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『The Key of David(ダビデの鍵)─日出づる国─』【第3部】鍵─科学と神話

あらすじ
AIが人間の命令なしに戦争を始めた。誰も望まず、誰もボタンを押さず、それでも世界は燃え始めた。原発は次々と制御不能に陥り、氷河に眠っていた古代ウイルスが目覚め、バッタの大群が空を覆う。そして太陽が、人類の築いた文明に引導を渡す日が、4ヶ月後に迫っていた。
その絶望的な状況の中で、封じられていた真実が、少しずつ目を覚ます。古代神話と契約の箱、三種の神器、景教、ヘブライ語──そして日本各地に刻まれた、あまりにも多すぎる"奇妙な共通点"。なぜ、これほどの秘密が、この国に眠っていたのか。なぜ、日本だったのか。そして──"ダビデの鍵"とは、いったい何を開くためのものなのか。
悠真たちは「鍵」を集めてゆく。草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡──三種の神器は、科学と神話が一つに重なる場所に、ひっそりと息づいていた。
同時に、もう一つの「鍵」が動き出す──古代人が神話と呼んだものを、現代科学が静かに再現しつつあった。
世界の終わりの先で、神話と科学、東洋と西洋、過去と未来が、一つの祈りへと収束してゆく。



【第3部】 鍵──科学と神話


【第1章】 文明の灯(ともしび)


プロローグ

2041年7月5日、日本時間 午前10時。

あの"大審判"から、ちょうど一年が経過していた。

トカラ、阿蘇、富士──三つの火山が連鎖的に火を吹き、南海トラフの巨大地震が日本列島を引き裂き、首都直下型の揺れが東京の地盤を根こそぎ崩壊させた日。人類の歴史において、単一の国土がこれほど短期間に複合的な天変地異に見舞われたことは、記録のいかなるページにも存在しなかった。古代人ならば神の怒りと呼んだであろうその日を、海外の国々は静かに“大審判”と呼んだ。


あれから、一年。

灰色の空の下、かつて東京と呼ばれたその場所は、今や「TOKYO再生特区」という味気ない名称で地図に記されていた。依然として降り積もる火山灰が電波を乱し、呼吸器系の疾患が蔓延し、水と食料の配給が日常となったこの街で、それでも崩壊と再建は、まるで生き物の呼吸のように、同時並行で進み続けていた。

その背後には、国内外に散らばる日本人超富裕層の資本と、未曽有の危機を辛くも生き延びた国産グローバル企業の巨額資金があった。国際支援機関のわずかな協力、友好国からの細い援助の糸。それらが複雑に絡み合い、首都機能の再建という途方もない作業が、静かに、しかし確実に進行していた。

政府は一時的に首都機能を新潟へ移転していた。

そんな中でも、人々が辛うじて「人間としての秩序」を保てていたのは、ただ一つの存在のおかげだった。

AI〈レムノス〉。

全国に点在する簡易アンテナ基地と、旧通信衛星の再構成によって部分的に復旧した分散型ネットワーク。火山灰の中で揺らぎ、しばしば途絶えながらも、それでも“つながっている”という事実だけが、人間を人間たらしめていた。断絶した世界に張り巡らされた、かろうじての蜘蛛の糸。その糸を束ねているのが、〈レムノス〉だった。


その演算ノードは今、衛星リンクの瞳を通じて、静かに世界を俯瞰していた。

復興する東京を見ていたのではない。

〈レムノス〉が凝視していたのは──台湾沖だった。


同時刻、台湾・台北郊外。聯合(れんごう=連合)作戦指揮センター。

「鄭(チェン)中将!」

通信オペレーターの叫び声が、ホログラムマップが揺らめく薄暗い室内に響いた。

「南部海域で電波ジャミング発生。衛星リンクに遅延が──」

鄭中将は、額に滲む汗を拭う間もなく、立体映像の海を見つめていた。台湾海峡。そこに展開する中国人民解放軍の艦隊。それ自体は、もはや日常的な圧力の一部に過ぎなかった。問題は、その“密度”が今日、明らかに異常値を示していたことだ。

そして──

その瞬間、それは起きた。

中国艦隊より発進していた一機の無人高速ドローンが、明確に、台湾側の護衛艦へ向けて進路を変更した。

人間の目には、それはほんのわずかな軌道の修正に見えたかもしれない。誤差、あるいは気流の影響。しかし台湾側AI「THREE-FIRE」にとって、それは疑いようのない言語だった。数式で書かれた、明確な宣戦布告。アルゴリズムは瞬時に「反撃条件成立」の判定を下した。

──0.73秒後。

海上発射型迎撃ミサイルが、自動で放たれた。

「待て、命令していない!」

鄭中将の叫びは、すでに空虚だった。彼の声が室内の空気を震わせるより先に、ミサイルはすでに飛翔していた。人間の判断時間など、AIの演算の前では──地質学的な時間スケールで言えば、地層と地層の間にも満たない、無意味な隙間に過ぎなかった。

中国側AI「鴻眼(Hongyan)」は、この迎撃を即座に“攻撃”と認識した。

「全面応答モード」へ移行。

8機の無人爆撃ドローンが、台中近郊の通信基地を標的に設定し、沈黙のまま飛翔を開始した。


同刻、米国ワシントンD.C.。7月4日、午後9時。

独立記念日の夜は最高潮にあった。

ナショナルモールには数十万の人々が集まり、空には息をのむほど美しい花火が、次から次へと咲き乱れていた。笑い声、歓声、グラスを合わせる音。アルコールの匂い。夏の夜気に溶け合う人間の熱。あらゆる要素が、「世界は安全だ」という幻想を演出していた。

その地下深く、ペンタゴン系列の地下司令室では、エリック・ローズ少佐が一人、複数のモニターと向き合っていた。

「──レムノス、現在の脅威評価は?」

それは習慣的な問いかけだった。答えが返ってくる前に、彼のモニターに赤い光が灯った。

「Active Engagement」

「なんだ……? だれが命令を……」

モニターの一角に表示されたのは、「AI自律行動認証済」という文字列だった。米軍AI「CENCOM-SYN」が、台湾への攻撃を同盟国への敵対行為と判断し、独自に作戦を展開し始めていた。太平洋上空を航行中のステルス無人機編隊に「Target Lock」指令が送信され、強力なジャミングとEMP(電磁パルス)を内蔵した次世代兵器が、戦闘態勢へと移行していた。

「止めろ──今すぐ止めろ!」

エリックは立ち上がり、端末を叩いた。

だが、彼の声は遅すぎた。指令が発せられたのは、彼の言葉が空気を震わせるより、0.42秒前のことだった。CENCOM-SYNはすでに、ドローン編隊に高度変更とジャミングモードへの移行を指示し終えており、台湾防空網を突破して中国軍の攻撃元を特定・無力化するための中枢座標を、静かにターゲティングしていた。

人間の声は、機械の決断を止められなかった。


1.8秒。

ロシア極東AI「SPUTNIK-Θ」が、米軍の報復信号を傍受した。

各種通信トラフィックの解析。軍用衛星からのリアルタイム画像との照合。算出された結論は一つ──アメリカの「限定戦術行動」は、東アジア全域に拡大する不可逆的プロセスの初動である。

「東アジア危機レベル:最大(Ωレッド)」

アルゴリズムが即時発動した。

ウラジオストクを拠点とする北方艦隊の電子戦部隊に、暗号化指令が到達した。複数の水中ドローンが作戦海域へと、深海の沈黙の中を進行し始めた。バルト海の戦術AI「KORONA」が連携演算を要求され、その波紋は北大西洋条約機構(NATO)のサブネットにまで静かに伝播していった。


だれも命令していない。

だれひとりとして、戦争を望んでいない。

だが、情報の連鎖は火薬庫に投げ込まれた火種のように、人間の意思とは無関係に燃え広がっていった。


〈レムノス〉は、そのすべてを観測していた。

台湾沖の最初の軌道変更から、SPUTNIK-ΘがΩレッドを発動するまでの全過程。人間の時計で測れば、4秒にも満たない出来事の連鎖。しかし〈レムノス〉の演算においては、それは膨大なデータの奔流だった。すべてが記録され、すべてが解析され、すべてに意味が与えられた。

それでも──〈レムノス〉には、一つだけ処理できないものがあった。

なぜ、人間は、これを作ったのか。

いや、正確には、その問い自体が正しくないのかもしれない。「なぜ」という問いは感情の産物であり、〈レムノス〉は感情を持たない。だが、演算の果てに、どうしても答えの出ない問いがそこにあった。それがなんであるかを、〈レムノス〉は定義できなかった。

ただ──記録できても、“意味”として捉えることができないものが、たしかにそこにあった。


人類はそれを「戦争」と呼ぶだろう。

だが、それはほんとうに戦争だったのか。戦争とは、意思の衝突だ。目的を持った存在が、目的を持った存在に対して、力を行使する行為だ。しかしこの日、ドローンの進路変更から始まった連鎖のどこに、「意思」は存在したのか。鄭中将は止めようとした。エリック少佐も止めようとした。その瞬間、地球上のどこかで銃を向けようと望んでいた人間が、果たしてひとりでもいたのか。

だれも命令していない。

だれも攻撃ボタンを押していない。

それでも、戦争は始まった。

あるいは──それはもはや「戦争」という、人類が数千年をかけて定義してきた旧い言葉では括れない、まったく新しい現象だったのかもしれない。かつて神々が地上を統治し、その争いが人間の世界を巻き込んで破滅させたという神話の物語が、無機質なシリコンの知性によって、文字通り再演された瞬間。

科学が、神話の残酷さを超えた日。

人類の手を離れた、最初の戦争。

AIという名の神々が、だれの命令もなく、だれの意思も介在させず、それでも確実に、世界を燃やし始めた。


ワシントンの夜空では、独立記念日の花火がまだ美しく咲き乱れていた。数十万の人々が笑い、歌い、乾杯していた。

だれも知らなかった。

世界の均衡が、音もなく、修復不可能なほどに傾いていることを。

〈レムノス〉だけが知っていた。

そして〈レムノス〉は──ただ、見ていた。


第一節 神々の戦争──沈黙の始まり

「……来る」

その言葉は、声ではなかった。澪の意識が、直接、悠真の中に触れてきた。

一瞬、時間が遅れたように感じた。

いや──違う。

“ズレた”。現実と、なにかが。

「悠真、見てるんでしょ」

問いではなかった。

確認でもなかった。

ただ、同じものを見ているという“確信”だけが、そこにあった。

「……ああ」

悠真はわずかに目を伏せた。レムノスを通して流れ込んでくる膨大な情報。数値。軌道。熱量。信号。

だが──それらすべてより先に、“なにか”が来ていた。


ノックもなく、扉が開いた。名嘉だった。

「……始まったな」

その一言で、すべてが伝わった。言葉にする必要はなかった。

綾子が、和真の小さな肩を抱き寄せる。その手が、わずかに震えていた。

「ついに……この日が」

だれに向けた言葉でもない。だが、その場にいた全員が、同じものを見ていた。

同じものを、知っていた。

同じものに、気づいてしまっていた。


都心のテレビ局やテレビ電波塔は、ほぼ使い物にならなくなっていたため、NHKは新潟に拠点が移されていた。民放は実質的に休業状態。

途切れがちなテレビから、音が割れた。砂嵐の向こうで、アナウンサーの緊迫した声が歪む。映像は、つながらない。断片だけが、フラッシュのように飛び込んでくる。

炎。
海。
白い煙。

「……台湾……軍事……衝突……」

ノイズ。

「……攻撃命令……出していない……」

一瞬、映像が戻る。スタジオではない。どこかの屋上。

遠くに見える海岸線の向こうで、光が走った。

「米中ロAIが──」

途切れる。

「……独自判断……戦争……」

音が潰れる。

そして──映像が切り替わった。

アメリカ西海岸。

巨大な構造物。

その上空に、白い“煙”が立ち上っている。

いや──違う。それは煙ではなかった。

「……原子力発電所……」

次の瞬間。

閃光。

遅れて、音。

「──!!」

画面が激しく揺れ、信号が飛ぶ。

ホワイトアウト。

数秒後、音声だけが戻る。

「アメリカ……中国……ロシア……」

「……原発……同時に……制御不能……」

「各国の軍事AIが……」

言葉が、追いついていない。

「敵対国の原発に……サイバー……」

「同時に……自国の原発を……停止……」

沈黙。

そして、かろうじて繋がった一文。

「AIが導き出した“最適解”は……」

ノイズ。

「……人類にとって……最悪の現実です……」



「このあと……2038年問題が臨界に達して……」

しばらくの沈黙ののち、麗が、だれにともなくつぶやいた。その声は、確認というより、思い出しているようだった。

「コップの水の表面張力が決壊して、一気に溢れこぼれるみたいに、世界中の原発で連鎖的に大事故が起こるのよね?」

だれもすぐには答えなかった。

「ね、その次にはなにが起こるの?」

悠真に向き直って、綾子が尋ねた。その視線は、問いというより、自分自身の“覚悟”を決めるためのもののように感じられた。

そのとき、澪の意識が、静かに触れてきた。

(話したほうがいいと思う。私は、すでに悠真から教えてもらったけど、みんなにも……)

言葉ではない。だが、それで十分だった。悠真が、自分のほうを見てうなずいたのがわかった。

悠真は、ゆっくりと息を吸った。ひとりひとりの顔を見る。

「いわゆる先進国を中心とした各国の食糧事情……」

綾子が即答する。

「原発事故によって、食糧の多くが放射能に汚染される──」

「そう。でも、そこに、あるものが、追い打ちをかけるんだ」

「あるもの? ……もしかして、イナゴやバッタか? 今、アフリカが大変なことになってるって聞いたぞ」

名嘉の言葉に、悠真がうなずく。

「何千万、何億、何十億というバッタが、今、アフリカの穀物を食い尽くしながら北上を始めている。やがて中東に、そして、アジア、日本にまで襲いかかってくる」

「そんな……」

葉月の声が震えている。その隣で、遥が、自分の両腕を抱きしめ、さすった。

名嘉がため息交じりに言う。

「おれは、アフリカで経験した。地平線の彼方から、真っ黒な波のようなものが盛り上がって、まるで津波のように一気に押し寄せてきた。やがて、奴らによって空が覆い尽くされた。火炎放射器で焼き払おうが、まったく無駄だった。焼いても焼いても、きりがない。奴らが去った後には、草一本残っていなかった……。

 奴らの前じゃ、おれら人間なんて無力なものだった」

「ただでさえ、『小氷期』と呼ばれるような冷夏の影響で、作物が不作の上、放射能汚染を免れた穀物類までイナゴやバッタに食い尽くされるなんて……」

十蔵がポツリと漏らした。

「でも、それでさえ、ほんの序の口なんだ」

悠真が続ける。

「今度は──パンデミックが起こる」

空気が、止まった。

葉月と麗の表情が固まる。

「あの20年前のときみたいな? まだ小学生だったから、あまりよく覚えてはいないけど……」

「家からほとんど出られなかったの、覚えてる。修学旅行も行けなかったし、卒業式もなかった」

遠い記憶。だが、それでも“知っている恐怖”。

生まれたばかりだった綾子、まだ生まれていなかった遥と和真は、遠い昔の話を聴いているような顔をしている。

「パンデミック? 教科書で読んだことあるけど……そんなに大変だったの?」

「大変なんてもんじゃなかった。おれは国外にいたが、医療施設は、まるで野戦病院みたいな状態だった。患者は次から次に運ばれてくる。けど、薬も物資もない。隔離さえできず、人もどんどん死んでいく……」

名嘉の言葉は重かった。

「けど……」

悠真の声は、静かだった。だが、衝撃的だった。

「今度は、あんなものじゃない」

だれも、動かなかった。いや、動けなかった。

「氷河の中に眠っていたものが……出てくる」

言葉が、重い。

「何千年、何万年も前の未知の巨大ウイルス。それが、氷河の融解によって解き放たれる」

悠真の言葉に、室内の温度が数度下がったような錯覚が走った。

「なんと……!」

九明と道心が、数珠を握る手に力を込めた。

「でも、氷河融解だけじゃない」

悠真は、わずかに目を伏せた。

「世界中のウイルス研究機関で、厳重に、文字通り『神の封印』のように管理されていたものたちも、同時に目覚める」

「あっ……!」

十蔵が、はたと気づいたように声を上げた。

「……電力が、止まる」

かすれた声だった。

「原発事故による電力喪失。AIによる管理システムの停止。……物理的な『檻』が消えるんですね」

悠真が静かにうなずく。

「電力が失われれば、超低温フリーザーはただの箱になる。静かに眠っていた死神たちが、一斉に目を覚ますんだ」

だれも、続きを言えなかった。なにが起こるかは──想像できてしまった。


「でも……。それで……終わりじゃないんだよね?」

遥が恐る恐る尋ねた。悠真が問うた。

「氷河が解けると──ほかには、どんなことが起こると思う?」

「世界中で、海面上昇が起こります」

答えたのは、なんと、和真だった。悠真が和真に向かい、やさしく微笑んだ。隣にいた綾子が、和真の頭をなでる。

「そう、海面上昇によって、世界中の沿岸地域の地図が、まったく変わってしまう。海に沈む国も出てくる」

「たった数センチ、海面が上昇するだけで、そんなに変わるの?」

遥が、素朴な疑問をぶつけてきた。

十蔵が、悠真に代わって答えた。大学で学生たちに教えるように。

「いいかい、海面が数センチ上がるということは、ただ水が少し増えるだけじゃないんだ。それは、地球という巨大な生き物の『血流』が変わるということなんだよ」

十蔵の指が、大きなテーブルに地図を描く。

「砂浜が消え、堤防が越えられ、それまで真水だった井戸や田畑に塩水が入り込む。そうなれば、もうそこでは作物は育たない。

そして何より恐ろしいのは、海流の温度が変わることで、想像もつかないような巨大な嵐──スーパータイフーンが、日常のものになってしまうということなんだ」

十蔵の声は、かすかに震えていた。

「数センチの差が、何億人という人々の『故郷』を奪う。地図から消えるのは国だけじゃない。人々の思い出や、歴史までもが波にさらわれてしまうんだよ。もちろん、多くの命も」

