「をかし」と「あはれ」のあいだに
先日、天野 雫さんのnote記事を拝見した。
今、巷では、「エッセイしりとり」なるものが、流行っているようである。
天野さんは、マイキーさんに愛ある三本のバトンを投げ渡したとのことだ。
しかも、「を」のバトン三本だ。
日本語の「を」ですよ、と念押しされている………。
私は、「を」から始まる日本語ってあるのか?と気になった。
調べてみると一語だけあった。
「をかし」である。
現代語ではない。
古語である。
ということで、「をかし」についてのエッセイを書いてみよう。
「をかし」と「あはれ」は、しばしば対の言葉として語られる。
『枕草子』は「をかしの文学」、
『源氏物語』は「あはれの文学」。
清少納言は明るく知的に、
紫式部はしみじみと深く。
国文学では、そうやって二つを並べ、対比させることがあるようだ。
けれど、私には、この二つが別々の感情だとは思えない。
心が動くという一つの現象を、主体と対象との距離によって分類しているだけなのではないか。
私は、ただそう思ってしまう。
「をかし」は、現在では使われることのない、古い日本語だ。
辞書で意味を調べてみると、
・趣がある・風情がある・情趣がある
・美しい・かわいらしい・愛らしい
・興味深い・おもしろい
・すばらしい・見事だ
・滑稽だ・おかしい
いろいろな意味があるようだ。
私にとっては、ちょっとピンとこない。
辞書だけを見ると、意味がいろいろあって、複雑な言葉のように感じる。
昔の日本人は、そんな複雑なことを考えずに、もっと単純に使っていたのではないだろうか?
そして、辞書に載っている「をかし」の意味を、もう一度眺めてみよう。
美しい。
かわいい。
面白い。
すばらしい。
おかしい。
一見すると、まったく違う感情のように見える。
しかし、これらの言葉の後ろに、あるものをつけてみる。
美しい!
かわいい!
面白い!
すばらしい!
おかしい!
違和感がない。
もしかすると、「をかし」とは、現代でいう「!」なのではないだろうか。
何かを見つけた瞬間に、心が反応する。
「あっ!」
と、心が対象へ向かって開いていく。
そう考えると、辞書に並ぶいくつもの意味が、一つにつながって見えてくる。
趣向に気づき、意外性に驚き、発見を喜ぶ。
そこには、眺める自分と眺められる対象という分離がある。
むしろ、自我が能動的に対象へ手を伸ばし、興味を持って近づいていく。
運動の起点は、主体の側にある。
つまり、「をかし」は、対象を面白がる心の動きと言えるだろう。
さらに言えば、
評価するためには、評価する側の輪郭が保たれていなければならない。
「美しい!」と思う私と、美しいと思われる対象。
「面白い!」と思う私と、面白いと思われる対象。
そこには、まだ「私」と「対象」がある。
だから「をかし」を感じているとき、自我は溶けていない。
対象へ心を開き、近づいてはいる。
しかし、私はまだ、私のままである。
では、「あはれ」はどうだろう。
秋の夕暮れ、すやすやと眠る我が子の顔、虫の音、花の散り際…。
——「あはれ」が立ち上がる場面では、対象の側が主体に働きかけてくる。
そしてその瞬間、
「あぁ……」
と心に溶け込むように、対象が忍び込み、心を寄せずにいられなくなる。
抗いがたく引き込まれる。
気づけば、自分と対象の境目があいまいになっている。
ここでは主体は受け手であり、対象こそが動きの発生源になる。
をかし——私から対象へ。「!」
あはれ——対象から私へ。「あぁ……」
同じ「心が動く」という現象が、向きだけを変えて現れている。
そう見ると、両者の違いは、もう一段深いところにも及んでいるように思える。
「をかし」では自我の輪郭が保たれたままだが、「あはれ」では自我と対象の境界そのものが揺らぐ。
方向の違いは、そのまま輪郭の保たれ方の違いでもあるらしい。
これは、まったくの思いつきというわけでもない。
「あはれ」は感動体験を主情的に詠嘆するもの、「をかし」はそれを知的に対象化して観照するものとして説明されることがある。
『枕草子』の冒頭近くには、興味深い一節がある。
夕暮れに、烏が数羽ずつ寝所へ飛び急ぐ姿を「あはれなり」と記し、そのすぐあと、雁が列をなして遠く小さく見える姿を「いとをかし」と記している。
同じ夕暮れの空を飛ぶ鳥でありながら、寝所へと飛び急ぐ烏には「あはれ」が、遠く小さく見える雁の列には「をかし」が使われている。
