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3700日、H院長の決断 利用されたと気づいた時

私は月に3度くらい、新宿の整骨院で腐れ縁で鍼灸をしている。

その日、整骨院の終わり際に少し時間が空いた。

珍しいことだった。



私のせいなのだが、
月に3〜4回しか顔を出さないため、行くといつもバタバタしている。

患者が来て、帰っていく。
治療をして、また次の患者が来る。

そういう一日が続く。

その日も、ほとんどはそうだった。

ただ、終わり際だけ少し空いた。



そのとき、H院長が話しかけてきた。



H院長はこの整骨院で20年働いている。

鍼灸師、柔道整復師、マッサージ師。
3つの資格を持っている。

技術的にもすごい人だと思う。



ただ本人は、この仕事をかなり嫌悪している。



「1日でも早く辞めたい。」
「人生で1番、無駄な時間です。」



そういうことを、いつもはっきり言う。



患者の来ない時間、院長は整骨院の片隅にいる。

紫外線で変色した
くすんだ青のパーテーションで囲った
小さなスペースだ。

広さはトイレの半分ほどだろうか。

そこを部屋のようにして、
パソコンで株価を見ている。



整骨院の中なのに、
そこだけ少し空気が違う。



院長の目標は、株でFIREすることだ。



人としては、とても優しい人だと思う。
少なくとも私は、そう感じていた。



院長はよく物を贈る。

お菓子や飲み物を自費でスタッフ全員分用意していた。
ここ何年かは昼ご飯まで用意していたらしい。



あるスタッフが辞めるときには、
高い腕時計を用意したこともある。



朝は1番早く来て準備をして、
夜は1番最後まで片付けをする。



それでも、感謝されない。



「いい年して親と同居してるから
給料を全部自由に使えるんだろ。」



そう言われたこともあるらしい。

株もできるし、
お菓子も昼ご飯も買えると。



スタッフは当たり前のような顔で
それを食べていた。



クビ灸先生(私)、このケバブ冷えていて、いまいちですよね。



若手のスタッフが軽口を叩き、
私は頭が熱くなり、声が出そうになるのをグッと堪え、ケバブを口の奥に押し込んだ。



押し黙った私をみて、
その人はスッと奥へ下がった。



院長は言った。



「あんなに尽くしたのに。」



最近、交際関係でトラブルがあったらしい。



ある女性を支援していた。
鍼灸師を目指している女性だったという。



詳しくは書かないが、
かなりの金額をコツコツ支払っていたらしい。

飲食、参考書、合宿費用、生活費。

親のように支出していたと言っていた。



小さな車が1台買えるくらいの金額だったらしい。



その女性とは1度だけ会ったことがある。



H院長の要望で、気は進まなかったが必死さに折れてしまった。

私は頭が格段に良い訳ではないが、
たまに同じような学生の勉強の相談などをしていた。

H院長の顔を立てたが、
正直なところ、私が何の役に立つのだろうとも疑問に感じた。



私にはその女性が
自分でスタートラインにも、立っていないような気がしたからだ。



2人きりで会うとあらぬ誤解を招くかもしれないと思い、
私がもう1人連れていき、3人で会う形になった。



会話は1問1答の形式で、
こちらが答えるタイプだった。
面接みたいだな、と私は思っていた。



話題は卒業後の営業や金融の話が多くて、
鍼灸というよりは、
銀行の窓口のような空気だった。



その後、その人とH院長の関係は続いていたが、
私はその件があってから、あまり快く思っていなかったのが本当のところだ。

それからだいぶ経って、彼は頼まれた高価な歯の治療費を断った。



その瞬間、
SNSに書かれて罵倒されたらしい。



さらにその頃、
株でも大きな損をした。



院長はその話を、淡々としていた。

怒っている様子ではなかった。



ただ、少し疲れているように見えた。



それから院長は言った。



「そこで、何かが弾けたんです。」



怒っているというより、
何かを諦めたような言い方だった。



少し沈黙があった。



それから院長は言った。



「クビ灸先生(私)は、いつも幸せそうでいいですね。」



「隣で話を聞いていて、
いろいろ自分の人生を考えました。」



それから、ぽつりと言った。



「もう耐えられない。」



今年で辞めるつもりだと言う。
海外に移住するとも言っていた。



そして最後にこう言った。



「分かったんです。」



「これは運命で、また新しくいい道が開いてきました。」



整骨院を出たあと、
その言葉が少し残った。



外はもう夜だった。



帰りの電車の中で、
院長の言葉を思い出していた。



「クビ灸先生(私)は、いつも幸せそうでいいですね。」



2026年。院長が最初に勤めてから3700日以上が経過した。



おやつと飲み物、お昼の提供は辞めたようだ。



新宿の整骨院には、院長が自分で購入した珈琲マシンが患者用に置いてある。

備品ではない。



H院長は今も、その高級な全自動珈琲マシンで淹れた珈琲を、
月に3度、私に振る舞う。


緊張は、肩や首に出ることが多いです。

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