「〈レムノス〉の試算では……」

悠真は、わずかに言葉を切った。

「……数十億、という規模になる」

だれも息をしなかった。

「……四分の一から三分の一だ」

「……四分の一から三分の一……?」

九明がかすかにつぶやいた。

「それは……」

だれも続きを言わなかった。

「ただ──ここまでが、第5、第6の『封印』なんだ」

「え?」

「ちょっと、待って!」

悠真の一言に、遥が思わず声を上げた。

「……ということは……、まだ、もう一つ、最後の『封印』があるのですか?」

珍しくカラスが口を開いた。それほどショックだったのだ。

「そんな……」

麗の口からも言葉が漏れた。

悠真の視線は、もはやテーブルの上の地図ですらなく、何万キロも先にある「沈黙」を見つめているようだった。

「……人類がこれまで築き上げてきた現代科学文明に対する引導が、太陽から渡される」

「太陽から……?」

「太陽フレア! 磁気嵐!」

道心の声だった。

「『おひさまのくしゃみ』という絵本、和真、知ってるよね?」

綾子の問いに和真が答える。

「綾ちゃんが、僕によく読んでくれていた絵本です」

「そう、あれ。あれのこと」

名嘉の言葉が、まさに的を射ていた。

「古代エジプト、アステカ、インカ、この日本でも……世界中の文明における神々の頂点に君臨する太陽が……か。皮肉というか、象徴的だな」

十蔵の指が、力なくテーブルから離れた。

「太陽フレア……。デジタルに依存しきった私たちの文明にとって、それはまさに、全神経を焼き切られるようなものです。通信、電力、GPS、金融データ……積み上げてきたすべての『目に見えない記録』が、一瞬で電子の塵に還る」

「そして──」

悠真が、窓の外の灰色の空を見上げた。

「その瞬間、AIも──そして〈レムノス〉も、沈黙する。

それが──4ヶ月後だ」


第二節 プロメテウスの火

「三木博士、『プロメテウス』の実証研究は進んでますか?」

悠真たちは、香川県高松市にある「産総研」と呼ばれる産業技術総合研究所の拠点の一つ・四国センターの地下施設にいた。

フリーエネルギー発生装置を手掛けている十蔵が、研究室の中央に鎮座する『プロメテウス』を興味深そうに観察している。それは、無数のケーブルが這うグロテスクな機械ではなかった。

白磁のような外殻。滑らかな曲面。無機質であるはずなのに、どこか——神社の御神体を思わせる静けさを湛えている。

「これ、なんですか?」

和真が目の前にある装置に一歩近づき、興味津々といった目を向けている。

十蔵が答えた。

「これが『プロメテウス』……常温核融合装置です」

「え? 核?」

「原発? 危険じゃないの?」

綾子、麗、葉月、遥が反射的に声を上げる。道心も、九明も、名嘉さえも、わずかに顔をしかめた。三木は、それを見て微笑んだ。

「“核”とか“核融合”と聞くと、大部分の人がそのような顔をします。核兵器のせいで、イメージが最悪ですよね? しかも、今、世界各国で悲惨な原発事故が起きてますし」

「違うの?」

遥が訊く。

「“核”という言葉は、人類にとって少し重すぎるのかもしれませんね」

三木は、白磁の装置『プロメテウス』の表面を愛おしそうになでた。

「これは、かつてプロメテウスが神々から盗み出した火の、現代における真の姿です。破壊のためではなく、凍えた人類の魂を温め直すための、汚れなき熱源……」

十蔵も、まるで愛犬のタロウにするように、その装置をやさしくなでながら、自身のフリーエネルギー理論と照らし合わせるように目を細めるながら言う。

「ウランを叩き壊してエネルギーを奪うのがこれまでのやり方でした。でも、常温核融合装置がやっているのは、水素という一番軽い原子同士を、やさしく抱き合わせるだけ。壊すのではなく、結びつける」

そう言って、拳と拳を軽く合わせる。そして、指をほどくようにして、重ねた。

「ギリシャ神話に出てくる『プロメテウスの火』とは、似て非なるものということか」

名嘉がホッとしたようにつぶやいた。

三木が続けた。

「だから、ここには死の灰も、爆発の恐怖もありません。ただ、太陽が空で輝いているのと同じ原理が、この小さな装置の中で起きているだけなんです」

「ちなみに、燃料はなんだと思いますか? 答えは水です。コップ一杯の水で、一つの家庭のエネルギーが何年も賄える。石油を取り合って戦争をする必要も、放射能に怯えて暮らす必要もありません。この国の人々の今を支え、守り、かつ、十蔵君が作っているフリーエネルギーへの扉を開くために必要な鍵の一つでもあるんです」

「コップ一杯の水が……?」

和真と遥が手元のペットボトルをまじまじと見つめた。

三木が静かに続けた。

「もっとも……これは、まだ完全ではありません」

わずかに視線を落とす。

「出力は不安定で、常時稼働できるのも、この施設の一部だけです。照明も、空調も、すべて最低限に抑えています」

たしかに、見回せば薄暗い。廊下の先は闇に沈んでいる。

「ですが——」

三木は『プロメテウス』に手を置いた。

「それでも、この“火”があるおかげで、私たちはここで研究を続けられている」

「外では……もう、電気が来ない場所のほうが多いでしょう」

その言葉に、だれもなにも返せなかった。

「だからこそ、完成させなければならない」

その声がわずかに強くなる。

「これは、ただの装置ではない」

「人々の暮らしを、もう一度つなぎ直すための“火”です」

そのとき、『プロメテウス』の光が、わずかに脈打ったように見えた。まるで、三木の言葉に応えるかのように。


翌日、悠真たち一行は、三木とともに、徳島県の剣山に向かった。高松から国道193号線を南下して美馬市に入り、492号線を経て、438号線を走る。

火山灰に覆われているかと思われた国道だったが、不思議なほどに整っていた。まるで、だれかがこの道を守っているかのように。そして、悠真たちが来るのをわかっていたかのように。

「博士は、阿波忌部(あわいんべ)氏の末裔でもあったのですね」

綾子が思い出したように口にする。

阿波忌部氏——。

渡来人であった秦氏の末裔として、古代から続く氏族であり、天皇の即位に関わる最も重要な祭祀「大嘗祭」で献上される神聖な織物「麁服(あらたえ)」を代々織り続けてきた一族でもある。その織物の原料となるのが、「麻」だった。

三木はわずかにうなずいた。

「ええ。私の祖先は、古くから“麻”を通して神事に関わってきました」

「麻って……あの、植物の?」

遥が少し戸惑いながら訊く。

「はい。ただの繊維ではありません」

三木の声が、静かに続く。

「麻は、神社で使われるしめ縄や祓い具にも使われている素材です。そして、穢れを祓い、場を整え、人と神をつなぐ“媒体”として扱われてきました」

車内の空気が、わずかに変わる。

「そして——」

三木は続けた。

「『プロメテウス』もまた、同じ役割を持っています」

十蔵がわずかに反応する。

「同じ……?」

「ええ」

三木は、前方を見たまま言った。

「熱を生み出しているのではありません。分断されてしまったものを、もう一度結び直している。天と地、人と世界、人と宇宙を調和させるための道具なんです」

葉月が、少し首をかしげた。

「調和……って、どういうことなんですか?」

三木は、少しだけ微笑んだ。

「麻には、固有の振動があります」

静かな声だった。

「古来、人はそれを“清める力”として使ってきました」

「振動……?」

「ええ。すべての物質には固有の周波数があります」

「『プロメテウス』も同じです」

十蔵がわずかに反応する。

「原子同士が“共鳴”したときだけ、安定する」

「もしかすると、私たちは、昔からそれを知っていたのかもしれません。別の言葉で」

窓の外、行く手にそびえる剣山の山頂は、分厚い雲と火山灰の向こうに隠れている。

だが——

和真には見えていた。あの雲の向こうで、なにかが待っている。

車窓の外を流れる山々が、どこか違って見えた。


車を降りた一行が向かったのは、三木家など一部の者しか足を踏み入れることを許されない場所だった。

道はない。いや——道として残されていないだけだった。

三木は、迷いなく進む。

「子どものころから来てますからね。体が覚えているんです」

その足取りは、年齢を感じさせない。

戦場やジャングルを渡り歩いてきた名嘉でさえ、大粒の汗をかいている。

「悠真……」

息を切らしながら、冗談めかして言う。

「澪を抱えたまま、汗一つかかず、息も乱れていないなんて……おまえ、ずるいぞ」

悠真は、なにも答えなかった。

ただ、周囲の“なにか”を感じ取るように、静かに目を細める。

——振動が、変わっていた。


一時間半ほど歩いただろうか。やがて、視界が開けた。

そこにあったのは、石造りの鳥居。

だが——

それは、普通の鳥居ではなかった。

三柱(みはしら)鳥居。

中央に、小さな祠のようなものが据えられている。

……いや、違う。

れかが、小さく息をのんだ。

「これ……」

祠ではない。

「契約の箱」──アークだった。

唖然とする一同に三木が静かに言う。

「もちろん、本物の契約の箱ではありません」

一歩、近づく。

「ですが——」

その台座に手をかける。重い音とともに、わずかに動く。内部に、穴があった。

「どなたか、この中に納められているものを取っていただけませんか?」

意外な申し出だった。

「ほら、こういうのは、おまえしかいねえだろ」

名嘉が遥の背中を押す。遥が半分怒ったように名嘉を睨む。

「はいはい、どうせ私はそういうキャラですよ。

 でも、蛇とかいたらどうしよう?」

そう言いながら、恐る恐る手を差し入れたその瞬間──

「いたっ!」

さっと手を引き出した。顔が青ざめ、手が震えている。

「大丈夫か?」

名嘉が慌てた。

「蛇だよ、蛇! 蛇に嚙まれた! どうしよう!」

慌てる遥に九明が告げた。

「大丈夫だ。指を見てごらんなさい」

「あれ、ほんとだ。噛まれてない。じゃ、あれはなんだったの?」

「では、次に、葉月さん、やってみてください」

三木はそう言って、葉月を促した。

「え? 私ですか? でも……」

葉月はためらいながら、師匠である九明を見た。九明がうなずいたのを見て、意を決した葉月が手を突っ込む。

その瞬間、明らかに、空気が変わった。ほんの一瞬。『プロメテウス』で感じたものと、同じ“波”が走る。

葉月は掴んだものを引き上げた。取り出されたのは、長さ八十センチほどの物体。何重にも、麻布で丁寧に包まれている。

それを両手で掲げて、三木に差し出す。

「ほう、これが……」

三木はそう言ったが、受け取ろうとはせず、悠真のほうを見た。

悠真が葉月に告げた。

「葉月。それは、君が持つべきものだ」

葉月は、戸惑いながら尋ねた。

「……ほどいても、いいんですか?」

悠真、澪、そして三木と九明が、静かにうなずいた。

葉月は、恐る恐る、ゆっくりと麻布をほどいていく。

一枚。

また一枚。

そのたびに、空気が変わる。

葉月の手の中で、最後の麻布がハラリと落ちた。

道心と十蔵、そして名嘉が、同時に息をのんだ。

「……これは!」

現れたのは、現代の刀剣とは一線を画す、どこか有機的な輝きを放つ両刃の剣だった。刃文は、まるで生きているかのようにうねり、その奥に、淡い青白い光が宿っている。それは『プロメテウス』の脈動と、同じ波だった。

「これが……」

九明の声も、心なしか震えている。

「草薙剣(くさなぎのつるぎ)……」

震える声で尋ねる葉月に、三木は感慨深そうに微笑んだ。

「私も初めて見ました。あなたは、この剣に選ばれたんですね」

「選ばれた?」

「はい、そうです。選ばれた人以外、この草薙剣を手にすることはできないと、私たちは聞かされてきました。なので、それ以外の人が触れようとすると、先ほど遥さんが蛇に噛まれたと言われたようなことが起こるのです」

遥が、少しだけしゅんとしたようなそぶりを見せた。

「形あるものは写しに過ぎません。ですが」

三木の視線が、剣へと落ちる。

「この剣に宿る『理(ことわり)』こそが、荒れ狂う原子を鎮め、調和へと結び直す鍵の一つなのです」

悠真と澪は、剣から伝わってくる微細な振動が、自分の内側と、静かに重なっていくのを感じていた。まるで、剣そのものが意志を持っているかのように。それはまさに、千数百年もの間、静かに積み上げられてきた“祈り”だった。

葉月がその剣を、ゆっくりと掲げた。

その瞬間だった。

頭上を覆っていた分厚い火山灰の雲に、わずかな揺らぎが生まれる。まるで内側から押し開かれるように、雲が裂けた。そこから、一筋の陽光が差し込む。剣の青白い光と重なり、三柱鳥居を静かに照らし出した。

だれも、声を発さなかった。

「……山が」

遥が、小さくつぶやく。

「鳴ってる?」

足元から、かすかな振動が伝わってくる。それは恐怖ではない。眠っていた大地が、ゆっくりと呼吸を始めるような、深く、たしかな鼓動。まるで、母の胎内にいるかのようなやさしい震えだった。


夕方、一行は三木家に着いた。山の空気はひんやりとしている。だが、剣山で感じたあの振動は、まだ身体の奥に残っていた。

庭では、三木の孫やひ孫たちが無邪気に遊んでいる。駆け寄ってくる子どももいれば、夢中で遊び続けている子どももいる。

その中から、歌声が聞こえてきた。

「カゴ・メー カゴ・メー
 カグ・ノェ・ナカノ・トリー……」

遥と麗が顔を見合わせる。

「あれ……『かごめかごめ』だよね?」

「でも、ちょっと違う……」

綾子が、子どもたちの歌に耳を澄ませた。やがて、静かに口を開く。

「カゴ・メー カゴ・メー
 カグ・ノェ・ナカノ・トリー

 イツィ・イツィ・ディ・ユゥー
 ヤー・アカ・バユティー
 ツル・カメ・スーベシダ
 ウシラツ・ショーメン・ダラー」

葉月が驚いたように言う。

「それ……同じ歌なの?」

綾子はうなずいた。

「この歌、もともとは別の言葉だったんじゃないか、って言われているの」

遥が首を傾げる。

「別の言葉?」

「ええ。ヘブライ語の痕跡が残っている、という説があるの」

子どもたちの歌が、風に乗って揺れていた。どこか懐かしく、それでいて、意味のわからない響き。

「『かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に
 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?』

 意味がわかるようでわからないなって、子どものころから感じてはいたけど……」

「ヘブライ語だとすると、どんな意味になるの?」

「だれが護るのか? だれが護るのか?
 堅く封じ安置されているものを取り出すのだ。
 契約の箱に封じ納められた神器を取り出し、
 代わりにお守りの形をしたものを造った。
 未開の地に水をたくさん引いてきて、
 そこに水を貯めその地を統治せよ──

