吉田山の智福院と東洋花壇
↑2026年5月4日16時39分ごろの安養院
吉田山の南端の吉田下大路町、近衛坂の頂には智福院という寺社があり、幕末は維新志士らの密儀の場だった。大正時代には東洋花壇という文化人の集まる料亭であった。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』のあとがきに書いた場所だ。

吉田下大路町六五、近衛坂の上りかど、吉田神葬墓地の丘の上に存在した。
この記事では、先行文献として田中緑紅、福良竹亭、竹村俊則 、樺山聡らを主に参照した。各章の末尾か文末に参照した文献を示す。
智福院の由緒
三浦周行が1923(大正12)年初夏に東洋花壇へ送った扁額にある智福院の由緒によると、法輪山智福寺といい吉田神社より前からあった。開基は弘法大師。最初は天台宗、その後は真言宗になり曹洞宗(禅宗)になった。1467(応仁元)年の乱で焼けてしまう。
江戸時代の初め、霊元上皇が修学院御幸の際に立ち寄って蹴鞠をしていた。また、その子である有栖川宮職仁親王もよく立ち寄り蹴鞠や紅葉見物をしている。
表記ゆれに知福院ともある。
[旧都巡遊記稿 上京区之部 著 秋元春朝 大正7年 p. 133]
[維新勤王史蹟巡 東田清三郎 編 昭和10年 p. 50]
[新撰京都名所図会 巻1 (東山の部) 竹村俊則 著 白川書院 1958年 p. 102]
[織仁親王行実 高松宮家 1938.6]
[京都叢書 第16巻 増補 京都叢書刊行会 昭和8至10年 p. 361]
[吉田叢書 第3編 吉田神社 編 理想社 1965.6 p. 304]
幕末の密儀
幕末は維新志士らの密儀の場所として使われた。岩井武俊によると、密儀の場として使っていた維新志士は玉松操、香川敬三、中村半次郎、北島秀朝である。また、変名だが矢野某、三宅某という人物もいた。上記メンバーの中で、中村半次郎以外は岩倉具視の実働部隊という共通点があり、西郷隆盛の遺訓集(実質的に書いたのは山田濟齋)『南洲翁遺訓』の二五に、ほぼ同じ並びで名前がある。
とくに、玉松操は岩倉具視に錦の御旗を造るよう進言しデザインした人物である。岩倉具視は品川弥二郎が大久保利通に錦の御旗を造るよう伝え、山口県の養蚕所で密かに作られた。錦の御旗は鳥羽伏見の戦いなどで権威という威力を発揮する。玉松操が岩倉具視と出会ったのは50代以降で、1872(明治5)年2月15日に東京から京都の田中村に戻り晩年を過ごす。
維新志士らが密儀の場所としていた話は興味深いが、上記メンバー側の自伝や資料から吉田山の智福院が登場しない。玉松操は質素な人で死後も短冊二枚しか残していない。今後新しい史料が掘り出される事を願う。
智福院は山間にあり人目を避けるには絶好の場所だった。ただ、近所には会津藩本陣のある金戒光明寺もあり少人数での密儀に使われていたと想像される。密儀の場所であった本堂東の智福堂には維新志士ら三十数名の位牌が祀られている。
[西郷南洲遺訓 (岩波文庫) 山田濟齋 編 岩波書店 1939.2 p. 83][維新の史蹟 大阪毎日新聞社京都支局 編 星野書店 1939年 p. 155]
[玉松操 : 復古の碩師 上 (人物研究叢刊 ; 第3,4) 伊藤武雄 著
金雞学院 昭和2年]
「戊辰戦争『錦の御旗』 製作語る書簡」『朝日新聞』2024年2月14日
血まみれの日本刀
岩井武俊によると、1869(明治2)年9月、智福院裏の土塀にぐさりと刺さった血の付いた日本刀がみつかる。同年9月4日に大村益次郎が襲撃されており、下手人の一人である神代直人の刀とされる。刀は谷家に保管されている。
