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誰にも役に立たない記事をnoteに書き続けると、止まっている人生が動き出す

「ずーっとnoteを更新しているけど、一向に読まれる気配はない。」
「このままnoteを書く意味はあるのかな・・・」

多分、noteを書いている人なら、一度はこう思ったことがあるんじゃないでしょうか。

等身大で書くことが大切。
書き続けることに意味がある。

こういった声はよく聞きますが、それに習って実際にnoteを書き続けているけど全然アクセスも増えなければ、見られている実感がない。

(誰かの役に立たないなら、書かないほうがマシなんじゃないか)

何かを求めてnoteを書いている人ならば、こんな気持ちになることは多いのではないかなと思います。

ただ、9ヶ月ほぼ毎日noteを書いてきて、一つの仮説を持つことができました。

それが、

誰にも役に立たない記事を等身大でnoteに書き続けると、人生が好転する人は多いのではないか?

という仮説です。

今回はこの話を少し丁寧に書きたいと思います。

前回までの記事で「気楽な気持ちで書いていい」「巷の成功論を真に受けなくていい」という話を書いてきました。

その流れの先で、自然に出てくる疑問はたぶん「じゃあどんな記事を書けばいいの?」ということかなぁと。

その問いへの自分なりの答えを、今回は書いて行こうと思います。


「役に立つ記事を書かなきゃ」が、書く手を止めてくる

そもそも、なんでnoteを書く人の多くが「役に立たない記事を書いてもいいんだろうか?」と引っかかるのか。

これってnoteに限った話じゃなくて、ブログでもXでもYouTubeでも、発信しようとするとほぼ必ず降ってくる声があるんですよね。

「読み手にとって価値がある内容を出しましょう」
「役に立つ情報を発信しましょう」
「読者の悩みを解決する記事を書きましょう」

こういった声ってごもっともなんですが、これを真に受けて書こうとすると、毎回、書く前に頭の中で謎のチェックが走るようになります。

「これって、誰の役に立つんだっけ?」
「読んだ人に何が残るんだっけ?」
「これ、書く意味あるんだっけ?」

で、そのチェックの結果、手が止まるんですよね。

自分も過去にビジネス目的でnoteを書いていたときは、最終的にはこれで手が止まりました。

実際問題として「誰かのために書かないといけない」となると、気持ちってしぼんでいくんですよね。。
(誰かのために書きたい!なら別です)

「役に立たないなら書く意味がない」という前提を抱えたまま発信を続けようとすると、書くこと自体がだんだん義務感に変わっていきます。

たぶんですが、noteを途中でやめてしまう人の何割かは、このパターンなんじゃないかなと思っています。

9ヶ月で書いてきた記事は正直に「誰かの役に立たない記事」がほとんど

で、自分が9か月間続けているほぼ毎日noteなのですが、正直に「誰かの役に立とう」と思って書いた記事は殆どありません。

今まで書いてきたnoteを並べてみると、

  • 今日もやる気がなかった話(全体の半分くらい)