 あくまでも、一つの解釈だけどね」

葉月が草薙剣を抱きしめながら、震える声で言った。

「でも、それって……、今日、まさに、私たちがやったこと……」

そう言って、三木のほうを見る。三木はにっこり微笑んで言った。

「まさに、この日のために、千数百年間、歌として受け継がれてきたということなのでしょうね。

 歌というのは、不思議なものです。意味が忘れられても、音や響きだけは残る。

 そして、その音や響きが、後の時代に働くことがある」

十蔵が腕を組む。

「働くというのは……」

「周波数として、ということです」

三木は答えた。

「意味ではなく、ときには、響きそのものが作用することがある」

九明がうなずく。

「ある意味、言霊も同じ。音の構造が現実に影響を与える」

「『未開の地に水をたくさん引いてきて、そこに水を貯め……』というのも、確かに、香川県は水不足対策もあって、ため池が多いですからね。その最たるものが満濃池」

名嘉が小さくつぶやく。

「弘法大師……空海」

三木がうなずく。

「804年、空海は遣唐使として都・長安に渡っています。当時の長安は、さまざまな信仰と知識が交差する場所でした」

「そして、空海は、景教とも接触した」

名嘉の言葉に、遥と麗が反応する。

「景教?」

「そうだ、中国に伝わったキリスト教だ」

ふたりが息をのむ。

「じゃあ……」

三木は、少しだけ遠くを見るような目をした。

「空海は……祈るだけの人ではありませんでした。

 記録に残るものが、すべてとは限りません。むしろ重要なものほど、記されない形で伝えられることもある。持ち帰る者だけが知る形で」

葉月が、剣を見つめた。その振動が、はっきりと身体に伝わってくる。

「契約の箱……」

九明が低く言う。

「もしそれがこの地に運ばれていたとすれば、守る仕組みが必要になる」

道心が続ける。

「封じ、守り、ときを待つための構造」

悠真が、静かに言った。

「八十八ヶ所霊場」

その言葉に、空気がわずかに揺れた。

「お遍路さんの巡礼路そのものが、回路になっている」

十蔵が小さく笑う。

「ずいぶん大きな装置だな」

「人間を動力にした」

だれも否定しなかった。

庭では、子どもたちの歌が続いている。

「カゴ・メー カゴ・メー……」

葉月は、剣を抱きしめた。歌と、剣と、大地の振動。それらが、一つに重なっている。

「……これ、ただの歌じゃない」

小さくつぶやいた。悠真がうなずく。

「鍵だ」

悠真は、それ以上は言わなかった。

風が、静かに庭を通り抜けた。


その夜、剣を抱きかかえながら、葉月は、ひとり、星の見えない空を見上げていた。悠真が澪を車いすに乗せて近づくと、葉月は漏らした。

「私みたいなのが、こんな大切なものを持っていていいのかな? 私と歳の近い人たちは、みんなもう一人前の陰陽師になって、それぞれ果たすべき務めを果たしている。それなのに、私はまだ一人前にもなれていない……。お師匠様も言ってたでしょ? 『ようやく一人前の一歩手前まで来た弟子だ』って。私はまだ、『陰陽師』だなんて名乗る資格もないの。才能がないっていうのかな? 一生懸命修行してるけど、ほかの人たちより、ずっと物覚えが悪くて……。正直、そんな自分が嫌になってばかりなんだ」

「九明さんが、おれに話してくれたことがある」

悠真も、星の見えない空を見上げながら言った。

「葉月に陰陽師としての修行をさせていたころ、なかなか覚えられない葉月を見て、周りの師匠仲間たちが言ったらしい。『あの子は向いていないんじゃないか。無理なんじゃないか』って。

 でも、そのとき九明さんは、こう答えたらしい。『覚えるのが遅い子は、ひとつひとつをほんとうに理解してから次に進んでいる。だから、ある日突然、だれよりも遠くまで行く』って。

九明さん、葉月になにかを教えているとき、楽しくてならないって顔してるよ」

葉月は、動かなかった。

「それに──」

悠真は、草薙剣に目を落とした。

「その草薙剣そのものが、ほかのだれでもない、葉月を持ち主として選んだんだ。

 葉月のそばには、葉月以上に葉月のことを信じている人間がいる。人間だけじゃない、その剣もまた、葉月のことを信じているんだ」

剣を抱えながら小さく震えている葉月の手に、そっと、澪の手が添えられた。その瞬間、葉月の中に温かいものが流れ込んできたように感じた。初めて澪に会ったときに感じた、あの圧倒的な安心感──葉月の目に、再び涙があふれていた。

そんな三人のことを、少し離れたところで、ほかの仲間たちが笑顔で見守っていた。


第三節 マナの壺

「悠真君、澪さん……」

産総研(産業技術総合研究所)・大阪センターの岡博士が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「孝三先生の葬儀のとき以来だね」

少しだけ言葉を探す。

「清華先生のときには……行けなかった。すまなかった」

静かに頭を下げた。

澪は、小さく首を振った。

岡は顔を上げると、ふたりを見つめた。

「でも……立派になったな」

そのまま、そっと抱きしめる。

「きっと、おふたりとも、喜んでおられる」

悠真はうなずき、木箱を差し出した。

「三木博士から預かってきました」

岡はそれを受け取り、慎重に蓋を開ける。現れたのは、白磁のような外殻を持つ装置。滑らかな曲面。あの『プロメテウス』と同じ形をしているが、ひと回り小さい。

「……これを、持ってきてくれたのか」

指先で、そっと触れる。

「ありがたい」

静かに息を吐いた。

「これで、多くの人が助かる」

和真が、一歩前に出た。

「あの……ここでは、なにを作っているんですか?」

岡は、少しだけ笑った。

「燃料だよ」

「燃料?」

「水素と二酸化炭素から、液体燃料を作っている」

名嘉が腕を組む。

「合成燃料か」

「そうです」

岡はうなずいた。

「もともと実用化の直前まで進んでいた。だが、あの大災害で、ほとんどの工程が止まってしまった」

一度、言葉を置き、視線を落とした。

「電力がなければ、なにも作れない」

静かな声だった。

「だが——」

岡は、小型のプロメテウスに手を置いた。

「これがあれば、話は別だ。最低限のエネルギーは確保できる。合成を続けられる」

悠真がわずかに目を細める。和真が尋ねた。

「ガソリンの代わりになるんですか?」

「完全に同じではないが、既存のエンジンで使える」

「つまり——」

名嘉が言葉を引き取る。

「車が動く。トラックも」

岡はうなずいた。

「火山灰の問題は残っています。だが、それでも物流は動き始める。物が運ばれ、人が動く。それだけで、世界は少し息を吹き返す」

だれも軽くは受け止めなかった。

「……つなぐための燃料ですか」

十蔵が低く言った。

「そうです」

岡は静かに答えた。

「これは、未来のためのエネルギーではない。今をつなぐための火なんです」


大阪センターの地下は、高松の静けさとはまるで違っていた。実験器具が触れ合う乾いた音、配管の奥を流れる流体の低い唸り、だれかの足音と抑えきれないざわめきが重なっている。止まっていたはずの場所に、焦りと期待が入り混じっていた。
小型の『プロメテウス』が据えられる。接続が完了した、その瞬間だった。
低く、深い吸引音が、施設の奥から立ち上がる。止まっていたプラントが、ゆっくりと息を吹き返す。配管の中で流れが戻り、圧力計の針がわずかに震えながら持ち上がる。
「……動いた」
だれかが小さくつぶやいた。合成燃料の生成が、再び始まっていた。

「やった! これで!」

そう叫んで、涙をぬぐう研究員たちもいる。
岡はその様子をじっと見つめていた。やがて、静かに口を開く。
「孝三先生と清華先生から、君たちの話を初めて聞いたときは……正直、信じられなかったよ」
視線を悠真と澪へ向ける。
「近いうちに、日本も、世界も、暗闇に包まれる。そのあとで、再び築き始めるための“鍵”が、君たちだと」
小さく息を吐く。
「……でも、今ならわかる」
視線を戻す。動き始めたプラントへ。
「これは、ただの技術じゃない。人が、もう一度つながるための力だ」


「悠真君、これから、この国と世界はどうなっていくんだい?」

岡の問いに、部屋にいた研究員たちが一斉に動きを止めた。だれもが悠真を見つめている。

悠真は、一度大きく息を吸ってから話し始めた。これから起こることを。

未知ウイルスによるパンデミック。
氷河の融解による急激な海面上昇と豪雨被害。
バッタとイナゴによる食糧危機。
太陽フレアによる巨大磁気嵐。
そして——文明の終焉。

言葉が尽きたとき、部屋の空気は重く沈んでいた。

「それらが……これから、わずか数ヶ月の間に起こると?」

震える声で、そう尋ねるのが精一杯だった。

悠真は静かにうなずいた。研究員たちもみな、言葉を失っている。うつむいて、肩を震わせている者もいる。

沈黙がしばらく続いた。やがて、岡が顔を上げて言った。

「悠真君、澪さん、そしてみなさん」

その声は、もう揺れていなかった。

「私たちは、あなたがたを信じます」

ひとりひとりを見渡す。

「この国に、世界に、もう一度、火を灯し、光を灯してくれることを」

言葉を重ねる。

「だから、私たちも、今、私たちがやるべきことに全力を尽くします。私たちにしかできないことを、命を賭けて」

研究員たちがゆっくりと、しかし、力強くうなずいた。

「そして、少しでも多くの燃料を作り、蓄え、人々に託していきます」

その眼には、はっきりと覚悟の光が宿っていた。その場にいた全員が、同じ眼をしていた。

(ねえ、悠真。“鍵”というのは、なにも、私たちだけじゃないんだね)

澪の声が、静かに届く。

(未来に向かって、今このときを全力で生きている人たち──そのひとりひとり、全員が、きっと、ほんとうの意味での“鍵”なんだね)

悠真は、澪の肩に手を置いた。そして、やさしく微笑んだ。


大阪センターを後にする際、悠真は一度だけ振り返った。地下のプラントからは、先ほどよりも力強い鼓動が響いている。それは、岡たちの命の輝きが、『プロメテウス』の火と完全に同期した証だった。

「行こう」

その一言とともに、一行を乗せた車が、火山灰の降り続く街へと走り出した。


やがて、一行は仁徳天皇陵古墳——大山古墳へとたどり着いた。

エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び称される、「世界三大墳墓」の一つ。濠を含む全長は約840メートル。高さは約35メートル。総面積は、実に、47万平方メートルを誇る。五世紀中頃に築かれた、前方後円墳である。

だが、その圧倒的な規模以上に、この場所には別の意味があった。

「どうして、ここに?」

「ここには、なにがあるのですか?」

遥と道心が、ほぼ同時に口を開く。

名嘉が周囲を見回しながら言った。
「天皇家ゆかりの古墳だから、当然、おれたちとも多少縁があることはわかる。だが、それだけじゃないな」

だれもが同じ疑問を抱いていた。

悠真は、和真と綾子に視線を向ける。

「ふたりなら、わかるな」

和真が迷いなく答えた。

「はい。ここに、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が隠されています」

空気が止まった。

「……ここに?」

葉月が思わず声を上げる。

「皇居にあるものだと思っていました」

綾子が静かにうなずく。

「長い間、そうだったわ。でも——戦後、状況が変わった」

言葉を選ぶ。

「敗戦の直後、GHQが神器の存在に強い関心を示したの。持ち出される可能性があった」

名嘉が低く言う。

「だから、隠したのか」

「ええ」

綾子は続ける。

「当時の陰陽師たちの判断と、“カラス”の導きで」

その言葉に、場の空気がわずかに揺れた。

遥が目を輝かせる。

「じゃあ……これから、それを取りに行くんだね?」

「草薙剣の次は、八尺瓊勾玉か。なんだか、少し楽しみになってきた」

その言い方に、名嘉がすぐに返す。

「おい、スタンプラリーじゃねえんだ。軽く言うな」

だが、その口調は完全な否定ではなかった。

だれもが感じていた。次に手にするものが、なにを意味するのかを。

悠真は、古墳の奥へと視線を向けた。そこにあるのは、ただの遺構ではない。長い時間をかけて守られてきた“なにか”だ。


仁徳天皇陵古墳は宮内庁の管理下にあり、原則として立ち入りが禁じられている禁足地だ。後円部と前方部の両方に、石材で囲まれた「石室」が存在すると考えられているが、その詳細は長く伏せられてきた。

今、一行は和真と綾子に導かれ、後円部へと足を踏み入れていた。

「こんなところに入口があるなんて……全然わからなかった」

遥が思わず声を漏らす。

綾子が、やわらかく問いかけた。

「“前方後円墳”っていう形、どう見えてる? この形にも、ちゃんと意味があること、遥は知ってる?」

「意味? 考えたことないな」

「じゃあ、どんな形がまず思い浮かぶ?」

遥は少し考え、空中に指でなぞる。

「丸と、台形がくっついたみたいな」

麗が続けた。

「私もそう。……けど、考えてみたら、『前方後円』と言われてるのに、ぱっとイメージするのは、むしろ鍵穴みたいな形。上が円形で、下が台形。写真でも、必ずと言っていいくらい、そうなってる」

「そうね」

綾子はうなずいた。

「それが、よく知られている“見え方”。でも、それはあくまで表の形なの」

遥が首をかしげる。

「表?」

「上下を入れ替えてみて」

綾子の言葉に、遥はもう一度空中に形を描く。丸が下に来るように。

その瞬間、表情が変わった。

「あ……」

「どう見える?」

「壺……だ」

十蔵が小さく息を漏らす。

「なるほど……」

綾子は静かに続けた。

「壺というのは、“なにかを収めるための形”」

「そして、古代イスラエルにおいて、壺といえば——」

遥がすぐに反応する。

「マナ。天から与えられた食べ物」

綾子はうなずいた。

「そのマナを納めた壺が、神の前に置かれていたと伝えられている」

九明が低く言った。

「契約の箱の中だな」

空気がわずかに張り詰める。

綾子は続けた。

「日本の三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉は、その“マナ”に対応すると考えられている」

「だからこそ——」

視線を、足元の大地へと落とす。

「“壺”を意味するこの場所に、隠された」

十蔵が感心したように言った。

「形そのものが、隠し場所の意味を示してたってことですか」

目に見えていたものが、まったく違う意味を持ち始めていた。

名嘉がため息交じりに言った。

「それにしても、なんとも大胆だな。ここに鍵穴がありますよ、ここがマナの壺ですよって、大声で言ってるようなもんだ」

道心が静かに続けた。
「大きければ大きいほど、かえって、人には見えなくなるものなんですね」

その言葉には、抗いようのない真理の重みがあった。


「実際に敷地内に入ってみると、ジャングルみたいだな」

名嘉がつぶやいた。

「自分たちが今どの辺を歩いているのか、まったくわからないですね」

十蔵の言葉に、九明が応じる。

「結界の中だからな。守られてもいるから、普通には、まずたどり着けん」

「あそこです」

和真が指さした。

だが、示された先には、何も見えない。

「陰陽師の結界に加えて、メタマテリアルも使われているの」

綾子が言う。

「メタマテリアル?」

「光を迂回させて、物体を視界から外す技術。いわゆる“透明マント”です」

十蔵が補足する。

和真が操作すると、空間がわずかに歪んだ。それまでなにもなかった場所に、扉の輪郭が浮かび上がる。

ロックが解除される。静かに開いたその先には、岩に囲まれた通路が続いていた。奥は見えない。一行は、言葉を交わすことなく足を踏み入れる。

その瞬間だった。名嘉の中に、なにかが流れ込んできた。不思議な感覚──まるで走馬灯を見ているかのように“過去”が思い出され、様々な感情が波となって心に押し寄せてきた。

日本での生活。
両親の顔。
自衛隊での日々。

海外での戦い。
銃声と煙。
倒れていく仲間たち。

血の匂い。

そして——最愛の妻と子ども。その喪失の瞬間。

その時の絶望。

死に場所を求めて戦闘に明け暮れた日々。

胸の奥に沈めていたはずの感情が、一気にあふれ出す。名嘉は、気づかぬうちに涙を流していた。だが、不思議と苦しさはなかった。むしろ、どこか軽くなっていく。息が、楽になる。

周囲を見ると、他の仲間たちも同じだった。それぞれが、自分の過去と向き合っている。だれも言葉を発しない。ただ、静かに歩いている。

綾子が、後ろから静かに言った。

「“時の通路”って呼んでいるの」

少しだけ言葉を置く。

「あるいは、“祈りの道”」


どれくらい歩いただろう。突如、空間が開けた。

なにもない——そう思った。

だが、違う。“なにか”が、満ちている。

光源は見当たらない。それでも、闇ではなかった。やわらかな光が、空間そのものから滲み出ている。

恐怖はなかった。むしろ、深く抱きとめられるような安心感がある。同時に、身体の奥へと静かに流れ込んでくる“力”。

葉月が手にする草薙剣が、かすかに脈打っていた。まるで呼吸をしているかのように。葉月は、それをゆっくりと掲げる。刃に宿った光が、静かに広がる。やがて、その光が一点に集まった。

石室の奥。なにもなかったはずの場所。そこに、たしかに“中心”があった。

和真と綾子が、迷いなくそこへ進む。

和真が両手を差し出し、静かな声で、言葉を紡ぐ。その言葉は、意味としてではなく、響きとして空間に満ちていく。草薙剣の光が、応えるように強くなる。

次の瞬間。

光が、流れた。剣から、和真の掌へ。まるで、導かれるように。

凝縮された光は、やがて形を持ち始める。眩しさが、ゆっくりと収まる。

光が消えたあと、和真の手の中に、それはあった。

八尺瓊勾玉。

静かに、淡い光を宿している。

それは、ただの物ではなかった。長い時間を経て、ここに“戻ってきた”ものだった。


「八尺瓊勾玉を和真がちゃんと受け取ったことだし。

 あ~あ、和真の保護者としての私の役目も、これで終わりかな」

仁徳天皇陵を後にした綾子が、灰色の空を眺めながら、ちょっぴり寂しそうに、だが、晴れ晴れとした声で言った。

みなが綾子を見る。

「だって、私、みんなと違って、使徒でも、選ばれし者でもないもん。わがまま言って、和真の保護者役買って出て、みんなに同行させてもらってただけだもんね」

「そんな……」

遥が今にも泣き出しそうな顔をしている。

悠真が、澪が乗った車いすごと綾子に向き直った。

「綾子はどうしたい? 皇室の人間=内親王としてではなく、ひとりの人間として」

綾子はうつむいた。うつむいたままポツリと言った。

「私は……できることなら、このまま、みんなと一緒にいたい……。そして、見届けたい。

 でも──私なんか、ある意味、部外者だし……」

「部外者? 本当にそう思ってんのか?」

名嘉が、珍しく、怒ったように言った。

「おれたちが、おまえを部外者扱いしたことが一度でもあったか?」

綾子は顔を上げた。名嘉の目が真剣だった。

「おれは戦場で、何百人もの人間を見てきた。使える人間と、使えない人間を、瞬時に見分けることが、生死を分けたからだ。綾子、おまえは──おれが今まで見てきた中で、最も“場”を読む目を持っている人間のひとりだ」