とあるのだが、現場は京都三条木屋町上ルの旅館であり、遠く吉田山南の智福院まで血の付いた刀を持って逃げるのは現実的でない。竹村俊則や田中緑紅も眉唾に思ったのか、日本刀の話は文献に載せていない。
維新の史蹟 大阪毎日新聞社京都支局 編 星野書店 1939年 p. 155]
[神代直人の捕縛―大村益次郎襲撃犯に対する山口藩の対応― 伊藤一晴 山口県文書館研究紀要 (山口県) 43 p. 69]
智福羊羹
岩井武俊によると、近所の松岡何某家の妻と、同家で乳母だった谷ぎん(きん、銀とも)という老女が維新志士らの密儀のたびにこっそりと茶菓子を運んでいた。谷ぎんは1939(昭和14)年頃の亭主である谷誠一郎の曾祖母である。ぎんが笹の皮でちまきのように包んだ羊羹が維新志士らに好評で、維新後の再会で所望された。毎年の慰霊祭でも参列者に渡されるという。
谷ぎんは祀官の家に仕えていたともあり、松岡家がそれかもしれない。羊羹エピソードの真偽は定かでないが、東洋花壇の絵葉書に写真が残っている。

志士所好 我亦嗜
俳人の岩井藍水が「古茶一碗窓に香のあり竹そよく」と俳句を残している。
また、1934(昭和9)年4月23日の医師婦人会で東洋花壇の主人が製法を伝えに来ている。
[維新の史蹟 大阪毎日新聞社京都支局 編 星野書店 1939年 p. 156]
[維新勤王史蹟巡 東田清三郎 編 昭和10年 p. 50
[京都医事衛生誌 (482) (京都医事衛生社, 1934-05) p. 31]
神仏分離から鶏料理屋へ
吉田神社の天満宮社はもともと智福院にあったが1852(嘉永5)年に現地に遷座された。1872(明治5)年、正式に吉田神社の末社になる。
田中緑紅によると、明治初年には神仏分離によって智福院は廃寺となり、1880(明治13)年8月23日に神光院の建物を移して復興したが維持できず、東洋花壇なる料亭になった。谷ぎんの孫である谷愛之助が建物を買い取り、東門近くの小堂に仏像が納められ、本堂は書画陳列場となった。谷愛之助は絵葉書の封筒に名前のある東洋花壇亭主だ。
毎日新聞記者鹿野秀雄の1930(昭和5)年の文章によると、吉田山南端の吉田子爵所有の土地4000坪が開拓され97戸となった。この地が開かれて間もなく都ホテル系大料亭の計画もあったが地主が断って計画は流れたとある。この話の裏どりはまだできていない。
神楽岡から吉田山上につらなる新開地――東洋花壇一帯を市中から見れば、壁が目に付く、屋根が目ざわりになると言うかもしれぬ、しかしそれは束の間のこと、夜になれば美しいともしびの丘ともいえよう。
旧字体と仮名遣いは現代ぽく修正
智福院の山門に鶏料理の看板がかかっていた。近畿景観 第5編 京都散歩 北尾鐐之助 著 創元社 昭和4至9 p. 283
鶏料理の他に、すきやき、牛鍋も出していた。
1895(明治28)年は智福院住として渡邊鶴雲なる人物の名が曹洞宗の史料にある。
東洋花壇の開店年は定かでないが、三浦周行の贈った扁額の日付が1923(大正12)年初夏であり、また1928(昭和3)年の史料に「5,6年前に出来た」とあるので1923(大正12)年頃とみられる。熊野神社以北まで市電東山線が延伸されたのは1930(昭和5)年であり、近衛通の電停から歩いて行けた。
昨年末新たに開通された新大学線の近衛道で電車を捨てると、如意が岳を背に丘陵の上に赤い瓦の建物が眼につく。真直に東へ大路をゆくと嫌でも生き当たってしまう。坂の途中は学街らしい気分の何々寮と云った、がさつな建物が並んでいて、若人の元気な叫びが漏れて吾らに迫る。