対象に心を寄せていくことと、対象を眺め、その姿に興趣を見いだすこと。
そこには、対象との距離の違いがあるように私には思える。
「もののあはれ」という言葉の「もの」も、この延長で読み直せないだろうか。
「もの」は中古になると、対象を限定しない漠然とした語として使われるようになったとされる。
一方、「もののあはれ」の「ものの」は、「あはれ」が引き起こされる契機を示すとも説明される。
だとすれば私は、この「もの」を、あはれを引き起こす側——対象——として読んでみたい。
あはれが対象発の運動であるなら、「もの」はその運動の起点として立っているのではないか。
「もの」が引き起こす「あはれ」。
そう読めば、この言葉に一本の筋が通る。
もちろん、これは「もののあはれ」という言葉の語源を説明しようという話ではない。
ここまでの仮説から導かれる、私自身の読みである。
同じ理屈で言えば、「をかし」と「あはれ」は、「心が動かされる」という一つの感応から枝分かれした、異なる現れ方なのではないか。
「をかし」は、自我の輪郭を保ったまま、こちらから対象へ近づいていく。
「あはれ」は、対象の側からこちらへ入り込み、その輪郭さえ揺らしていく。
喜びも、愛らしさも、悲しみも、趣深さも、すべては心が動かされるという同じ根から枝分かれした現れ方だと私は思う。
以前、私は、感情とは「常に動き回るもの」であり、幼いほどそれが顕著で、大人になるにつれて知性が感情を縛りつけていく——即ち、それが「理性」なのではないか、と書いた。
詳しくは、下記の記事を参照願いたい。
これまで私が書いてきたことは、古典文学の一般的な整理ではなく、この文章が提示する一つの見立てにすぎない。
ただ、「あはれ」という言葉がもともと喜怒哀楽にわたる幅広い感動を表し、現在の「あわれ」よりもはるかに広い感情を含んでいたことを思えば、それほど外れた方向を向いているとも思えない。
清少納言の文章がどこまでも歯切れよく、観察者としての「私」を保ち続けるのは、彼女が「をかし」の作家だからかもしれない。
輪郭を保ったまま、対象を面白がる。
対して紫式部の文章が曖昧で、余韻を引きずり、語り手が人物の内面へ溶け込んでいくように読めるのは、「あはれ」が自我の輪郭そのものを崩していく感応だからだろう。
私自身の感覚は、「をかし」より「あはれ」に近い。
対象を面白がるより先に、対象に浸食され、心を寄せてしまう。
それは弱さではなく、ごく自然な反応なのだと思う。
私たちは、世界をただ眺めているのではない。
世界に触れ、世界から触れられながら生きている。
存在とは、共鳴である。
「あはれ」と「をかし」の違いは、その共鳴がどこまで自我の輪郭を溶かすか、という深度の違いなのかもしれない。
二つは対立する美意識ではなく、ひとつの感応が描く、連続したスペクトラムの両端なのだ。
感情とは、奥深いものである。
今回は、ひょんなことから、「をかし」と「あはれ」という感情を私の中で深めることが出来た。
このきっかけを勝手に頂いてしまったが、天野 雫さんとマイキーさんには感謝である。
ありがとうございます。
ところでマイキーさんは、受け取った三本の「を」を無事に記事にしたようである。
お見事、いや、
いとをかし🤣
さて、勝手にくすねてしまった4本目のバトン……。
やはり、私はそっと置くことにした。

まだ「クリエイター図鑑」のバトンも残っているようである……。
この二本、どうぞご自由に拾って下さい🤣
注:「エッセイしりとり」のバトンは、正式に回ってきたものではなく、私がくすねてしまったものなので、拾って書いても、正式参加にはならないでしょう……。
追伸
天野さんがマイキーさんに渡した愛あるバトン、「を」は、「日本語の格助詞の『を』」だったようである。
詳しくは、マイキーさんの「をかしな4280円」の記事のコメント欄をご覧ください。
いとをかし!🤣🤣🤣
いや、マイキーさんのことを思うと、あはれなり……。
※雁:カモ目カモ科の鳥のうち、白鳥類を除いたものの総称。「かり」は古くからの和語で、現代では「がん」とも読む。
※中古:日本史・国語史で使う時代区分で、「上代 → 中古 → 中世 → 近世 → 近代」と分けるときの「中古」。
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