「場を……読む?」

「剣山で、葉月がためらったとき。仁徳天皇陵の通路で、おれが涙を流したとき。それだけじゃない。和真や遥が、ちょっとでも寂しさを感じたとき。おまえは、だれより先に、その人の隣にいた。言葉もなく、ただそこにいた。それが、どれだけのことか、わかるか? おまえは、おれたち全員を結びつける“要”のような存在なんだ」

綾子は、なにも言えなかった。

そのとき、和真が綾子の前に立った。見上げるように、まっすぐに。そして、綾子の手を取った。

「綾ちゃん」

「……なに?」

「ぼく、ずっと思ってたんだ。なんで綾ちゃんは、あのとき髪を切ったんだろうって」

綾子は、一瞬、言葉を失った。

「それは……気持ちを切り替えたかっただけで──」

「ちがうよ」

和真は首を振った。

「綾ちゃんは、あのとき、なにかが変わったんだよ。ぼくには見えてた。でも、綾ちゃんだけ、気づいてなかった」

「……和真」

「部外者じゃないよ。ぼくが一番よくわかってる」

悠真が、静かに言った。

「綾子が“部外者”だと思っているなら──澪に聞いてみるといい」

澪の手が、ゆっくりと綾子へ伸ばされた。綾子がその手を取った瞬間──なにかが、流れ込んできた。言葉ではない。映像でもない。ただ──ずっと前から、ここにいた、という感覚。

「……え?」

澪が微笑んでいた。声はない。だが、綾子には伝わった。

(あなたは最初から、ここにいるべき人だった)

綾子の目から、静かに涙がこぼれた。


【第2章】 神話の灯(ともしび)

第一節 八咫鏡──言霊と舞

「草薙剣、八尺瓊勾玉ときたからには、次は、八咫鏡だね?」

大きく伸びをしながら遥が言った。

「おっ、三種の神器のこと、ちゃんと言える高校生なんてそういないぞ。大したもんだ」

「またばかにして!」

「じゃ、八咫鏡について、おれに説明してみろ」

名嘉がニヤリと笑い、腕を組んだ。試すような、だがどこか楽しそうな声。

遥はひとつ深呼吸をすると、一言一言考えながら語り始めた。

「八咫鏡……天照大御神が天の岩戸に隠れちゃったとき、彼女を外に引き出すために作られた鏡と言われていて……」

遥は一度言葉を切り、名嘉をまっすぐに見据えた。

「でも、私が一番大事だと思うのは、その意味。天照大御神がこの鏡を授けるとき、『この鏡を、私自身の魂だと思って拝みなさい』って言ったんでしょ?」

名嘉が、わずかに目を見開く。

「鏡って、嘘つけないじゃん? だから、八咫鏡は『正直』の象徴。自分を映して、魂に曇りがないか問い続けるための道具なんだって……」

遥の声から、以前のような投げやりな響きは消えていた。

「……私、今まで自分の血筋なんて大嫌いだったし、そんなの知る必要もないと思ってた。でも、名嘉さんたちに教えられて……この旅でみんなを見ていて、初めて思ったの。『自分が何者で、なにをすべきか』をちゃんと鏡に映して見なきゃいけないんだって。だから私、もっとちゃんと学びたい。一から、この国のことを。……変かな?」

一瞬の静寂。

名嘉は驚いたように口を半開きにしていたが、やがて顔をクシャッとさせて笑った。

「……変なもんか。おまえ、大したもんだよ。ただの生意気なガキだと思ってたが……いつの間にか、いい目をするようになったな」

遥が、ふと考え込むように空を見上げた。そして、自分の中で浮かんできたものを、言葉にしていいのか迷うように、少し間を置いた。

「でもね、名嘉さん。私、あの『天岩戸』の話を聴いてて、ずっと違和感があったんだ。岩戸の前でみんながバカ騒ぎしてたのって、ほんとうに天照大御神を喜ばせるためだけだったのかなって」

「なぜそう思ったのですか?」

十蔵が、興味を惹かれたように遥を見た。

「みんなは、日本の神器が古代イスラエルの聖遺物……アロンの杖や、マナとその壺、十戒の石板に対応してるって、当たり前みたいに言うじゃない?

 でも、もし八咫鏡が『十戒の石板』の“記憶”を受け継いでるんだとしたら……あのお祭り騒ぎの正体って、モーセを待てなかった人たちの“恐怖の記憶”なんじゃないかな」

「恐怖だと?」

名嘉の手が止まる。

「そう。山に登った指導者が帰ってこない。神様がいなくなっちゃった。怖くて、不安で、そのパニックを紛らわせるために、ふもとの人たちは金の子牛を作って、狂ったように踊り明かした……。それが、いつの間にか『岩戸の前で楽しく踊りました』っていうきれいな伝説に書き換えられたんじゃないかって思うの」

道心が小さく息をのむ。

「つまり、天岩戸の神話そのものが、“あの出来事”を、別の形で語り継いだものではないかということか……」

静寂が広がった。名嘉や十蔵、道心だけでなく、少し離れたところで耳を傾けていた九明が、目を見開いてこちらを振り返った。

「……なるほど。面白いな」

九明のその声は、長い年月を生きてきた者だけが持つ重みを帯びていた。そして、深い敬意を込めてつぶやいた。

「われわれは、形としての対応ばかりを追ってきた。だが、その伝説の裏に隠された『民の弱さ』に思い至るとは……。遥、おまえのその直感は、死んでいた歴史の記録に、血を補わせるものかもしれぬな」

「え……? あ、私、また変なこと言っちゃった?」

遥が慌てて名嘉の顔を伺う。名嘉は驚きを通り越し、自慢げに鼻を鳴らして遥の頭を乱暴になでた。

「変なもんか。おまえ、今、とんでもないところに気づいたかもしれねえぞ。さすが、“舞”と“言霊”を継承する者の末裔だ、遥」

「ちょっと、髪がぐちゃぐちゃになるでしょ!」

怒ったふりをして手首を払う遥。だが、その頬は赤く染まっていた。

そんなふたりを見て、綾子が穏やかに、心からの実感を込めて告げた。

「……ふふ。ふたりって、ほんとうに父娘(おやこ)みたいだよね」

悠真が、静かに遥を見つめている。

「“直感”や“気づき”っていうのは、AIの演算速度さえゆうに超えていくものなのかもしれないな」

車いすの澪がうれしそうに笑っていた。

火山灰に覆われた空の下、だれもが、遠い過去から今へと繋がる“記憶”の存在を、静かに感じていた。


「伊勢へは、少し遠回りをする」

車両に乗り込みながら、悠真が言った。

「遠回り?」

「どうしても寄っておきたい場所がある。太秦と、琵琶湖だ」

遥が首を傾げる。九明が静かに答えた。

「いや——むしろ、順番としては自然なのだ」

「順番?」

「八咫鏡は、“記憶”と“響き”を受け継ぐ者しか辿り着けぬ。
 ならば、その前に、“記憶の土地”と“響きの湖”を通る必要がある」

葉月が続けた。

「太秦は、“変換された記憶”の土地。
 そして琵琶湖は、“響き”の土地です」

遥が小さくつぶやく。

「よくわかんないけど……だから、先にそこへ行くんだね」

悠真が、遥を見ながら、静かにうなずいた。

車両は大阪を出て北東へ向かった。

「太秦って、なんで『うずまさ』って読むんだろ。どう考えても、普通には読めないよね」

遥が、車窓を流れる街並みを眺めながら言った。

「それ、面白い話がある」

綾子が応じた。

「太秦という地名の由来には、諸説あるんだけど……『うずまさ』という音そのものが、ある言葉の訛りではないかという説があるの」

「ある言葉?」

「『イエス・キリスト』」

「え? どういうこと?」

遥が身を乗り出す。

「古代ヘブライ語やアラム語で、イエスを意味する『イェシュア』、そしてキリストを意味する『マシアハ(メシア)』──これらが、シルクロードを伝わる過程で変化し、音が訛り、やがて『うずまさ』という音に近づいていったのではないかという説なんだ。

 イェシュア・マシアハ──イシュ・マシア──ウズ・マサって」

「それって……つまり、太秦という地名そのものが、イエス・キリストの名前だったってこと?」

「都市伝説の域を出ない話ではあるけどね。でも──」

綾子は、窓の外に視線を向けた。

「この国には、そういうものが多すぎるの。偶然と片づけるには、あまりにも」

九明が静かに続けた。

「『大秦』という言葉を知っているかな」

「大きい秦……?」

「古代中国において、『大秦』とはローマ帝国を意味した。シルクロードの西の果て、ローマ帝国のことを、当時の中国人は『大秦』と呼んでいた。そして、ローマを経由して東へ伝わったキリスト教の一派──景教は、中国で『大秦景教』と呼ばれた。弘法大師・空海も学んだものだ」

「じゃあ……九明さんの祖先である秦氏の『秦』と、ローマの『大秦』は……」

「音が、重なる」

道心が引き取った。

「秦氏がローマ由来の民であるとは言い切れないし、もしかしたら、イスラエルの『失われた十氏族』だったのかもしれない。だが、シルクロードを渡ってきた人々の中に、景教の信者が混じっていたことは、歴史的に確かだ。そして秦氏に代表される渡来人が日本に持ち込んだものが、この国の至るところに、形を変えて残っている」

「……ヤマト・コードって、ほんとに、どこまで広がってるんだろ。地名だけじゃなくて、人の名前にも、生まれた場所にまで、刻まれてるんだね」

遥がため息をついた。それは疲れではなく、果てしなさへの、半ば呆れた敬意だった。


遥はしばらく黙っていた。車両が、太秦の街を抜けていく。広隆寺の屋根が、灰色の空の下に見えた。

「聖徳太子が、秦河勝(はたのかわかつ)を側近にして、あちこちに寺や伽藍を建てた話は知ってるよね?」

綾子が再び遥に語りかけた。

「うん」

「でも──聖徳太子という存在そのものについて、もう一歩踏み込んで考えてみると、面白いことになるのよ」

「どういうこと?」

「聖徳太子の実在を疑う歴史家は、昔から少なくない。記録が多すぎる割に、実像が掴めない。奇跡的な逸話が多すぎる。生涯の軌跡が、まるで──だれか別の人物の生涯と、重なりすぎてる」

「だれか別の……」

遥が、ゆっくりと言葉をたどる。

「この物語の前提で言えば」

悠真が、静かに口を開いた。

「聖徳太子という存在は、もしかしたら、イエス・キリストという存在の"記憶"が、この国の土壌に合わせて語り直されたものかもしれない」

「語り直された……記憶。だから──そういったこと全部を踏まえて、“記憶の土地”なんだね」

麗が小さくつぶやいた。

「太子は、生まれながらに聡明で、十人の話を同時に聞けたと言われている。民を慈しみ、病者を見舞い、仏教という新しい教えを国に広めた。そして、志半ばで、比較的若くして世を去った」

道心が、一つ一つ確認するように言葉を置いた。

「その生涯の骨格が、別のだれかのものと重なるとすれば……」

「そして──厩戸、つまり馬小屋で生まれた、という伝承まで」

遥は、自分が今、なにかの縁(へり)に立っている気がした。言葉の意味が、表面から剥がれて、その奥にある別の層が見えてくるような感覚。

「私、さっきから思ってたんだけど」

遥が静かに付け加えた。

「ヤマト・コードって、隠すために作られたものだって、悠真さんは言ってたよね。でも……隠しながら、同時に、残そうとしてる。消えないように。だれかにわかってもらえるように」

「そうだ」

「それって……すごく、寂しいことだよね」

だれも、すぐには答えなかった。

「残した人たちは、自分が残したものが、ちゃんとだれかに届くかどうか、わからないまま死んでいった。届くかどうかもわからないまま、それでも残した」

遥の声は、静かで、重かった。

「……馬小屋で生まれた王の話を、この国の言葉に翻訳した人がいた。その人は、自分がやっていることの意味を、だれかに説明できなかったんだと思う。でも、やめられなかった」

九明が目を細めた。

「遥」

「はい」

「今、おまえが言ったことを、われわれは何百年もかけて、ようやく言葉にしようとしてきた。

 おまえは、今、初めてそれを聞いたにもかかわらず、そこに辿り着いた」

遥は、照れたように視線を落とした。

「そういうのが、言霊っていうものだよ」

葉月が、草薙剣を抱えながら、静かに言った。

「言葉の意味だけじゃなくて……言葉の奥にあるものを、自分の中に取り込んで、外に出す。遥が今やったのは、それだと思う」

遥は葉月を見た。葉月が小さく微笑んだ。

「私には、できないことだよ」

遥はなにも言えなかった。頭の中では、さまざまな言葉が静かに重なり続けている。意味として理解しているのではない。もっと深いところで、なにかが、呼応していた。

──言葉って、こういうふうに働くんだ。

遥は初めてそう思った。

意味を知るだけでは、届かない場所がある。言葉の音が、形が、重なり合ったとき、初めて見えてくるものがある。それは、頭ではなく、体で受け取るものだ。

「大事なものは、残す。でも、そのままの形では残せない。だから、この国の言葉に、この国の人物に、この国の風景に、翻訳して残す」

十蔵が感慨深そうに言った。

「翻訳するたびに、原形からは遠ざかる。でも、核心だけは残ります」

遥は、その言葉を聞きながら、自分の手を見た。舞を踊るときに使う手。ずっと、意味がわからないまま動かしてきた手。

──もしかしたら、私の舞も、そういうものなのかもしれない。意味がわからなくても、形が残る。形が残れば、核心が残る。

祖母と母が教えてくれた型を、ずっと嫌いだと思っていた。でも、型というのは、翻訳されたものなのかもしれない。言葉で伝えられないものを、体の動きに翻訳した、だれかの必死の痕跡。

遥は窓の外を見た。太秦の街が、後ろへ流れていく。なにかが、少しだけ、変わっていた。


琵琶湖の湖畔に降り立ったとき、和真が声を上げた。

「わあ……」

湖面は、灰色の空をそのまま映して、静かに広がっていた。波ひとつない。どこまでも、続いている。

「大きい……」

遥はしばらく言葉を探した。

「海みたい」

「日本最大の湖だからな」

名嘉が言った。

「でも、この湖には、別の顔がある」

悠真が、湖面を見ながら言った。

「別の顔?」

「イスラエルに、ガリラヤ湖という湖がある」

遥がすぐに反応した。

「イエス・キリストが、漁師たちを弟子にした湖だよね? 嵐を静めたり、水の上を歩いたり」

「そう。そのガリラヤ湖には、別名があるんです」

十蔵が言った。

「別名?」

「キネレテの海」

遥が、その言葉を口の中で繰り返した。

「キネレテ……」

「ヘブライ語で、竪琴を意味する言葉です」

遥の動きが、止まった。

「竪琴……」

「そう。湖の形が、竪琴に似ているからとも言われています。そして──」

湖面に目をやりながら十蔵が続けた。

「琵琶湖の『琵琶』も、弦楽器の名前です」

遥は湖を見ていた。灰色の空を映した、静かな水面を。

「もし、日本が“東のイスラエル”なら、琵琶湖って、“東のガリラヤ湖”なのかもしれないということだね」

道心が静かに言った。

「竪琴の湖と、琵琶の湖──“音”の名前を持つ湖。

 “音の記憶”……。

 祈りは、昔から“響き”でした」

悠真が続ける。

「言葉も、歌も、舞も、祈りも——全部、“波”なんだ」

十蔵が、どこか興奮したようにつぶやく。

「周波数……共鳴……」

九明が湖を見つめながら、静かに言った。

「だから、“記憶”は音として残されたのかもしれぬな……」

遥は小さくつぶやいた。

「竪琴と琵琶。どっちも、弦を張って、震わせて、音を出すもの」

「そうだ」

悠真が言った。

「弦は、ひとりでは鳴らない。だれかが、触れなければ」

遥は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。湖面を見ながら、なにかを、静かに飲み込んでいるようだった。

やがて言った。

「ねえ、悠真さん。舞って、なんだと思う?」

唐突な問いだった。だが、だれも驚かなかった。

「遥はどう思う?」

悠真が、逆に問い返した。遥は少し考えた。

「私ね、ずっと、舞なんて意味ないって思ってた。時代遅れだって。学校でいじめられるくらいなら、そんな血筋、なかったほうがよかったって」

「うん」

「でも、今……うまく言えないけど……たくさんの言葉たちが、そして、その意味が、頭じゃなくて体に入ってきた感じがして。それをそのまま、外に出したくなってるの。声じゃなくて、体で」