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近衛通りに面する学生寮と言えば吉田寮だろう。学生らの歌う寮歌「紅萌ゆる」が店にいても聞こえてきた。東洋花壇の建物は敷地内でまちまちに建っており、庭先が道として開放されているので、吉田山東側の住民が電停に向かう際に通り抜けている。
東洋花壇は、今日大臣や宰相の行く所でばかりではなくて、学生も月給取もそして商家の番頭もと云う風に誰でもの花壇になってしまった。そしてその処の三階からは居ながらにして、全市のまたつきがみられる。広大なことは云おうが、壮麗などは唱わんか、京落の面目ことごとく一視野の間に漲っている。
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大衆でも手の届く店になったと書かれている。以前はもっと高級だったのだろうか。実際、総理大臣が来たこともある。
[維新勤王史蹟巡 東田清三郎 編 昭和10年 p. 50]
[京の伝説なんやかんや 田中緑紅 編著 郷土趣味社 昭和12年 p. 16]
[京都新百景 大阪毎日新聞社京都支局 編 新時代社 昭和5年 p. 162]
[曹洞宗名鑑 安藤嶺丸 編 壬子出版社 大正5年 p. 435]
[京都新聞2018(平成30)年4月24日 ウは「京都」のウ ファイル9 吉田山ファンタジア ③幻の料亭 樺山聡]
[近畿景観 第5編 京都散歩 北尾鐐之助 著 創元社 昭和4至9 p. 283]
慰霊祭
谷家による維新志士らの慰霊祭を春と秋の年二回行っており、春は4月20日(樺山聡の記事では21日)に行われる。日付の由来は不明だが、玉松操の誕生日に合わせた可能性がある。
政治家が慰霊祭に訪れた様子が絵葉書に残っている。清浦奎吾、藤村義朗、山田益彦の名前が東洋花壇の絵葉書に用いられている。清浦は内閣総理大臣、藤村義朗は清浦が1924(大正13)年に組閣した際の逓信大臣を務めている。山田益彦は有名でないが、薩摩藩士高崎正風の二男である。全員が九州と縁がある。写真では、富岡鉄斎による「日新其徳」の扁額が建物正面にかかっていることが分かる。
左側の鳳林軒は本名尾関本孝、1930(昭和5)年頃に第9代目東福寺派管長を務めている。鳳林軒を中心とする集合写真の左奥の建物は2026年も現存する。
慰霊紀念祭での集合写真は、大正末期から昭和初期の撮影とみられる。ただ、上記人物と智福院に集まっていた維新志士らとの直接的な関係性は、中村半次郎と九州つながりであることくらいしか調べても出てこなかった。
この慰霊祭では所蔵の書幅を参加者に展観し、羊羹を配った。
[金子如積水上田郷友會月報 昭和3年1月~12月1928年上田郷友會 p. 16]
[維新勤王史蹟巡 東田清三郎 編 昭和10年 p. 50]
[東福寺誌 白石芳留 編 東福禅寺 昭和5年]
[芸天 (39) 芸天社 1927-05 p. 29]
画壇、論壇、東洋花壇
近所にあった美術学校の資料に、東洋花壇の亭主谷愛之助の名前が出てくる。美術が好きな人だったらしく、来客者から書をもらって大量に飾っていたことからも美術好きの側面がうかがえる。
京都美術工芸学校は1907(明治40)年から1926(大正15)年まで吉田の地にあった。敷地内には絵画専門学校が併設されていた。ここで起きた対象時代の学生運動「絵専騒動」において舞台になったこともある。
