使用を申し込み, 午後5時数分前に使用許可証を入手することができた。イスラム教徒は死後24時間以内に, しかも日没前に埋葬しなければならないというので急いだのである。
江上芳郎 南方特別留学生と原子爆弾 36(520)
オマールさんが京都で下車後に寄宿した国際学友会の館長夫人が奥田さんの妻と遠縁のことから、留学生とともに教会を訪れ埋葬への協力を要請。
その後、遺族が来日し京都で墓地を探すも見つからず、週刊朝日が墓地の荒廃ぶりを取り上げた。そのことを知った京都市民の有志が立ち上がり、南禅寺大日山の墓地から圓光寺へと改葬される。このとき、武者小路実篤から贈られた碑文が建立された。芝は村山たか女の墓の近くから移植されている。江上芳郎らにより90年代に調査され、さらに修学院小学校の地域学習をきっかけに、当時の教員である早川幸生氏によって見直された。現在も命日の9月3日もしくは4日が近づくと、サイド・オマール忌が催されている。有志らによって、北白川教会から国際学友会京都寮跡へ歩き、圓光寺の墓地でお参りを毎年されている。

オマールさんの墓に祈りを捧げる人たち=2025年9月7日午後1時26分、京都市左京区、八百板一平撮影
サイド・オマールに関しては多くの文献に記録が残っている。
・生死の火 : 広島大学原爆被災誌広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会 編 広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会 1975年 p. 341
・季節を歩く 被爆死75年 京でたどるオマールさんの足跡 (文・写真 小泉 清)=2020.10.20取材
京都寮の寮母さん
京都寮の話に戻る。墓の移設に奔走した園部氏いわく、サイド・オマールと一緒に埋葬されている女性がいる。
このオマールの墓の中には、やはり身寄りのない女の人の骨が一緒に埋葬されている。
この骨壺は、円光寺に改葬されてから一年経った時、大日山のオマールの遺体を埋葬した場所から発見されたものである。
「オマール君の墓ができてから一年ばかり経った時のことでした。石虎の主人が、大日山のオマール君の墓の跡を整理していましたら、こんなものが出てきましたと言って、骨壺を一つ持ってきました。誰のものだろうかと方々で調べているうちに、オマール君に付き添っていた女の人の遺骨で、自分の死後はオマール君の墓に埋葬して欲しい、と遺言したらしいことが、墓地の管理人を通じて分かったのです。その女性の遺族の者が知られないように埋葬したのかもしれません。しかし、改葬した墓に、無断で埋葬するのもどうかと思い、京大病院でその女性の身許を調査して欲しいと頼んだのですが、戦後のどさくさの時だったので書類が分からないとか、担当の者がいないので調べようがないとか言って、それはもう本当に冷たいものでした。そこで、仕方なく、京都新聞を通じて、その女の人の遺族探しをしたのですが、結局分からずじまいでした。その骨壺は、現在、オマール君の墓に一緒に埋葬してあります」
サイド・オマールを診察した浜島博士曰く
・北白川にあった学生寮の寮母さん
・立派な方で、皆から小母さんと慕われていた
・戦時中、40歳前後だった
・十二防の坂を上り切った家並みの奥まった長屋の一画で若夫婦と同居していた
と、ここまで判明している。浜島博士いわく名前は思い出せないが、近所に住んでいたので戦後も会ったことがあり、家に行けば思い出せるということだった。しかし、浜島博士はすでに京都を離れており、それ以上は身許やサイド・オマールとの関わりは判明していない。著者も悔しそうだ。
死後に、自分の骨を異国の青年の墓に埋葬して欲しいと遺言せしめたものは、いったい何なのだろうか。
異国で、肉親に見守られることもなく、孤独のうちに死んでいかなければならなかった者に対する不憫さのためだったのだろうか。それとも、身寄りがないために無縁の墓に埋葬されることが最初から分かっているために、死の直前になって、最後まで付き添ったオマールの墓で一緒に眠ろうと考えたのかもしれない。あるいは、オマールがその人の中に、自分の母親を見出していて、二人だけの秘密にしておいたのかもしれない。
1961(昭和36)年9月3日の改葬時には、すでにこの女性の骨壺が埋葬されていた。京都寮の寮母であれば、最初の埋葬時に奔走した一人である、寮長夫人の可能性もある。
ここで、当時の京都寮の寮長は山口武という人物とみられる。ただし、この人物は明治45年に文献を残しているので、第二次大戦中なら少なくとも60代以上だ。山口武の夫人が同世代とすれば、「身寄りがない40歳前後の女性」という浜島博士の推測から外れる。京都寮の寮母さんに関して、詳細をご存じの方がいたらお教えください。
戦後の京都寮
国際学友会理事の金沢謹が残した著作「思い出すことなど」に京都寮の記載があり、戦後すぐ国際学友会によって接収された。吉田学寮と同時期とみられる。GHQによって資料の廃却を命じられたたため、この文献も僅かな会計報告をもとに記憶で書かれている。中山士郎の著作「天の羊」でも金沢謹は取材対象として登場するが、サイド・オマールの写真を見つけたと手紙を出した直後に亡くなり、写真の行方は分からなくなった。
1950(昭和25)年4月時点で政府補助金は停止した。京都寮にはインドネシア留学生14名を含む20名が在籍している。日本にとっては1945(昭和20)年が終戦だが、インドネシア独立の1949(昭和24)年の後に帰国する留学生もいた。
北白川上終町98で検索すると、1950(昭和25)年頃は京都第一高等女学校(のちの鴨沂高校)の寄宿舎として利用されている。
昭和23年ごろ、上終町98は山田町70に再編される。同住所は京大教授飯沼二郎およびその妻である詩人に飯沼文子(ペンネーム飯沼文)が住んでいる。この住所への飯沼文子の転居は1955(昭和30)年3月だ。過去の空中写真を見る限り、戦後から現在に至るまで同じ建物が立ち続けているようなので、ひょっとしたら戦時中の京都寮と同一の建物かもしれない。もしそうなら、ある種の戦争遺構として調査され記録に残される事を願う。
参考:
・国際学友会のの留学生史料の整理・分析にかかる基礎研究報告書 2019(平成31)年3月 千葉由利子
・2019年度学生支援の推進に資する調査研究事業(JASSOリサーチ報告書)戦時戦後の留学生政策史に関する調査研究-国際学友会の留学生受入れ事業を中心として- 2020年2月 平野祐次
・私製京阪神業種別電話番號簿 第1輯 森野二司 日本電話普及會 p. 193
・詩学 10(3)[(85)] 詩学社 1955-03 p. 7
・被爆した南方特別留学生に関する記憶と表象の史的展開について 平野裕次 原爆文学研究会
まとめ
戦時中の4月15日に開寮した京都寮は、南方特別留学生を住まわせていた。ここは、京大が管理を主管する、れっきとした京大の寮だった。原爆で亡くなった南方特別留学生のサイド・オマールが死の直前に過ごした場所であり、彼の看病や埋葬のため、南方特別留学生や京大関係者らが奔走した。さらに、荒れた墓地からの改葬のために京都市民らが立ち上がった。このとき、同地に埋葬されていた京都寮の寮母とみられる人物の骨壺も一緒に改葬された。国際学友会によって戦後は接収され、京都第一高等女学校(のちの鴨沂高校)の寄宿舎として利用された時期もある。その後、京大農学部教授飯沼二郎とその妻文子が住んでいた。
サイド・オマールと同じ墓地に埋葬を望んだ人物と、京都寮で過ごした留学生達について、より詳細を追っていきたい。