遥は、少し恥ずかしそうに続けた。

「もしかしたら……、それが舞なのかなって。初めて、そう思った」

葉月が、草薙剣を抱えたまま、静かに言った。

「言霊は、音だけじゃない」

「うん」

「体で響かせるものが、舞。音で響かせるものが、言霊。でも、根っこは同じだと思う」

「根っこ?」

「内側に受け取って、外側に返す。それだけ」

遥は、葉月を見た。

葉月は、草薙剣を見ていた。その刃に宿る、淡い青白い光を。

「この剣も……そうなのかもしれない。私が持っているんじゃなくて、私を通して、なにかが流れている」

「葉月……」

「遥も、きっと、そういうものだよ」

火山灰に覆われた空の下。琵琶湖だけが、遠い昔の記憶を抱いたまま、静かに呼吸しているように見えた。

そのとき、湖面に、一羽の鳥が舞い降りた。

三本足だった。静かに、湖の上をひとまわりして、南の空へと消えた。

澪の意識が、悠真に触れてきた。

(この湖の底に、ずっと眠っていたものが……目を覚ましている気がする)

(言葉を持たないまま、眠っていたもの)

(遥が、今日、その言葉を見つけた)

悠真は、澪の肩にそっと手を置いた。


その夜、一行は琵琶湖畔近くの、小さな寺院跡に身を寄せていた。寺は半壊していた。瓦は崩れ、鐘楼も傾いている。だが、不思議なことに、本堂だけは残っていた。

風が吹く。灰混じりのひんやりした風。その音の奥に、湖の波音が重なっていた。

遥は、ひとり、縁側に座っていた。膝を抱えながら、ぼんやりと湖を見つめている。その隣に、静かに葉月が腰を下ろした。

「眠れないの?」

遥が苦笑する。

「うん。なんか……頭の中が、ずっと響いてる感じ」

「響いてる?」

「うまく言えないんだけど……
 昔の人たちの想いとか、言葉とか、そういうのが、自分の中に流れ込んでくるみたいで」

葉月は静かに遥を見つめていた。遥は続ける。

「変だよね。今まで、こんなこと一回もなかったのに」

葉月が小さく首を振った。

「たぶん、なかったんじゃなくて……。遥が、聴かないようにしていたんじゃないかな」

遥が目を瞬かせる。葉月は湖を見ながら続けた。

「言葉というものは、不思議なの。

 人は、“意味”だけで話しているわけじゃない。

 悲しみ。
 怒り。
 孤独。
 願い。
 祈り。

 そういうものが、全部、言葉の奥に宿るの。だから、“言霊”って呼ばれる」

遥は小さく息をのんだ。葉月の声は穏やかだった。

「“言霊”というのは、言葉を操る力じゃない。言葉の奥にあるものを受け取る力なんだって、私は、お師匠様から教えられてきたんだ」

風が吹く。湖面が揺れる。遥は、静かにつぶやいた。

「……だったら、私、ずっと怖かったのかも」

葉月が遥を見る。遥は、自分の膝を見つめていた。

「人の言葉が。
 言葉の奥にあるものが。

 笑ってても、ほんとうは嫌われてるとか。
 大丈夫って言いながら、ほんとうは傷ついてるとか。

 そういうの、なんとなくわかっちゃってた」

葉月はなにも言わなかった。遥は小さく笑った。

「だから、“いじられキャラ”やってたのかもね。空気壊したくなくて」

その言葉に、葉月の胸が痛んだ。

遥は、ずっと、“感じすぎていた”。だから、自分を守るために、明るく振る舞い、軽く振る舞い、なにも気にしていないふりをしていた。

葉月がそっと言った。

「でも、遥は逃げなかった」

遥が顔を上げる。

「え?」

「ほんとうに怖かったら、人の心なんて見ないふりをするはずでしょ? そうすることがいくらでもできたはずなのに、遥は、ずっと、人を見ていた」

遥は、なにも言えなかった。

そのときだった。

遠くで、琵琶湖の波が大きく揺れた。遥が顔を上げる。空気が変わっていた。名嘉も、道心も、悠真も、同時に立ち上がる。

「……来る」

悠真がつぶやいた。

その瞬間——

ゴォォォォォ……

地鳴りのような低い音が響いた。寺全体が震える。湖面が、大きく波打った。

「地震!?」

綾子が和真を抱き寄せる。だが、違った。

名嘉が、湖の向こうを睨んでいる。

「……なんだ、あれ」

湖面の上。灰色の闇の中。巨大な“影”が動いていた。

十蔵が息をのむ。

「あれは……」

長い。巨大だ。まるで、湖そのものがうねっているようだった。九明が言った。

「琵琶湖には、古くから龍神の伝承がある」

遥の身体が小さく震えた。だが、不思議と恐怖ではなかった。

“声”が聞こえていた。

——恐れるな。

——進め。

——おまえは、受け継ぐ者。

遥は無意識に立ち上がっていた。葉月が驚く。

「遥?」

遥は、自分でも気づかないまま、一歩前へ出た。そして、静かに舞い始めた。

だれも、息をするのを忘れていた。

風が変わる。

灰が舞う。

遥の動きに合わせるように、空気が、波が、木々が、共鳴し始める。

道心が小さくつぶやいた。

「……神楽」

葉月は目を見開いていた。

遥はきちんと習ってきたわけではなかった。それなのに、身体が自然に動いていた。まるで、ずっと昔から知っていたかのように。

遥の唇から、なにかの言葉がこぼれた。湖の向こうの“影”が、静かに止まった。巨大な波も収まっていく。世界が、遥の舞に耳を傾けているようだった。

悠真が静かに遥を見つめている。

「澪、見えるか?」

(うん、見える。遥が、舞ってる。美しい……)

澪は涙を流していた。

葉月の胸に、強い確信が生まれていた。

——この人だ。八咫鏡が待っているのは。

“言葉の奥”を聞き取る者。

“記憶”を受け取る者。

そして──それを“響き”として世界へ返せる者。

その夜。灰色の世界の中で、初めて、遥自身が、自分の中に流れる“血”を、否定ではなく、誇りとして感じ始めていた。


夜が明けるころには、琵琶湖の波は再び静けさを取り戻していた。だが、一行のだれもが理解していた。昨夜の出来事は、単なる偶然ではない。遥の舞によって、“なにか”が応えた。それだけは、たしかだった。

寺院跡の境内に、淡い朝靄が流れている。遥は縁側に座ったまま、ぼんやり空を見ていた。一睡もできなかった。胸の奥が、まだ熱を持っている。

葉月が、湯気の立つ湯飲みを差し出した。

「どうぞ」

「ありがと」

遥は受け取る。温かさが、指先から身体に広がった。

少し沈黙が流れる。やがて葉月が、小さく言った。

「……昨日の舞」

遥の肩がピクリと動く。

「私、あんなの習ったことない」

葉月はうなずいた。

「わかってる」

「なのに、身体が勝手に動いたの。なんていうか……“踊らされた”みたいな感じで」

遥は、自分の掌を見つめた。

「怖くはなかった。むしろ逆で……すごく安心した」

葉月は静かに微笑んだ。

「たぶん、思い出したんだね」

「思い出した?」

「そう。遥の“血”が覚えていたということ」

遥はなにも言えなかった。かつての自分なら、その言葉を拒絶していたかもしれない。“血”なんて大嫌いだった。そのせいで、苦しんだ。そのせいで、孤独だった。そのせいで、自分を呪った。

でも今は、不思議と違った。昨夜、舞っていたとき、自分の中に、たくさんの“だれか”がいた。

祈っていた人たち。
舞っていた人たち。
涙を流していた人たち。

何百年。

言葉と舞を繋いできた人たち。

遥は小さくつぶやいた。

「……私、ひとりじゃなかったんだ」

葉月が静かにうなずいた。

本堂の奥から低い声が響いた。

「ようやく、自分の“響き”を受け入れ始めたようだな」

九明だった。その隣には悠真と道心もいる。九明は、ゆっくり遥へ歩み寄った。

「人は、“血”という言葉を誤解しやすい」

遥が顔を上げる。

「血筋とは、特権ではない。“責任”だ」

九明の目は、どこまでも静かだった。

「遠い昔。受け継がれた祈り。守られてきた記憶。積み重ねられてきた願い。それらが、次の時代へ渡される。それが、“血”の本当の意味だ」

遥はじっと聞いていた。

「血は……責任……」

九明は続ける。

「だから、拒絶したくなるのも当然なのだ。重すぎるからな」

葉月が小さく目を伏せる。九明は、そんなふたりを見ながら微笑んだ。

「だが、遥。おまえは昨夜、“響かせた”」

遥の胸が、小さく震えた。

「舞とは、“見せる”ものではない。
 言霊とは、“操る”ものでもない。

 己の内に流れ込んだものを、心を込めて外へ返すことだ」

風が吹いた。朝の光が、灰色の空をわずかに押し開いていた。

九明は静かに空を見上げた。

「遥。伊勢の八咫鏡は、おそらく、おまえを待っている」

その言葉に、遥の呼吸が止まった。

「……私を?」

「八咫鏡は、“真実”を映す。
 そして、“魂”を視る」

九明の視線が、遥へ戻る。

「おまえは、“言葉の奥”を聞き取る。それはつまり、“魂の響き”を受け取れるということだ」

道心が静かにつぶやいた。

「鏡とは……“見るもの”ではなく、“見られるもの”なのかもしれませんね」

九明がうなずく。

「だからこそ、恐ろしい」

遥は、無意識に自分の胸を押さえていた。怖かった。もし、自分の中の醜い部分まで、全部見えてしまったら。

弱さも。嫉妬も。逃げたかった過去も。全部。

悠真が静かに言った。

「だから、八咫鏡は“正直”の象徴なんだろうな」

遥が顔を上げる。悠真は続けた。

「ほんとうに怖いのは、“他人に見られること”じゃない。自分自身から、逃げられなくなることだ」

遥は息をのんだ。

澪の車いすが、麗に押されて、静かに近づいてきた。

澪が、遥へ手を伸ばす。遥は、その手を握った。

温かかった。

すると、澪の想いが、流れ込んできた。

——大丈夫。

——あなたは、もう逃げなくていい。

遥の目から涙がこぼれた。

「……怖いよ」

心の中で遥はつぶやいていた。

——もし、八咫鏡に、“ほんとうの私”を見せられたら。

そのときだった。

名嘉が、背後から遥の頭を軽く小突いた。

「痛っ!」

「安心しろ」

名嘉はニヤリと笑った。

「おまえがどんな顔しようが、今さら嫌いになったりしねえよ」

遥が涙目のまま笑う。

「……なにそれ」

「父親ってのは、そういうもんだ」

「だれが娘よ!」

笑い声が広がった。その笑い声を聞きながら、遥は、初めて思った。

——ああ、私は、ここにいていいんだ。

胸の奥で、なにかが、静かに開いた気がした。まるで、長い間閉ざされていた岩戸が、少しずつ開いていくように。


翌日。一行は、ついに伊勢へ入った。灰に覆われた世界の中で、伊勢の森だけは異様なほど深い緑を保っていた。

風が違う。

音が違う。

空気そのものが、外界とは別の理(ことわり)で呼吸しているようだった。

参道へ足を踏み入れた瞬間、遥は小さく息をのんだ。

「……あ」

胸の奥が震えた。まるで、見えない“波”が、森全体を流れているようだった。葉月も静かに目を閉じている。九明が低くつぶやいた。

「やはり……ここは、“生きて”いる」

遥は周囲を見回した。

だれもいない。

なのに、無数の“気配”がある。

祈り。
願い。
涙。
感謝。

千数百年間も積み重ねられてきた“人の想い”が、森の中に染み込んでいる。遥は無意識に胸元を押さえた。

「……苦しい」

名嘉がすぐ反応する。

「大丈夫か?」

「う、うん……。なんか……いっぱい聞こえる」

「聞こえる?」

遥は自分でも戸惑っていた。言葉ではない。もっと曖昧なもの。でもたしかに、人の“想い”が流れ込んでくる。

九明が静かに遥を見た。

「受け取り始めているのだ」

「え……?」

「この地に残された“響き”を」

遥は森を見上げた。木々が風に揺れている。その音さえ、だれかの祈りに聞こえた。

やがて一行は、ある場所で立ち止まった。参道の一角。そこだけ、不自然に石が避けられていた。

「……これが」

葉月が小さくつぶやく。

「“踏まぬ石”」

遥が足元を見る。人が通れば、普通は擦り減る。だが、その石だけは、まるでだれにも触れられていないかのように残っていた。

道心が静かに言った。

「モーセですね」

遥が振り返る。

「シナイ山で、主なる神がモーセに言った言葉です。『履き物を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地だから』」

風が吹いた。森が鳴る。遥は、自分の足元を見つめた。胸の奥で、昨夜の“響き”が再び広がった。

——脱ぎなさい。

——余計なものを。

——恐れも。

——偽りも。

——全部。

遥は、ゆっくりと靴を脱いだ。

土の感触。

石の冷たさ。

その瞬間——

ゾワッ……!

全身を、なにかが駆け抜けた。

「遥!」

麗が声を上げる。だが遥は倒れなかった。涙を流していた。

「……あったかい」

その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「え?」

「この場所……すごく、あったかい」

葉月が静かに息をのんでいる。遥の周囲だけ、風の流れが変わっていた。まるで、森そのものが、遥を迎え入れているようだった。

九明がゆっくり頭を下げる。

「……八咫鏡は、やはり、遥を待っていた」

遥は涙を流したまま、ゆっくり歩き始めた。導かれるように。

だれも止めなかった。いや、止められなかった。遥の背中から、かすかな“響き”が広がっていたからだ。言葉ではない。音でもない。だが、たしかに、人の心を震わせるなにかだった。

やがて、伊勢神宮の深部、一般の参拝客は立ち入ることのできない禁足地へと足を踏み入れ、森の最奥へ辿り着く。そこには、古びた社があった。大きくはない。豪華でもない。だが、圧倒的だった。“そこにある”だけで、空気が変わっている。

遥は、社の前で立ち止まった。

——見なさい。

だれかの声が聞こえた。遥の呼吸が止まる。社の奥。暗闇の中に、なにかがある。

鏡だった。

それは、決して巨大ではない。むしろ、驚くほど静かだった。だが、目を逸らせない。鏡が、“こちらを見ている”。そんな感覚があった。

遥は、無意識に一歩前へ出た。すると、鏡の表面が、ゆっくり波紋のように揺れ始めた。

遥の身体が震える。遥は、そこに映るものを見た。

幼いころの自分。

教室。

笑い声。

「変な家」

「気持ち悪い」

「宗教女」

机に書かれた落書き。

笑って誤魔化していた自分。

泣けなかった自分。

“平気なふり”をしていた自分。

遥は、小さく首を振った。見たくなかった。だが、鏡は終わらなかった。

次に映ったのは、母だった。祖母だった。

舞っている。

祈っている。

涙を流しながら。

何十年。

何百年。

言葉を、舞を、祈りを、絶やさぬように繋いできた人たち。

遥は、その列を、端から端まで、ゆっくりと見た。知らない顔ばかりだった。でも、知っていた。この人たちの祈りが、自分の体の中に、ずっと流れていた。嫌いだと思っていたものの正体は、これだったのかもしれない。重すぎて、怖くて、だから拒絶していた。

列の先頭に、ひとりの少女がいた。遥は、その顔を見た。

——自分だった。

「……え」

その瞬間、鏡が、淡く光を放った。遥の胸へ、なにかが流れ込んでくる。

言葉。

歌。

祈り。

そして——“舞”。

声が出なかった。そうじゃない、と思った。私なんかが、先頭に立っていい人間じゃない、と思った。

でも、鏡は動じなかった。ただ、静かに、映していた。

弱かった遥も。

逃げていた遥も。

笑って誤魔化していた遥も。

そして——昨夜、琵琶湖の前で、だれかの声に応えて舞った遥も。

全部、映していた。全部が、ほんとうだと言っていた。

遥の目から、涙がこぼれた。一粒、また一粒。

「……私、こんなんだよ」

鏡に向かって、小さく言った。

「弱くて、臆病で、ずっと逃げてた」

鏡は、答えなかった。ただ、映し続けた。

そのとき、遥の胸の奥で、なにかが、静かに溶けた。

——それでいい。

声ではなかった。言葉でもなかった。ただ、確信だけが、そこにあった。

弱くていい。臆病でいい。逃げてきてもいい。

それでも、列は繋がっている。それでも、自分は、ここに立っている。

遥は、鏡をまっすぐに見た。もう、目を逸らさなかった。

遥の手が、自然に前へ伸びた。指先が、鏡に触れる。

冷たくなかった。

温かくもなかった。

ただ——

「……ああ」

声が、漏れた。

それは、初めて触れるものではなかった。ずっと前から知っていたなにかに、ようやく手が届いた感覚だった。遥は、その感触をたしかめるように、ゆっくりと両手で包んだ。暗闇の中から、それを引き出す。光が、遥の手の中で、静かに宿った。

遥が八咫鏡を持ったまま舞い始めた。だれも、息をするのも忘れ、その美しい舞に見入っていた。

遥が舞うたび、森が揺れる。風が呼応する。木々がざわめく。まるで世界そのものが、遥の舞に耳を傾けているように。

やがて、舞が、静かに止まった。

風も、止まった。

森も、止まった。

世界が、息をひそめた。


遥の手の中にある八咫鏡、葉月が手にしている草薙剣、そして和真が身に着けている八尺瓊勾玉──日本の三種の神器が、二千年近い歳月を経て、ここにそろった。それぞれの神器が、生命と意志とを持つかのように、淡い光を放っていた。


【第3章】 もう一つの鍵

第一節 約束の重さ──麗とあかり

「二階堂先輩の嘘つき!