  • 自分のなかの「どうしようもなさ」と向き合う

  • 夜散歩中に思ったこと

  • AIにキャリア相談して、ようやくやりやすいやり方が見つかった話

  • マジで頭が回らなくて今日は低空飛行だという短文

みたいなものがゴロゴロ並んでいます。

「これ、誰の役に立つんですか?」と聞かれたら、たぶん、「見た人が活かしてくれれば役に立つんだと思います」という回答になります。

ノウハウもないし、結論もない。読み終わって何か行動が変わるわけでもないし、「ふーん」で終わる記事が大半かなぁと。

ただ、この他人にとっては「ふーん」で終わる記事を書くことが、自分には毎日のなんでもない時間を整える儀式みたいになっていました。

頭の中にあるモヤモヤを、500〜1000文字くらいの記事にして吐き出す。

すると、なんとなくモヤモヤが言葉になる。

言葉になると、その感情を自分でちょっと扱えるようになる。

これは、書き続けてみるまでわからない感覚でしたね。

「読まれること」「役に立つこと」を一回横に置いて、ただ自分の中にあるものを文字にしていく。

それを9ヶ月続けたら、自分の頭の中が、書く前よりも明らかに整理されていることに気づきました。

書いている自分の中で、何が起きていたか

書く前と書いた後でわかったこととしては、書くことで、エネルギーが減るどころか少し回復するようになりました。

普通、何かを発信するって、エネルギーを使う行為だと思います。

でも、自分のために書く記事って、書き終わったあと、不思議と頭が軽くなるんですよね。書く前より、ちょっとだけスッキリしている。

書くこと自体が、自分にとっての「整える時間」になっていた、ということなのかなぁと思います。

これは、過去に「読まれる記事」「役に立つ記事」を書こうとしていた頃には、絶対に得られなかった感覚でした。

あの頃は書けば書くほど消耗していて、書いた記事が伸びないとさらに消耗するという、そりゃしんどいよなぁと思います。

気づくと、外側の流れも少しずつ動いてきた

ここからが、自分でも結構不思議に思っている話でして

「役に立たない記事」を書き続けていたら、外側の流れもじわじわ変わってきました。

ざっくり言うと、

  • 「自分も同じことを感じてます」みたいなコメントが、たまに届くようになった

  • 有料記事を出してみたら、思ったより買ってもらえた

  • 「書く仕事を頼みたいんだけど」みたいな話が、なんとなく舞い込んでくるようになった

  • 色々と人生面で良いことが起きるようになってきた

別にフォロワーが万単位で増えたとか、note発でバズったとか、そんな派手なことは何も起きてないです。

ただ、「自分のために書いた記事」が、結果的に誰かの目に止まって、何かが動き出すという現象は、確かに起きていました。

ここで自分が感じているのは、

「誰かのために書いた言葉」より「自分のために書いた言葉」のほうが、なぜか誰かに届きやすい

ということです。

「読み手の役に立たなきゃ」と力んで書いた記事は、たぶん、その時点で誰の心にもあんまり届かない。

逆に、自分のためだけに書いた本音の言葉のほうが、同じ感覚を持っていた誰かにスッと届く瞬間がある。

これ、なんでなんですかね。

たぶん、無理に誰かのために書こうとした時点で、文章の中に「ちょっとした淀み」みたいなものが混ざるんじゃないかなと思っています。

「自分はこう思ってないけど、たぶん読者はこう書かれたほうが嬉しいよな」という、配慮の混じった言葉。

その嘘って、多分なんとなくわかるようなものなんだとおもいます。

逆に、自分のために書いた言葉には、その嘘がない。
だから、たまたま同じ感覚で止まっている人が読んだとき、「あぁ、自分のことが書いてある」と思える。

そういう仕組みなんじゃないかなぁ、と最近は感じています。

「役に立たない記事を書いていい」の本当の意味

念のためなんですが、自分は「役に立つ記事を書くな」とは1ミリも思っていません。

書きたい人が書きたいテーマで役に立つ記事を書くのは、もちろんいいと思います。

ただ、「役に立たなきゃいけない」が前提になっている人にとっては、その前提を一度外してみるだけで、書くことのしんどさがかなり変わるんじゃないかなと思うんです。

つまり、

「役に立つ記事を書こう」を目的にする → 自分のエネルギーがすり減る → 続かなくなる

というルートを、

「役に立つかどうかは一旦横に置こう」 → 自分のために書く → なんとなく続いてしまう → 続けているうちに、たまに誰かの役に立つ

というルートに乗せ替える、という話です。

役に立つことを「目的」から「結果」に変える、と言ってもいいかもしれません。

「じゃあ、どんな記事を書けばいいの?」への答え

連載②の終わりに、自分は「じゃあ、自分がやりやすいやり方って、結局どんな記事を書けばいいの?」という問いを残していました。

その答えを、今回の文脈で書くなら、

「自分が今、書いておきたいと感じたもの」を書けばいい

になります。

ちょっと身も蓋もない答えなんですが、9ヶ月書いてきて、本当にこれ以上の答えはないなと思っています。

「誰かの役に立つかどうか」は、書きながら気にしない。
「読まれるかどうか」も、書きながら気にしない。

書きたいと感じた瞬間に、書きたいトピックを書きたい量だけ書く。
書きたくない日は書かない。

それを続けていると、自分の中の「気持ちを言語化する能力」がだんだん蓄積されていって、やがてそれが何かの輪郭を作っていきます。

その輪郭が見えてきたタイミングで、「これは誰かの役に立つかも」と感じた記事だけ、結果的に有料化したり、マガジンにまとめたりすればいいんですよね。

最初から「役に立つ記事を作ろう」と決めて書くんじゃなくて、書き溜めたなかから「役に立てそうなもの」を後から選び取る。

今までの肩肘を張った情報発信とは順番が逆だと思いました。

人生が「好転」するということについて

最後に、タイトルにある「人生が好転する」という話について。

自分自身でこの9ヶ月noteのほぼ毎日更新を続けてみてはっきり感じている流れはあります。

思いのままの記事を書きつづける
→ 自分の頭の中が整理されてくる
→ 自分の本音が、ちょっとずつ言葉になってくる
→ 日々の選択が、ちょっとだけ自分の本音に沿ってくる
→ 気づくと、毎日のエネルギーが少しだけ上がっている
→ 上がったエネルギーで、これまで選ばなかった行動を選ぶようになる
→ 周りの流れが、少しずつ変わってくる

これが、自分が9ヶ月で体感してきた「役に立たない記事を書いていたら、いつのまにか流れが変わっていた」の中身です。

「人生が変わる」というより、「止まっていた人生が動き出す」のほうが、たぶん感覚としては近いです。

ただ、止まっていた人生が動き出すって、止まっていた人にとっては十分に「好転」と呼べる出来事だとは思うんですよね。

少なくとも、自分にとってはそうでした。

長くなったので最後にまとめておくと、

役に立つ記事を書こうとせず、自分のために書きたい記事を書く。

たったこれだけで、書くことが続きやすくなるし、続いているうちに不思議と外の流れも動いてきます。

もしいま、「役に立たない記事を書く意味がわからなくなってきている」と感じている方がいたら、一度、「役に立つかどうか」というチェックを外してみるのを試してもらえたらと思います。

たぶん、書く動機が「自分の中」に戻ってきます。

書く動機が「自分の中」に戻ってきたとき、書くことが少し楽になります。

書くことが少し楽になると、続きます。

続いていると、なぜか外側の色々が動き出します。

そういう流れって、本当にあるんだなぁと、。

止まっていた人生がほぼ毎日のnoteで動き出した過程を、こちらのマガジンにまとめていっています。よかったら他の記事も覗いてみてください。

※次回(連載④)は、「noteを書き続けただけなのに、書くこと以外の流れが変わってきた話」を予定しています。9ヶ月続けた今、note以外の場所で実際に起きたことを具体的に書こうと思ってます。


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たおまさ ここまで読んでくれてありがとうございます。 もし何かしら気づきがあったら、是非シェアいただけると嬉しいです。

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