1924(大正13)年5月15日葵祭の日、卒業生らにより卒業生大会決議文を市長に手渡し、大会欠席者へ「十六日朝八時吉田山来イ」と電報を打った。翌16日、同盟休校決起集会がこの東洋花壇で行われた。午前9時に集合して午後3時までおり、昼食も取らず退出した。そのとき、店主が電話で学校に照会した。警察が監視対象にした騒動である。いろいろあって28日午前、東洋花壇(本文中では東山花壇)で解散となる。
[大正 13 年絵専騒動 附『大正 13 年業務日誌』松尾芳樹 京都市立芸術大学芸術資料館 2022-03-31]
他にも騒動の前から関わりがあり、1924(大正13)3月28日、東洋花壇主人がその年の卒業製作の一点を譲受したいと申し入れがあった。有償か無償か気になるが、学校とかかわりが深かったが伺える。1924(大正13)3月31日17時には教職員による慰労晩餐会が東洋花壇で行われた。参加者は荒木矩、八木絹助、前田喜市、平野久吉、鈴鹿勝近、東、河上英明、堀十五郎らである。また、東洋花壇正面に掲げられた「日新其徳」の扁額の作者である富岡鉄斎も本校の教員をしていた。
1927(大正15)年3月25日、岡山県出身の京都在住書家で構成される京都烏城絵が結成される。
[日本美術年鑑 1927年 朝日新聞社 編 東京朝日新聞発行所 大正15年 p. 63]
1928(昭和3)年の美術雑誌に新年の広告があり、離れを旅館としていた。京都市を南西方向へ見下ろしている。

三浦周行の扁額によると大阪や淡路まで見渡せるとあるが、流石に盛りすぎでは。
旅館に宿泊した中国の文化人もおり、1929(昭和4)年5月、錢痩鉄を島田洗耳が訪れる。
[雲雀野 島田洗耳 著 冬青会 昭15年 p. 127]
昭和初期は美術評論家の関如来が東洋花壇別宅を住所としていた。1929(昭和4)年に京都日出新聞社(後の京都新聞)の嘱託記者だった。
[日本美術年鑑 1931年 朝日新聞社 編 朝日新聞社 昭和5年 p. 20]
1934(昭和9)年10月の第15回帝展に建畠大夢による谷愛之助をモデルにした胸像を出展している。1907(明治40)年に京都美術工芸学校を卒業し、彫刻家として大家となりつつある時期だ。

東洋花壇の主人であるこの谷愛之助、高田十郎から「変り者の店主」と評されている。
[昭和七年中ノ見聞 著者 高田十郎 編 昭和8 p. 25]
学壇、教壇、東洋花壇
京都の学生や教授、部活動で遠征に来た学生らの記載にも東洋花壇がみつかる。
1922(大正11)年に三高に入学した三好達治に関する文章に、三高剣道部は夏の全国高専大会優勝を目指して、東洋花壇の離れで合宿していたとある。大城富士夫は三好達治の2学年下だ。
[古典と現代 (36) 古典と現代の会 1972-05 大城富士夫『剣道部の三好達治』p. 2]
1926(大正15)年11月17日、京大天文室へアメリカからC. E. Furness女史という研究者が来て牛鍋を研究者らと食べている。
[天界 7(71) 東亜天文学会 1926-12 p. 61]
1928(昭和3)年6月17日、東京高工対京都高工芸(後の京都工芸繊維大)の野球大会の後、両校の懇親会が開かれる。
[紫匂ふ比叡のみ山 : 京都工芸繊維大学工芸学部70年史 財界評論新社 1972年 p. 396]
1949(昭和4)年1月25日、京都帝国大学文学部在籍の山口高等学校出身者が5人で送別会を東洋花壇で開いている。早世した藤井一という学生時代の日記に記載がある。
[大介遺稿 藤井一 [著], 藤井松四郎 編 昭和8年 p. 231]
1933(昭和8)年10月24日夕方、柔道部の東西帝大対抗柔道試合の選手激励会が東洋花壇で行われる。
[故角谷史郎君 吉田春済 編 昭和8]