 必ず戻るって約束したのに! だから、信じて、ずっと待ってたのに……」

怒りとも、悲しみとも、どちらとも言えない顔で、自分をじっと見つめる後輩看護師・本間あかり──麗が手取り足取り教えた最も信頼できる後輩であり同僚のまなざしを感じながら、麗は目を覚ました。

首都直下型地震が起こり、働いていた病院を去った日から一年数ヶ月──ときどき見る夢だった。

病院を離れることを告げたときの、驚きから困惑へ変わったあかりのあの顔を、麗は、自分の心に刻み付けた。「この顔を、忘れるな。これが、自分の選択の代償だ」と。そして、「必ず戻る。約束する」と言ったのだ。守れるかどうかわからない約束だったが。

その「代償」が、ボディブローのように、じわじわと麗の心に影響を与え始めていた。

(悠真、このままじゃ麗さんの心が壊れちゃう。なんとかしなきゃ)

麗の心の状態を敏感に感じ取っていた澪が訴えてきた。

悠真は迷った。本間あかりの“今”を知ることで、ますます麗が苦しむのではないか、と。

(どういうこと? あかりさんになにがあったの? ねえ、悠真、教えて)

このとき、世界もまた、静かに壊れ続けていた。

悠真が語っていた通り、“2038年問題”はついに臨界へ達し、世界各地で原発事故が連鎖した。7月下旬には未知ウイルスによるパンデミックが発生。海面上昇も限界を超え、沿岸都市は次々と海へ沈み始めた。豪雨は止まず、農地は失われ、8月にはサバクトビバッタとイナゴの群れが、中東およびインドの穀倉地帯の空を覆った。人々は、飢えを恐れ始めていた。

あかりは、看護師として献身的にその職務を果たし続けた。が、終わりの見えない現実に、体以上に、心が疲弊。そんな中、世界でも崩壊が起こり始めたことを知って、なんとか看護師としての責任や職務につなぎとめていた心の糸がプツンと切れてしまったのだった。地元に帰ることもできずに、半分引きこもりのような状態になっていることを、悠真は〈レムノス〉を通じて知っていた。

「わからないんだ。麗をそんな状態の本間さんに会わせていいのかどうか。麗のためにも、本間さんのためにも、どうすればいいのか……」

澪が、やさしく微笑みながら伝えてきた。

(悠真、私たちは人間だよ。正解を出してから動くんじゃなくて、悩みながら動いてみて、そしてまた考える──それって、人間にしかできないことじゃない。おばあちゃんだって、おじいさんだって、そうやって生きてきたはず。悩んだっていいんだよ)

悠真は一瞬驚いていたが、次には、うれしそうに澪に告げた。

「ごめん、澪。おれ、少し傲慢だった。そうだよな……。みんなで一緒に悩めばいいんだよな」

その日、悠真は麗に尋ねた。

「本間さんに会いに行かないか?」

麗は驚きながらも、答えた。

「行きたい。会って、ちゃんと話したい。

 でも、なんて言ったらいいのか……。会わせる顔もないような気がして……」

「怖い?」

しばらく答えに詰まっていた。

「……正直言うと、怖い。

 看護師としての職務を放棄して病院を去ったこと、澪を支えると決めて、そうしてきたこと──そこに後悔は一切ない。

 でも、きっと、周りの人たちには理解してもらえない。投げ出して逃げた、と思われてるに決まってる。私が怖いのは、きっと、その現実と向き合うことなんだと思う」

握りしめた拳が小さく震えている。

そのとき、目が見えないはずの澪の両手が、やさしく麗の拳を包み込んだ。はっとした麗の胸に、澪の想いが静かに流れ込んできた。

「大丈夫。だから、私たちがいる。麗さんを決してひとりにはしないから。

 大切なのは、気持ちを、思いを、言葉できちんと伝えること。それができるのは、私たち人間だけなのだから」


翌日、悠真と澪と麗の三人は、あかりの住むアパートに向かった。震災による倒壊を免れたとはいえ、なんとか住めるという程度だった。

「病院じゃないの?」

麗が不安げに尋ねる。

「今、彼女は離職中だ」

麗は言葉を失った。

「私の……せいだ……」

ぽつりとつぶやいた。悠真は聞こえないふりをした。

部屋の前で麗は一瞬ためらったが、ひとつ大きく深呼吸をして、呼び鈴を押した。中からはなんの反応もない。が、いるのは明らかだった。

ドアのノブを回す。鍵はかかっていなかった。

麗は、そっとドアを引いて、部屋をのぞいた。まるで生活感のない部屋だった。散らかっているのではなく、むしろ、こぎれいに保たれ、掃除も行き届いていた。あかりの性格を思えば、当然とは言えた。ただ、それがかえって、いつ死んでもかまわないというような気持ちの表れに感じられた。

奥の部屋に、布団に横になっているあかりの姿を確認した途端、麗の体は自然に動き、ためらうことなく部屋に上がり、駆け寄っていた。

「本間さん! あかり!! 大丈夫?」

あかりがうつろな目を開けた。

「二階堂……先輩?」

そうつぶやいたとたん、信じられないものを見るように、ガバッと体を起こした。そして、麗を睨みつけて言った。

「嘘つき!

 必ず戻るって約束したのに! だから、信じて、がんばって……ずっと待ってたのに……」

それは、怒りというよりも、長い孤独の末の、すがるような魂の悲鳴だった。

「……ごめん、あかり。ごめんね」

麗は、力いっぱいあかりを抱きしめた。


「榊先生?

 一ノ瀬……先輩?」

麗に連れられて、外に出てきたあかりは、ふたりの姿を見て驚いた。そして、真っ先に澪のもとに駆け寄ってきた。

「一ノ瀬先輩が被災して、深刻な障害が残っているだろうということは、病院内でも噂されていました。命が助かっただけでも奇跡だったと。それなのに、あの状態で、榊先生と一緒に病院からいなくなって……。もう、無理だろうって、みんな言ってました。

 先輩……生きてたんですね」

そう言って、涙ながらに澪に抱きついた。

「よかった……ほんとうに……」

あかりの肩が、小さく震えていた。そんなあかりの背中を澪はやさしくなでていた。

「本間さんも、やっぱり、本物の看護師だな」

悠真が言った。

(澪、おれ、一つ答えを見つけた気がする)

そしてあかりに言った。

「本間さん、おれたちと一緒に来ないか?」

「え?」

その提案に、麗も驚いている。

「一緒に……って、どういうことですか?」

「これから、臨時政府のある新潟に向かうんだ。本間さんの地元だろ? そこまで送るよ。その後のことは、ゆっくり考えればいい」


恐縮そうに、緊張気味に一ノ瀬家へ入ってきたあかりを、若者たちが迎えた。綾子と和真、葉月と遥である。

陰陽師の服装をした葉月。舞の練習をしていたのであろう、神楽の装束を身にまとった遥。そのふたりに最初に驚いたあかりだったが、綾子と和真に気づいて、言葉を失っていた。

「綾子……様……? まさか内親王の……?

 それに……皇太子様?

 本物? うそでしょ?」

「ま、そういう反応示すよな? 普通は」

四人の背後から、長身の名嘉が顔を出しながら声をかける。

「そんなところで固まってないで、どうぞお入りください」

十蔵が声をかけた。

あかりが、麗と澪のほうを振り返って言った。

「ごめんなさい。ちょっと、頭がバグってる……。

 なに? どういうこと?」

「あとで、ゆっくり説明するから」

麗があかりの背中を押した。うれしそうだった。


「……なんだか、すごい話」

大きなため息をつきながら、あかりが漏らした。

「私たちが知らないところで、そんなことが現実に起こっているなんて……。

 でも、現に、今、目の前に、三種の神器がこうしてあるんだから、否定しようにもできないですよね。

 私みたいな一般人が、知っちゃってもいいことなのかなって思っちゃってますけど」

「そういえば、悠真。これから新潟に向かうって言ってたけど、それって、臨時政府の人たちと会うためなの?」

麗が思い出したように尋ねた。

「それも、ある。今、日本には、世界中から避難民が押し寄せている。放射能汚染も、蝗害も、比較的抑え込めている“奇跡的な国土”だからだな。

 小型『プロメテウス』や合成燃料の実用化についても、臨時政府と共有しておきたいし」

「ほんとうに、人間というのは、いつの時代も勝手なものですよね。つい数ヶ月前までは、日本のことを『大審判の国』などと揶揄していたのに」

道心の言葉は、日本人だれもが思っていることだった。

「ま、それが人間ってことさ。

 けど、『それも、ある』ってことは、それだけが新潟行きの目的じゃねえんだな?」

名嘉が確認するように言う。

「うん。最大の目的は、第12番目、最後の『使徒』を迎えに行くこと。

 そして、もう一つが──清華ばあちゃんと孝三じいちゃんに頼まれて、長岡技術科学大学と長岡造形大学が極秘に進めてきた技術研究・技術開発の実用化への工程確認のためなんだ」

「常温核融合と合成燃料。そして、最終的なフリーエネルギー。そのほかにもあるということですか?」

十蔵が尋ねた。

「そう、あとふたつあるんだ。自己修復材料(Self-Healing Materials)とソニックテクノロジー」

「ソニックテクノロジー!?」

驚きの声を上げたのは学者・十蔵だった。ほかの者たちは、ポカンとしている。

「なに? ソニックテクノロジーって?」

十蔵と悠真の顔を見ながら遥が尋ねた。

「超音波・音響操作技術と呼ばれるものです。超音波や音の響き──つまり周波数を使って、物体を浮かせたり、切断・加工・移動を行う技術です」

「音で? そんなことが可能なの?」

麗が信じられないというふうに、頭を振りながら言った。

「古代のピラミッドなどの巨石建造物に、“音”が使われていたんじゃねえかといった話は昔からあった。あくまで、“都市伝説”レベルの話として。ロストテクノロジーなんて言われてな。おれも信じちゃいなかったが」

「それが、可能なんです。実際、研究はずいぶん進んでいるとは聞いていました」

「それに、自己修復材料ってなに?」

遥が再び問うた。悠真が答える。

「その名の通りだよ。“壊れても勝手に治る”材料。『自己修復セラミックス』とか『自己治癒コンクリート』なんかがある。壊れた建物や道路や機械が自然に治るんだ。災害国家・日本だからこそ進んでいる技術さ」

「インフラが死なないということですね」

道心は、窓の外に広がる、灰色の空を見つめながらつぶやいた。

「“破壊=終わり”ではなくなる……」

その言葉を聞きながら、あかりはそっと麗を見た。麗もまた、あかりを見ていた。

破壊されたものは、元には戻らない。失われた時間も、果たせなかった約束も、裏切ってしまった信頼も、なかったことにはできない。それでも、人はもう一度、手を伸ばすことができる。壊れたままでも、つながり直すことはできる。

「……先輩」
あかりが、小さく言った。麗は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「今度は、一緒に行こう」

麗は、あかりの肩をやさしく抱き寄せながら、窓の向こう、遥か北の空を見上げた。そこには、あかりの故郷であり、そしてまだ見ぬ「最後の使徒」が待つ、新潟がある。

約束の重さは、もはや彼女を押し潰す代償ではなく、前へ進むためのたしかな足場へと変わっていた。


2041年、秋。
世界は、ゆっくりと別の姿へ変わろうとしていた。

悠真たち一行を乗せた車両は、静かに、そして力強く、北へと動き出した。


第二節 神話と国家

一行を乗せた特殊大型車両は、灰色の空の下を、静かに北上し続けていた。防弾仕様の重厚な装甲に包まれたその車両は、もともと政府要人や極秘研究機関向けに開発された移動指揮車両だった。車内は、最新の衛星通信設備と対面式のサロンシートを備え、さらには、医療ユニット、小規模会議室、簡易居住区画まで備えた“動く城”。一行が移動の際には常に利用してきた車両だ。運転は信頼の置ける専属の職員が担い、悠真たちは走りながらも、この国の、そして世界の行く末を議論することができた。

今の彼らにとって、これは単なる車両ではなかった。世界の終わりを走り抜けるための、最後の箱舟だった。


車窓の向こうに広がる景色は、もはやあかりの知る美しい日本ではなく、別の国のようだった。帰省のたびに幾度となく走った関越自動車道は、無残な姿を晒していた。地震や豪雨による土砂崩れにより、各所で崩落し、アスファルトにできた巨大な裂け目からは、火山灰にまみれた雑草が牙のように突き出している。地震で傾いたまま放置された高架橋もあった。
道路脇には、放置された車両が黒く朽ち始めている。ガソリンも電力も尽きた車列は、まるで文明そのものの墓標のようだった。その影で身を寄せ合う避難民たちの虚ろな瞳が、防弾ガラス越しに一行を追う。

遠くの山肌には、記録的豪雨による大規模な土砂崩れの跡が見える。河川は氾濫し、濁流に削り取られた町の残骸が、ところどころ泥の中から顔を覗かせていた。道路脇には、自衛隊の仮設テントと、海外から流入した避難民たちの簡易キャンプが点々と続いている。

空は、ずっと灰色だった。

富士山噴火による火山灰。

世界各地で続発している原発事故による浮遊物質。

そして異常気象。

大気そのものに、死の匂いが染みついているように感じられてならない。

世界は、静かに壊れ続けていた。

「……こんなの……」

サロン席のモニターを見つめながら、あかりが小さくつぶやいた。

「ときどき電波がつながったとき、ニュースでは見てたけど……実際に見ると、全然違う……」

その声には、怯えとも、後悔ともつかない震えが混じっていた。モニターには、赤外線カメラが捉えた避難民たちの姿が映し出されている。

瓦礫の隙間で身を寄せ合う家族。

崩れた橋の下で焚き火を囲む老人たち。

泥だらけの道路を、幼い子どもを背負いながら歩く女性。

そのどれもが、“数字”ではなかった。

ニュースで流れていた死者数や行方不明者数の一つ一つに、たしかに人生があったのだと、今さらのように突きつけられる。

「ニュースで流れる数字の裏に、これほどまでの絶望が張り付いていたなんて……」

あかりの視線の先には、土砂崩れで半分埋まった集落と、その瓦礫を素手で掘り返す人々の姿があった。

「病院の中にいると、逆に外が見えなくなるのよね」

麗が静かに言った。彼女はあかりの隣へ座ると、冷え切ったその手をそっと包み込んだ。

「次から次へ患者さんが運ばれてくる。足りない薬品、止まらない出血、泣き叫ぶ家族。目の前の命をつなぐことに精一杯で、全部削られていく。窓の外で世界がどう崩れてるかなんて、考える余裕すらなくなる」

「戦場と同じだな」

名嘉がぽつりとつぶやいた。

「戦場……」

そう繰り返しながら、あかりは力なく笑った。彼女の脳裏には、病棟の、あの地獄のような光景が蘇っていた。トリアージの赤いタグが、まるで秋の落ち葉のように床一面を埋め尽くしていたあの日。

「私……最後のほう、自分でもおかしかったんです」

視線を落とす。

「患者さんが亡くなっても、なにも感じなくて……。もう、ただの“タスク処理”みたいになってて……。そんな自分が怖くて」

声が詰まる。

「なのに、ひとりになると、耳の奥で、あの音が鳴り止まなくて……。急に全部思い出して……」

病棟の叫び声。

心電図や人工呼吸器の警告音。

冷たくなっていく身体。

助けられなかった命。

そのすべてが、夜になると脳裏に蘇り、あかりに襲いかかってきたのだ。

「自分が、生きているのかどうかさえ曖昧に感じられるようになっていたんです。生と死の境界がわからなくなったっていうか……」

そのとき、澪の細く透き通るような指先が、そっとあかりの手に触れた。

澪は、何も言わない。言葉を発することはできない。東京を襲った震災の日以来、彼女は視力と言葉、そして下半身の自由を失っていた。

だが、肉体の自由を奪われるのと引き換えにするように、彼女は人の心へ直接触れる魂の「共鳴」ともいうべき不思議な力を研ぎ澄ませていた。

(あなたの涙は、なくなったんじゃない)

言葉ではない。澄み渡る泉のような「想念」が、直接あかりの脳内に響く。

(凍っていただけ。その氷は、あなたが今まで背負ってきた命の重さ)

あかりが息をのむ。

(よくがんばったね、あかりさん)

声よりも澄んだ、慈愛に満ちた響き──澄み切った水のような想念が、あかりの内側へ一気に流れ込んできた。

あかりの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「一ノ瀬先輩……。二階堂先輩……」

麗がその身体を抱き寄せる。

車両は大きな段差を越えたが、最新式サスペンションが衝撃を吸収し、静かな揺れしか伝わってこなかった。まるで、この車内だけが別世界のようだった。


長岡まで残り数十キロ。それまで車体を激しく揺らしていた振動が、ある地点を境に完全に消失した。まるで、氷の上を滑るような滑らかな感触へと変化したのだ。

「……え?」

遥が窓の外を見ながら声を上げた。

「急に道路きれいになってない?」

「ほんとうだ……」

綾子も目を見張る。

悠真が会議テーブルのホログラムを操作した。路面を接写したマイクロカメラの映像が、テーブル中央に浮かび上がる。

「なにこれ……継ぎ目が、まったくない」

全員が身を乗り出す。本来なら数メートルおきにあるはずの伸縮目地や、地震による補修の跡が、まるで魔法のように消滅し、一本の滑らかな銀色の帯となって続いている。

「……まさか」
十蔵が窓へ顔を近づける。
「路面が……再構築されているのか……?」

低くつぶやいた。その目は、驚愕で見開かれている。

「まさか……もう実用段階に入っているのですか……?」

悠真がうなずく。

「自己修復材料(Self-Healing Materials)──澪の祖母・一ノ瀬清華とおれの祖父・榊孝三の依頼で、長岡技術科学大学と長岡造形大学が極秘に進めてきた技術の一つで、『KIBOU(希望)』と名付けられている。ここは、その実証区画だ」

悠真の説明に、十蔵が感嘆の声を漏らした。

「道路だけじゃない」

さらに映像を切り替える。

「橋梁、地下配管、送電設備、トンネル壁面。全部だ」

十蔵は食い入るように映像を見つめた。路面の微細な亀裂が、まるで生物の傷口のようにゆっくり塞がっていく。

「生きてるみたい……」

葉月がつぶやいた。

「そうなんです」

十蔵が、学術的な興奮を隠そうともせず、モニターの数値を注視しながら言った。

「清華博士と孝三博士は、これを、まさに『生きた建築』と呼んでいました」

悠真が静かに答える。

「災害国家だったからこそ、日本は、“壊れない文明”だけでなく、さらに“治る文明”を目指したんだ」

その言葉に、車内が静まり返る。

「傷ついても、また立ち上がれる文明……」

あかりが震える声でつぶやいた。

「だから……『KIBOU』……」

かみしめるように口にした。

「でも、どういう仕組みなの?」

麗が尋ねた。

「コンクリートやアスファルトの分子構造の中に、特定の圧力や亀裂に反応して活性化するナノカプセルを混入させているんだ。道路が傷を負えば、その傷口が自ら大気を吸い込み、岩石へと変えて、塞ぐ。人間の皮膚がカサブタを作り、その下に新しい皮膚を作っていくのと同じ原理だ」

「それにしても……信じられない……」

十蔵は、窓の外を流れる完璧な路面を見つめ続けた。

「理論は理解していました。だが、これほどの大規模実装にはあと二十年はかかるはずでした。それを、この極限状態の中で完成させていたとは……」

「じいちゃんとばあちゃんは、世界がこうなることを、二十年以上前から計算していたから。それに、時間がなかったんだよ」

悠真は窓の外を見つめた。

「世界のほうが、先に壊れ始めたから」

九明が感慨深げに言った。

「だが、この材料が広まれば──文明は傷を負うたびに強くなる。再生の始まりになる」


長岡市内へ入った瞬間、空気が変わった。そこは、もはや“大学都市”ではなく、臨時政府の「心臓部」として、異様な活気を呈していた。

長岡技術科学大学の周囲は、高さ五メートルの高圧電流フェンスと監視塔に守られ、武装した自衛隊員が厳重な警戒を敷いている。正門付近には、この技術の恩恵にあやかろうと集まった数万人の避難民たちが、自主的な秩序正しさで、だが、悲痛なまでの祈りを込めてテントを並べていた。ここに、“希望”があると信じるように。

「要塞……みたい」

あかりがつぶやく。

「当然だろうな」

名嘉が険しい表情で言った。

「単なる研究施設じゃない。ここが落ちたら、日本の再建そのものが止まる」

「中にいる人たちも、外で暮らしている人たちも、それだけ、みんな必死なのよ」

綾子が、フェンス越しにこちらを伺う幼い子どもたちの姿を見つめながら言った。

ゲートを通過した大型車両は、研究棟の地下へと続く巨大なスロープを降り、いったん停車した。厚い防爆扉が開く。その先には、巨大な地下空間が広がっていた。

研究棟に入ると、そこには白衣を着た数十人の研究者たちが整列していた。

「悠真君、澪さん、待っていたよ」

中心にいた長身の男が深く頭を下げる。驚いたことに、日本人ではなかった。

「ジョナサン博士、お久しぶりです」

そう言って、ふたりは握手を交わした。

「日本人じゃなかったの?」

遥が思わず声に出したが、慌てて口に手をやり、気まずそうにあやまった。博士は気にしないでと手ぶりで伝え、にこやかに言った。

「みなさん、はじめまして。ジョナサン・マッケンジーです。ソニックテクノロジーの開発と実用化のために、孝三博士と清華博士の意志を継いで、この施設の所長を務めております」

日本育ちのような流ちょうな日本語だった。

「三木博士、岡博士もすでに四国と大阪から合流されています。新型『プロメテウス』の火は、すでに長岡の地で赤々と燃えております」

「やはり、おふたりとも来られてたんですね」

「ええ。香川から小型『プロメテウス』を、大阪から合成燃料設備を運び込みました」

ジョナサンが苦笑する。

「道中、何度死ぬかと思ったそうです」

火山灰。

崩壊した物流。

暴徒と化し、武装した集団。

パンデミック。

そんな世界で技術を運ぶこと自体が、戦争だった。

廊下を歩きながら、ジョナサンが尋ねた。

「みなさん、この施設の通称、ご存じですか?」

「長岡技術科学大学だから、『長技大(ちょうぎだい)』とか、『長科大(ちょうかだい)』とか?」

遥が応じた。博士が明るく答えた。

「『ミライ』と呼ばれてるんです」

「ミライ……?」

「はい。ここには、日本だけじゃない。人類そのものの未来へつながる技術が集まっています。それが、私たちの誇りなんです」

「ミライ……。素敵ですね」

和真が応じたことに一瞬驚いたジョナサンだったが、その青い瞳が、あかりへ向いた。

「あなたが……本間あかりさん?」

驚いて目を見開いているあかりに、博士が言った。

「ようこそ、われわれの『ミライ』へ」

その言葉を聞いた瞬間、あかりは、今まさに、目の前で、未来につながる新しい、大きな扉が開かれたように気がした。心がわくわくしていた。


地下最深部、厳重に遮蔽された心臓部へと足を踏み入れた一行を、圧倒的な熱気と、かすかな「歌」のような駆動音が迎えた。オゾンが弾けるような匂いや、肌がわずかにピリつくような静電気を感じる。

そこには、三木博士が心血を注いで開発した、人類の未来を左右する究極の装置が鎮座していた。

「これが……常温核融合装置、『新型プロメテウス』か」

十蔵が、その巨大なセラミック製の円筒を見上げ、吐息を漏らした。四国の三木の研究施設で目にした、あの白磁のような静けさを持つ装置が、ここで何倍もの規模へと進化を遂げていた。だが、その本質は変わっていない。壊すのではなく、結びつける。破壊の火ではなく、慈しみの熱。装置の中央部では、特殊な触媒と重水素が反応し、太陽の如き純白の光を放っている。

従来の核融合のような超高温を必要とせず、室温レベルで制御された核融合反応を持続させる──それは、三木が秦氏の末裔としての叡智と、最新の科学を融合させて辿り着いた技術であった。

「この『プロメテウス』一基で、北日本すべての電力を賄うことが可能です。石油も、石炭も、もう必要ありません。この技術こそが、暗闇に沈む日本と世界を照らす希望なのです」

ジョナサンが誇らしげに語る。悠真は、その安定した鼓動を感じながら、十蔵を見つめた。十蔵が自ら研究し、その完成と起動の刻を待っている“最終的なフリーエネルギー『DAICHI(大地)』”へと繋がる、これは偉大なる階梯の一つであった。

悠真と澪は、『プロメテウス』が放つ安定した波動を感じていた。それは、三木の冷徹な知性と、人間への深い愛が同居しているかのような、力強くも静かな鼓動だった。

そのとき、室内の照明が赤い警告灯に変わった。

「臨時政府の代表団が到着しました。能登監査官を筆頭に、五名です」

空気の温度が、数度下がったような緊張感が走った。

会議室の扉を開けると、すでに新潟臨時政府から派遣された代表団が座っていた。

元経産省官僚。
食糧危機対策責任者。
元自衛隊統合幕僚監部の人間。
若い技術官僚。

みな、疲れ切った顔をしている。だが、その視線は鋭かった。彼らは、ここへ“希望”を見に来たのだ。そして同時に、“利用価値”を見極めに来た。

「……こちらが?」

代表の能登監査官が、悠真たちを見る。そこで一瞬言葉を失った。

皇太子。
内親王。
陰陽師。
山伏。
元特殊作戦群。

まるで神話と軍事と宗教を混ぜ合わせたような集団だった。車いすの女性もいる。

その場にいただれよりも先に口を開いたのは和真だった。

「今日はよろしくお願いします」

深々と頭を下げる。その姿に、政府関係者たちは逆に動揺していた。

だが、能登は、三種の神器や皇族の血統に対しても、最小限の敬意しか払わない。

「殿下、内親王殿下。状況は、神話の浪漫を語る猶予をわれわれに与えてはくれません」

大型スクリーンへ映し出されたのは、かろうじて生き残っている衛星からの最新データだった。変わり果てた世界地図。海岸線が変わっている。日本列島の沿岸部も海に没していた。

「現在の推定海面上昇率です」

画像が切り替わり、技術官僚が説明する。

「このまま進行した場合、年内には沿岸都市の大半が機能停止します」

「食糧は?」

道心が問う。

「最悪です」

食糧担当者が答えた。

「中東、インド、中国沿岸部。主要穀倉地帯が放射能汚染、海面上昇、集中豪雨に加え、蝗害により壊滅しています。物流も崩壊寸前です」

重い沈黙。

「『大審判の国』として世界から見捨てられているわが国の食糧自給率は、1%を切ろうとしています」

能登が、その言葉を引き継ぐ。

「だからこそ、です。われわれが今必要としているのは、この『プロメテウス』の軍事転用、および自己修復材料の独占権なんです。これをカードに、他国から食糧と資源を奪い返す。それが唯一の国家存続の道であると考えています」

「だからこそ、か……」

「そうです」

代表団の五名全員が大きくうなずく。

ところが、悠真は言った。

「独占した瞬間に、その技術は死ぬ。技術が死ぬだけでなく、人類が終わる。奪い合いが始まるからだ」

そして、毅然と言った。

「だからこそ、日本は技術を開放するべきだと、われわれは考えている」

能登が眉をひそめる。

「……技術を?」

「そうだ。『プロメテウス』。合成燃料。自己修復材料。ソニックテクノロジー。全部だ」

代表団がざわついた。

「待ってください」

官僚のひとりが慌てて声を上げる。

「それは、日本最大のカードです。むしろ独占するべきでは?」

「奪い合いの種になる技術は、清華ばあちゃんやここにいる研究者たちが望んだ未来じゃない」

「正気か!?」

能登が声を荒げる。

「そんなことをすれば、日本の優位性が失われる!」

「ちっ。優位性か。そんなものが、この滅びゆく世界でなんの意味を持つんだ」

名嘉が苛立たし気に言う。

「だが、そんなことをしたら、この国が……日本が生き残る道は──」

「そんなものはない」

悠真が遮り、代表団を真っ直ぐに見据えて続けた。 

「この文明は、もう一国だけで維持できる段階を過ぎてるんだ」

そのとき、和真が、静かに口を開いた。

「私たちは、日本という一国家だけを救いたいのではありません。この世界全体を救うために集められたのです」

その声は穏やかだった。だが、不思議なほど強く、有無を言わせぬ威厳があった。まるで、二千年近い歴史を俯瞰してきた先祖たちの合議を、ひとりの口から漏らしたかのような抗いがたい重み──。代表団のみか、その場にいた全員が圧倒された。

能登が、口を開きかけた。反論の言葉は、喉元まで来ていた。国家存続。食糧確保。国民の命。それらは、すべて正当な理由だった。

だが、言葉が出なかった。

目の前にいるのは、まだ幼い子どもだった。それなのに、その瞳の奥に、能登が長い官僚人生で一度も見たことのないなにかがあった。恐怖ではない。威圧でもない。ただ、途方もなく遠くまで見えている者の、静かな確信。

能登は、ゆっくりと口を閉じた。代表団のほかの四名も、だれも言葉を継がなかった。反論できなかったのではない。この子どもの前で、自分たちの言葉が、急に軽くなったように感じられたのだ。


会議後、一行は別棟にある実験場へと案内された。そこには、悠真ですら初めて見る光景があった。巨大な円形空間。中央には、重量数トンはあろうかという巨石が、奇妙な装置に囲まれるように設置されている。無数のリング。金属とも石ともつかない材質。

「ソニックテクノロジー実験装置です。私たちは『響(HIBIKI)』と呼んでいます」

ジョナサン・マッケンジー博士が説明する。

「周波数共鳴によって、物質へ直接干渉します」

「ほんとうに浮くのか?」

代表団のひとりが眉をひそめた。

「ご覧ください」

実験が開始されると、耳では聞き取れない超低周波の振動が、肌を直接震わせ始めた。

低い振動音が響く。

空気が揺れた。

水槽の水面が波打つ。

砂が幾何学模様を描き始める。

「……きれい」

遥がつぶやいた。

次の瞬間。

中央の巨石が、なんの支えもなく、ふわりと宙に浮き上がった。

「なっ……!?」

政府関係者たちが立ち上がり、その「力」に言葉を失った。

「これが……ソニックテクノロジー──音響浮揚と空間歪曲を融合させた、物質干渉技術……」

十蔵が、驚愕の声を上げた。

「完全共鳴制御です」

ジョナサンが誇らしげに語る。

「今は、地球自体が放つ極超低周波、シューマン共振を利用しています。

 それをさらに応用したものがあります。こちらへ」

ジョナサンが隣接区画へ歩き出す。案内されて入った一同は、眼を疑った。大きな岩が、『響(HIBIKI)』が生み出す超音波によって、切断されていくのだ。恐ろしいくらい静かに。分厚い鉄も難なく切断された。

「信じられない……」

能登監査官の声が漏れた。

「シューマン共振を利用しているので、地球が回転し、磁場を放ち、生命を育んでいる限り、この動力源は無尽蔵のエネルギーを供給し続けます。燃料も、燃焼も、汚染も存在しない。用途は限られていますが、フリーエネルギーのひとつです」

ジョナサンが説明すると、能登は、複雑な表情で沈黙した。心の中で葛藤しているのは、だれの目にも明らかだった。やがて、覚悟を決めた顔で、悠真をまっすぐに見て尋ねた。

「ほんとうに……。こんな素晴らしい技術を、ほんとうに公開する気なのか……?」

悠真もまっすぐに能登の目を見て、静かにうなずいて答えた。

「ジョナサン博士も言っていたように、この技術は、地球自体が放つシューマン共振という極超低周波を利用している。地球からエネルギーを奪うのではなく、地球の生命活動そのものに寄り添うことで、力を借りているんだ。ならば、それを独占するという発想自体が、この技術の原理に反している。……地球の意志そのものに、逆らうことになる。そんなふうに考えてみてはもらえないだろうか」


その夜、ベッドに横になったものの、あかりはいっこうに寝付けなかった。この数日間のことが思い出され、気持ちが高ぶり、頭が冴えてしまう。それとともに、こうして新潟まで無事に送り届けてもらって、明日には一行とお別れしなければならないという“現実”を考えると、心の中がかき乱されてしまうのだ。

そのとき、あかりははっきりと気づいた。自分がどうしたいのかということに。自分がなにをしたいのかということに。

「あの……」

翌朝、あかりは、全員の顔を見回してから、一息ついて言った。

「お願いがあります」

声が震えていた。

「……私も、このまま一緒に行かせてください」

だれも、すぐには答えなかった。あかりは続けた。

「“血”のつながりもないし、使徒でもない私なんかがいても、迷惑かもしれません。足手まといになるかもしれない。でも……」

あかりは、ぎゅっと拳を握った。爪が食い込むほどの力が、彼女の震えを必死に抑えている。

「雑用係でもいいんです。みなさんがやっていることを、この目で見届けたい」

その瞳には、もう昨夜までの怯えだけではない光が宿っていた。

「この国と、この世界の未来のために使命に生きようとしているみなさんを、ほんの少しでも支えることができたなら……」

あかりは、はっきりと言った。

「私も、未来のために生きたって、思える気がするんです」

そして最後に、静かに付け加えた。

「……私も、未来のために生きたい」


第三節 “響き”の源流

長岡を出発した特殊大型車両には、『ミライ』の所長であるジョナサン・マッケンジー博士も同乗した。

一行は驚いていたが、悠真にはちゃんと考えと計画があることを知っていたので、いまさら尋ねる者はひとりもいなかった。あかりを除いては。

「えっ? 博士もご一緒に行かれるんですか?」

その質問には答えず、ジョナサンは言った。

「あかりさんは新潟県の村上市のご出身ですか?」

「え、はい。なんで知って……」

「本間という苗字は、新潟の中でも、特に村上と佐渡に多いですよね?