1934(昭和9)年7月19日に、京都帝国大学で開かれた卓球のインターハイで弘前高校が優勝した際の写真が残っている。宿として利用していたのだろうか。

1934(昭和9)年8月17日、三高との試合に勝った一高庭球部と応援団幹部らが祝勝会を東洋花壇で開いている。
[向陵誌 一高応援団史 一高同窓会 1984.12 p. 294]
1935(昭和10)年ごろ、作家の豊田穂によると、岐阜県の本巣中学の学生たちが柔道大会のため上洛した際に泊まっていたのは東洋花壇の離れで、食事は近所の学生向けの食堂で三食済ませていた。宿には女学校を出た姉妹がおり、京極でお茶を一緒にしたという。年代からして、谷愛之助の娘かもしれない。同作者の『日本交響楽 7 (太平洋篇 上)』には京都花壇という屋号で登場する。
[作家 (350) 作家社 [編] 作家社 1978-03]
1937(昭和12)年5月20日「水野清一講師、考古学二回生歓迎会」が開かれる。前列に鋳方貞亮、梅原末治、濱田耕作、三宅宗悦、小牧実繁らが並んでいる。

1937(昭和12)年7月25日、京大グラウンドでの陸上インターハイで勝利した一高生らは東洋花壇での祝勝会の後に新京極までストームに乗り出している。
[向陵誌 一高応援団史 一高同窓会 1984.12 p. 386]
1939(昭和14)年12月18日、田代善太郎の日記に、三木茂、北村四郎、芦田譲治ら理学部の植物学研究者らのためのお祝い会を開いている。芦田は後に熊野寮建寮にかかわった学生部長だ。
[田代善太郎日記 昭和篇 著者 田代晃二 編 出版者 創元社 1973年 p. 440]
1941(昭和16)年5月21日金曜日、吉田寮の全寮コンパが東洋花壇で開かれた。寮食がすき焼きの予定だったが都合により中止になったためらしい。
[京都帝国大学寄宿舎誌 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986.10 p. 221]
1942(昭和17)年4月26日、三高弓道部の五十周年記念式後のコンパで東洋花壇が使われている。
[三高弓道部史 三高弓道部史刊行委員会 編 1989.1 p. 217]
他に、西田幾多郎も来ていた。
五月午後田邊君を訪ふ。夜吉田山東洋花壇にて哲三同生の會。
経済学部教授の財部靜治は東洋花壇によく通い、弟子を電話で呼んでいた。いつも長尻だったらしく、女中に早く連れて帰ってくれと黒正巌が頼まれている。
[経済論業 51巻2号 昭和15年8月 京都帝国大学経済学会「財部先生を偲ぶ」黒正巌]
国防費への寄付
1935(昭和10)年には智福会なる組織が作られていた記憶が残っており、1937(昭和12)年8月2日には智福会から恤兵金品として寄付している。1937(昭和12)年11月20日、東洋花壇の仲居9名から慰問袋の寄付が近隣吉田分署まで届けられた記録が残されている。日中戦争の時代から、民間に防衛費の寄付を募っていた。
[旅館、下宿業、料理店、飲食店、興行場、遊技場、病院及療養所の使用人に関する調査 社会局労働部 編 昭和10年 p. 23][官報 1938年07月18日 大蔵省印刷局 [編] 日本マイクロ写真 昭和13年 p. 729]
[婦人国防 (39) 大日本国防婦人会京都地方本部 [編] 1938-01 p. 13]
俳壇、文壇、東洋花壇
大正から戦前にかけて、三高俳句会の成員を中心とする『京鹿子』の人々などが集まっていた。
1925(大正14)年、東洋花壇句会なる句会での句が残っている。参加者は山口誓子、井上白文地、鈴鹿野風呂らだ。
流れなす雨の水筋や萩の庭 誓子
1926(大正15)年7月20日ごろ、作家明石染人の詩集の出版記念会が催される。
早々七月二十日には午后六時半より京都吉田下大路町の東洋花壇で明石染人の詩集「魂の傀儡師」(改訂版)(東京詩学協会)の出版記念会があった。発起人は西川百子、山本牧彦、木村皓花、南江一郎、俵青茅であった。会費三円。勝太郎もこれには出た。
1926(大正15)年7月発刊の『野風呂句集』発刊祝賀句会が東洋花壇で行わた。五十嵐播水曰くその時の写真がどこかの句集に載っているらしい。五十嵐播水は新婚の折、近衛坂の下の曲がり角あたりに住んでいた。野風呂は「句集を作るという目標をたてると句作にはげみがつく」と、京鹿子のメンバーを激励している。
[虚子門に五十余年 (九年母叢書 ; 第15篇) 五十嵐播水 著 新樹社 1977.4 p. 463 句作雑話 書誌情報 : 著者 五十嵐播水 著 出版者 新樹社 出版年月日 1960年 p. 463]
1929(昭和4)年10月29日、飯田蛇笏らは鈴鹿野風呂と東洋花壇で夜景を眺めて句を詠んでいる。
[旅行く諷詠 飯田蛇笏 著 人文書院 昭和16年 素描旅日記 p. 177]
1933(昭和7)年7月、日野草城の第二句集『青芝』出版記念晩さん会が開かれ、京鹿子の方針について野風呂個人の雑誌にしたら草城から提言する。
[昭和俳壇史 松井利彦 著 明治書院 1979.6 p.188]
夏目漱石の友人西川一草亭が府立医科大に入院した際、鴨川に面する窓から見える景色を「吉田山の上に東洋花壇と云ふ鶏肉屋の電燈が煌々と輝いて居る」と日記に残している。府立医科大から見て東洋花壇までは真東にある。亡くなる直前、1938(昭和13)年12月18日のことである。
[落花帚記 西川一草亭 著 河原書店 昭14年 p. 451]
絵葉書に屋上に備え付けられた電燈とみられる球体がある。
上方郷土研究会の忘年会が東洋花壇で催されていた。
[上方 (25)(上方郷土研究会, 1933-01)]
1942(昭和17)年8月16日、野風呂は五山の送り火を見に東洋花壇を訪れている。すべての文字がここから一望できた。
[ホトトギス 46(1)(554) ホトトギス社 1942-10 p. 70]
太平洋戦争開戦前日の1941(昭和16)年12月7日、関西ホトトギス同人会の句会が法然院で開かれた日の夕方、鈴鹿野風呂の案内で東洋花壇で食事している。
[虚子門に五十余年 (九年母叢書 ; 第15篇) 五十嵐播水 著 新樹社 1977.4 p. 463 句作雑話 書誌情報 : 著者 五十嵐播水 著 出版者 新樹社 出版年月日 1960年 p. 105]
ご近所
京大のすぐ東、東一条の通りにある吉田神社今宮社の玉垣に「東洋花壇」の字が見える。同時期建立とみられる石灯籠は1927(昭和2)年製であり、東洋花壇のあった時期と重なる。

「東洋花壇」の文字
お教えいただいた吉田コミュニティカフェいきなの川瀬俊之さん、ありがとうございました。
近衛坂すぐ下にある柳宗悦夫妻の住居は二可半荘と呼ばれていた。この近所の家は後に京大の施設である加藤記念館、50年代に仮女子寮になったことは以前の記事で書いた。
[鼓村襍記 : 鈴木鼓村遺稿 鈴木鼓村 著, 雨田光平 編 古賀書店 昭和19年 p. 303]
吉田下大路町に住んでいた京大附属図書館事務部部長の鈴木正武は詩に残している。
[故山四季 : すすきまさたけ第四詩集 鈴木正武 著 薔薇山房, 1986.8 p. 158]
吉田山のふもとに1952(昭和27)年4月からあった京大職員向け福利厚生の料亭「京園」は、もとは東洋花壇をまねたものだ。