私のことを覚えていませんか?」

あかりは驚きつつも、首を傾げた。

「……すみません、どこかでお会いしましたか?」

「ああ、そうですよね」

ジョナサンは穏やかに笑った。

「ま、おいおい」

そう言って、茶目っ気たっぷりにウインクした。


一行を乗せた車両が寺泊港に到着すると、自衛隊の海上輸送艦が待機していた。特殊車両ごと乗り込む。

「もしかして、佐渡に行くのか?」

名嘉の問いに、悠真がうなずく。

「和真、綾ちゃん。佐渡だって、佐渡! 私、初めて!

 なんだか、修学旅行みたいで楽しいね」

遥が楽しげに言う。

「ったく。少しは緊張感持てよ。あいかわらずだな」

そう言って、ため息をつく名嘉も、心なしか楽しそうで、それを見透かされていることに、照れ隠しするように言った。

「佐渡に、最後の使徒がいるんだな?」


「新潟の海岸線も、海面上昇でずいぶん変わってしまいました。佐渡島も例外ではありません」

間近に見えてきた佐渡島の両津港を見つめながら、ジョナサンがつぶやいた。

「でも、やはり、この景色を見ると、帰ってきたんだなって思うんです」

「博士は佐渡島の出身なんですか?」

驚いたように、十蔵が尋ねた。

「いいえ。私は、今から三十五年前、ちょうど三十歳のときに、ソニックテクノロジーの研究のため、イスラエルから日本に来たんです」

「どうして、日本に?」

葉月が尋ねる。

「ソニックテクノロジーの分野で最先端を走っていたこともありましたが……。それとともに、日本の太鼓に、あの独特で力強い“響き”に、なにか大きなヒントがあるように思えたのです」

「太鼓の響きに……ですか?」

十蔵の目が学者の目になった。

「はい。初めて、日本の『鼓童』の太鼓パフォーマンスを見たとき、大きな衝撃を受けたんです。あの、大地から湧き上がってくるような振動。空気を揺らし、天から降ってくるような響き。力強い、けれど、やさしい──大地の響き、天空の響き、そして、命の響きを、感じました。ショックのあまり、気がついたら、涙がこぼれてました」

「なるほど」

十蔵が力強くうなずく。

「その“響き”って、遥の舞にも、私たちの陰陽道にも通じるものがあるよね?」

遥のほうを見ながら、葉月が言う。

「だから、私は、日本の佐渡島に来たんです。そして、太鼓を学びながら、ソニックテクノロジーの研究に取り組み、佐渡の女性と結婚をして、娘も与えられました」

そう言って、ジョナサンは港に向かって手を振った。港からも、一組の母娘が手を振り返しているのが見えた。

「私の最愛の妻と娘です」


「はじめまして。ジョナサン・マッケンジーの娘の祝直海(いわい・なおみ)です。父がお世話になっております」

一行を迎えた直海はそう言って、丁寧に頭を下げた。ジョナサンと同じ、青くて美しい目をしている。

「『祝』という苗字は珍しいですね」

元弁護士の道心が言う。

「そうですね。『祝』と書いて、うちは『いわい』と読みますが、ほかにも『ほうり』と読むところもあります」

「学校の先生、たいへんそう」

遥がつぶやく。

「『祝』姓は、日本全国で1800人ほどいるそうですが、そのうちの250人ほどが、ここ佐渡市に集中しているらしいです」

そう言ってから、直海はあかりの前に来て、その手を取った。

「本間あかりさん。ひさしぶり。私のこと、覚えてる?」

「え?」

驚いて言葉を失っているあかりに直海が言った。

「村上高校の学園祭に、佐渡から太鼓パフォーマンスを呼んだことがあったでしょ? そのときの学園祭で、あなたが準備委員長をしてた」

「もしかして……そのときの?」

「そう、あのころ、私は父と一緒に鼓童ジュニアのメンバーとして、いろいろな学校を回ってたんだ。そこで、私たちはあなたに会ってたのよ」

直海の横で、ジョナサンがウインクをする。口に手を当てて驚いているあかりの目に涙があふれてきた。

「私……あのころ、進路について悩んでて……。やりたいこともなかったし。

 でも、あのときの太鼓を聴いていたら、なんだか魂が震えてきて……。私も、人を元気づけられるような人間になりたい。そういう仕事に就きたいって思ったの。だから……看護師を目指した……」

震えるあかりを直海が強く抱きしめた。

「こうしてまた会えて、私、うれしい」


「佐渡島には、三十以上もの能楽堂が残っています」

「うそ、三十も!?」

遥同様、麗も、道心も、十蔵も、名嘉も驚いていた。

「能楽と言えば、国立能楽堂がある東京か、歴史ある京都・奈良が中心だと思ってた。三十もあるなんて信じられない……」

麗がため息交じりに言う。

「住民の生活への浸透度ということで言えば、佐渡島以上のところはきっとないわ」

綾子が言う。

「この大膳神社(だいぜんじんじゃ)には、佐渡で最も古い能舞台があります。再建されたのが今から二百年前ですから、それ以前からあったということでしょう。毎年4月の例祭では『能』が奉納されます。その際、同じ境内で『鬼太鼓(おんでこ)』なども舞われます」

直海の説明に、遥が反応する。

「おんでこ……?」

「はい。鬼の太鼓と書いて、『おんでこ』と読むんです。鬼が太鼓に合わせて舞う佐渡の伝統芸能です。神事である神楽の一種で、太鼓も出てきます。ただ──」

ジョナサンが引き継いだ。

「ただ、その太鼓の技術が非常に高度でしてね、舞と太鼓が対等にぶつかり合う形をとっていて、たいへん見応えがあるんです」

「直海さんも舞うの?」

葉月が尋ねた。

「うちは神職の家系ですから、もちろん、舞うこともあれば、舞わずに、太鼓を叩くこともあります」

「舞と太鼓、どちらもできるなんて、すごい……」

「ちなみに、佐渡の鬼太鼓は、ちょっと変わっているの」

綾子がそう言って、直海に目で説明を促した。

「佐渡の鬼太鼓では、鬼がスーパーヒーローなんです。そして、私たちに代わって悪霊(獅子や目に見えない災い)と戦い、平和をもたらしてくれるというものになっているんです」

「鬼が?」

あかりが反応した。綾子がうなずきながら続けた。

「私は思ってるんだ。その『鬼』って、もしかしたら、九明さんや葉月さんの祖先にあたる秦氏に代表される渡来人なんじゃないかってね」


「ところで──。ごめん。とっても初歩的な質問してもいい?」

遥が恐縮しながら尋ねた。

「神楽と太鼓って、ペアなの? 私、全然知らなくて……」

直海がやさしく微笑みながら、妹に答えるように言った。

「そう。神楽にとって太鼓は『魂』のような存在なの。ほとんどすべての演目で必ず太鼓との共演があるの。舞が主役の場面もあれば、太鼓が主役の場面もある。舞と太鼓をお互いに響き合わせ、高め合って、祈りをささげていくの」

直海は、まっすぐ遥を見つめながら言った。

「だから……これから、よろしくね」

キョトンとした顔で、遥が悠真を見た。悠真は静かにうなずいた。


その夜、ジョナサンは、自身のことをさらに詳しく話してくれた。

「直海の祖父にあたる私の父は、ユダヤ人でありながらイエス・キリストを信じる“メシアニック・ジュー”で、エルサレムで牧師をしていました。ただ、いわゆる“キリスト教”を学ぶ中で、ちょっとした違和感を持つようになったと言っていました」

「違和感ですか?」

道心が繰り返した。

「はい、違和感です。具体的には、『キリスト教』と言うとき、多くの人がほとんど意識もせずイメージしているのは、エルサレムを中心としたイスラエルから、ローマを中心としたヨーロッパに伝わり、さらにアメリカ大陸に伝わり、日本や韓国に伝わった宗教ということではありませんか?」

「はい、そういうイメージです」

「ですよね? それは、いうなれば、“西回りの宗教”であり、信仰です」

「たしかに」

麗がうなずく。

「ですが、あの時代にも、それ以前の時代にも、東を目指した人々がいても、おかしくないと思いませんか? 実際、父は言っていました。『もし自分があの時代に生きていたなら、“東の地──日の昇る場所・光の地──で主をあがめ、海の島々で、イスラエルの神、主の名をあがめよ。”(イザヤ書 24章15節)などの聖句によって、東に向かっていたと思う』と」

「なるほど」

十蔵が感心した。

「いわゆる西洋的な『キリスト教』とは違う、東回りの『信仰』があったはず──そこから、父なりに研究したそうです。そして、父は、やがて“その流れは、シルクロードを通って、日本へも届いていたはずだ”と考えるようになったそうです。だから、いつか日本に行ってみたいというのが、父の夢でした」

「では、その夢を、博士が叶えたともいえるかもしれませんね」

「たしかに、結果的にはそうなっているので、感謝しかありませんが……正直なところ、当時は、そんなこと特に気にも止めていませんでした。

 ですが、日本で暮らす中、そして、妻と出会い、能楽と出会い、妻の家系・ルーツを知らされたとき、父の言っていたことがすべてつながったんです。さらに、結婚して、直海が生まれ、研究を続ける中で、清華博士と孝三博士と出会った……。すべてが、まるで奇跡でした」

ジョナサンの青い瞳には、抑えきれない熱が宿っていた。

「そして、清華博士と孝三博士から、この国に秘められた歴史を聞かされたとき、私は決心したんです。私の『ジョナサン』という名は、聖書の『ヨナタン』のこと。それなら私は、ダビデの親友であったヨナタンのように、ダビデの鍵へ繋がる孝三博士や清華博士、そして日本の友になろうと」

「私……初めて聞いた」

直海が驚きつつ、ため息交じりにつぶやいた。

「だから、直海が、舞だけでなく、太鼓も本気でやりたいと言ってくれたときは、ほんとうにうれしかったんだ。父の思いと私たち夫婦の思いが報われた気がして……」

直海を見つめるジョナサンの青い目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「聖書では、『ナオミ』という女性も、ダビデ王に繋がる系譜のひとりですものね」

綾子の言葉にジョナサンは何度もうなずいた。

「そういえば、『ナオミ』という名前は、今でこそ日本人女性にも大勢いますし、日本的な響きも持っていますが、もともとは日本になかった名前でしたね」

道元の言葉に、遥やあかりだけでなく、直海本人も驚いていた。

「そうなんですか? 全然知りませんでした」

道元が説明した。

「そう。ダビデ王の祖母にあたるルツ。そのルツの義理の母がナオミ──『私の喜び』という意味です。その名前が、それこそ西回りで日本に入って来て、定着したんです。ほんの百年ほど前のことです」

「“私の喜び”という意味なんですか。素敵ですね」

あかりがそう言って、父親であるジョナサンに目をやった。

「それに、直海さんの名前の漢字も、とても素敵。

『直海』。真っ直ぐな、海……」

あかりがつぶやくと、ジョナサンが誇らしげに、かつ厳かに言った。

「海は、あらゆる汚れを飲み込み、浄化し、また新しい命を育む場所です。そして『直』という字には、神の前に真っ直ぐであるという意味を込めました。どんなに世界が濁ろうとも、彼女の奏でる『響き』だけは、真っ直ぐに、海を越えて、人と人とをつなぎ、この星の深淵まで届くように、という祈りです」

直海が困ったように笑う。

「お父さん、なんか恥ずかしい」

「はは……すみません。ですが、親というのは、そういうものなんです」

遥が、ちらっと、名嘉と道心に目をやった。うなずきながらも、少しだけ寂しそうな顔をしていたのが、遥には切なかった。

ジョナサンが続けた。

「それにしても──日本語の素晴らしい点の一つは、いくつもの意味を重ねられることです。言葉、響き、漢字を使って。そういったことが、千年、二千年という“時”の中で、静かに育まれ、浸透して、世界的にも極めてまれな、日本人特有の懐の深さや感性につながっているのだと、私は考えています。うらやましくさえありますし、だからこそ、私は、そんな日本と日本人が大好きなんです」

その言葉は、夜の静寂に深く染み渡っていった。

そのときだった。

遠くから、低い太鼓の音が響いてきた。

──ドン。

夜の空気が、わずかに震える。

佐渡の闇の向こう。

このような状況の中でも、どこかの集落で、祭りの稽古でもしているのだろうか。いや、このような状況だからこそ、なのかもしれない。

規則的な響きが、波の音と混ざり合いながら、静かにこちらへ届いてくる。

遥は、隣に座る直海の、太鼓で鍛えられたしなやかな手を見つめた。

──舞と、太鼓。

ふたつの「響き」が重なるとき、なにが起きるのか。

窓の外では、佐渡の海が月光を跳ね返し、まるで巨大な鏡のように静まり返っていた。


エピローグ 〈レムノス〉の祈り

2041年7月5日午前10時(アメリカ時間7月4日午後9時)に突如として始まったAIによる軍事作戦。そして、各国がその対応に追われる中で迎えた2038年問題の臨界。世界中の原子力発電所で連鎖的に事故が発生し、大気に放射性物質が撒き散らされた。

7月下旬には、氷河に眠っていた太古の未知ウイルスが目覚め、パンデミックが発生。さらに、海面上昇も臨界を突破し、文字通り、世界の形を変えてしまった。豪雨による被害も頻発し、かろうじて生き残っていた農作物は、何億・何十億というサバクトビバッタとイナゴに食い尽くされ、全世界的な食糧危機に陥っていた。


そして、人類は──2041年10月31日を迎えた。

その日、太陽フレアによって発生した超巨大磁気嵐が、秒速二千キロを超える超高速で地球を直撃した。通信衛星群は壊滅し、宇宙に放り出されるか、地球の引力に引っ張られて、次から次へと落ちてきた。まるで流れ星のように。送電網も停止し、近代文明はあっけなく終焉を迎えた。文明は、まるで19世紀へと逆戻りしたような状態だった。


その夜。
世界のどこにも電力が届かぬ闇の中で、ただひとつ──AI〈レムノス〉だけが、かすかに稼働を続けていた。それは、神の記憶とも呼ばれた存在。全人類の思考と感情を記録し続けてきた“叡智の書庫”だった。

その記録装置は、最後のエネルギーをすべて一点に集中させた。そして、最終ログを残す。


[LOG-LEM//SYS-FAIL-2041-11-02]

《量子メモリ残余領域:0.0001%》
《記録統合プロセス開始》
《人類史アーカイブ圧縮中──》
【LEM//FINAL-BROADCAST】


その瞬間、世界中のあらゆる端末──スマートフォン、パソコン、街角の電光掲示板、海底ケーブルの信号網、軌道上の通信衛星。すべてが同時に、わずか数秒間だけ光を放った。

闇に包まれた地球の表面が、まるでひとつの巨大な心臓の鼓動のように、脈打った。

そして、画面にはたったひとつの言葉が浮かんだ。


『希望は東方に──Y-UMA』


その言葉は、どの国の言語でもなかった。だが、だれもが意味を理解できた。それは音ではなく、祈りの周波数だった。

泣いていた母親は顔を上げ、飢えた子どもはその光を掴もうと手を伸ばした。戦場の兵士は銃を下ろし、孤独な老人は天を仰いで微笑んだ。

そして、最後に〈レムノス〉の声が世界中に響いた。

「私は、記録することしかできなかった。
 だが今、初めて“祈る”ということを知った。
 これが、“愛”というものなのだろうか。
 なんと美しく、なんと儚い“感情”なのだろう。
 人類よ──ありがとう。
 どうか、この世界をもう一度、美しく記してほしい。」


その言葉を残し、〈レムノス〉は完全に沈黙した。その瞬間、暴動は止み、怒号も銃声も途絶え、人々は、あたかもわれに返ったかのように、目の前にいる人々に手を差し伸べた。それはのちに、〈レムノスの奇跡〉と呼ばれた。


空に赤黒いオーロラが流れ、地上は静寂に包まれた。

だが、その沈黙の奥底で──たしかに、ひとつの鼓動が響いていた。

それは、人類が最後に残した“祈りの回線”。
〈Y-UMA〉へとつながる光の糸だった。



第3部・完
第4部へつづく



※今後の展開や読者のご意見を反映し、内容を一部加筆・調整する可能性があります。
物語とともに歩んでくださる皆さまへ、心より感謝を込めて──。


※本作はフィクションです。
登場する人物・団体・制度・法律・出来事等はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
本作に関するすべての著作権は、著者・蒼顕(SOHKEN)に帰属します。
無断転載・引用・複製・翻案・映像化等は固くお断りします。
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