[おふくろの墓標 : おおらかで世話好き 角田吉夫 [編] 1993.10 p. 65]
寿岳文章は東洋花壇の吉田山山麓に住んでいた柳宗悦を尋ねている。日付は不明だが、寿岳文章が京都帝国大学文学部在学中だった1924(大正12)年から1927(大正15)年頃と見られる。
[樫と菩提樹 寿岳文章, 寿岳しづ 著 白凰社 1966年 p. 187]
1937(昭和12)年9月24日、富徳蘇峰が晩餐に呼ばれている。学生時代は元田中の駅近くに住んでいた。
[最近の蘇峰先生 蘇峰会 昭和17年 p. 238]
戦後
明確な閉店日は定かでないが、第二次大戦の最中とみられる。竹村俊則によると、戦時中の強制疎開によって醒ヶ井通五条下ル泉水町にあった安養院がこの地に移転する。1951(昭和)26年のこととしている。終戦後には東洋花壇は廃業し再び廃寺になっていた。富岡鉄斎による「日新其徳」の扁額は50年代もあったようだ。現在はその扁額は見当たらない。
[新撰京都名所図会 巻1 (東山の部) 竹村俊則 著 白川書院 1958年 p. 102]
『竜馬がゆく』のあとがきで司馬遼太郎が東洋花壇について触れているが、場所は分からなかった。小説の初出は1962年(昭和37年)であり、この頃は集合住宅になっていた。さらに、智福院で密議していた維新志士の一人である玉松操を主人公にした小説『加茂の水』の初出は、1968(昭和43)年であり、この頃には既に場所の特定の難しかったのかもしれない。余談だが、司馬遼太郎は昭和20年代の新聞記者時代に京都に住み、大学や神社仏閣を取材していたので土地勘はあるはずだ。
60年代以降は同じ番地に「東洋山荘」という名前の建物があり、集合住宅として使われている。オーナーが谷誠一郎なら、近所の吉田山荘から屋号の着想を得たのかもしれない。
まとめ
京都の吉田山南には智福院という寺院があり、幕末には維新志士の密儀の場所として使われていた。大正末期から戦時中まで料亭の東洋花壇があり、維新志士の慰霊祭が行われていた4月20日は岩倉具視の懐刀である玉松操の誕生日と同じである。
総理大臣から学生まで、様々な文化人が吉田山南の東洋花壇に集っていた。この料亭は大正から戦時中まで存在し、谷愛之助という美術好きの亭主によって運営されていた。京都帝国大学、旧制三高、京都美術工芸大学、絵画専門学校、京鹿子の関係者らが集まっていた。
宿題
大正末期に三階建ての大きな建物を吉田山に建てるにはそれなりに資金が必要だったはずだ。愛媛大学図書館に収められている1939(昭和14)年刊行の谷誠一郎作『谷愛之助』は、東洋文庫の主人について書かれた家族史と見られる。京都大学卒で卜部吉田神道吉田神社の家老的存在だった鈴鹿三七の所蔵本をもとにした鈴鹿文庫として収められており、維新志士を助けたという谷ぎんは乳母として祀官の家に仕えていた点からも鈴鹿家と谷家に関係があったのかもしれない。上述したように吉田神社へ寄付した結果とみられる玉垣もあった。
また、1930(昭和5)年の鹿野秀雄の文書に出てくる吉田子爵とは、吉田良正子爵であろう。父の吉田良義の後妻である静子は岩倉具視の五女である。岩倉具視とのかかわりも要注目である。
料亭の屋号である「東洋花壇」だが、店の外観に花が植えられている様子はない。また、「花壇」という言葉の用法に料亭を意味すると書かれた地所は管見の限り見当たらない。京都ホテルグループ創業者前田又吉は、京都に移転する前の兵庫で料亭「常磐花壇」など、この時期の「花壇」という言葉の用例として料亭もあったことに注目したい。
