リクエスト・アワー02 no.16 徒手空拳の空騒ぎ 何かを感じるのに掴めない
リクエスト・アワー02を書き始めたのだけれど、書いては消し、書いては消しを繰り返している。昨日は3500字も書いたのに没。必要なことだけを書くのが大切なのだが、どうしても横道に入ってしまい、横道に入ると本道がわからなくなる。困ったなぁ。本道がどこにあるのかもよくわからない。
書けない理由ははっきりしている。毛沢東のことをよく知らないし、「矛盾論」を読んでいないからだ。書きたい理由もはっきりしている。何かがひっかかっているからだ。ネタ帳には「矛盾を生きる 堀間善憲さん 毛沢東「矛盾論」」とだけのメモがある。
堀間さんの記事を再読する。
「善・悪」「精神・物体」の二元論のように、一方を正しく、一方を否定されるべきものと捉える世界から、相互補完的な弁証法的世界観(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ、ですね)へというのが、毛沢東の「矛盾論」の主張だが、そこに中国古典思想のプラグマティズムを見ることができるという堀間さん(あってますか? 誤読してたらごめんなさい)。
難しい言葉が苦手なぼくにもわかる範囲のことばにしてみたい。互いに正義を主張し相手を否定する(二元論的)のではなく、違う考えがあるからこそ自分の考えのあり方が明確になる。その二つの考えの矛盾を抱えた上で解消する(弁証法的)方向に進もうではないかという毛沢東の「矛盾論」。でもそれは弁証法的であるかもしれないが、実用的(とりあえず現状の矛盾を飲み込んで)と捉えることもできるのではないかとおっしゃる堀間さん(このあたりの読解にはかなり自信がない。誤読してたらごめんなさい・2度目)。
プラグマティズム的な世界観は、いつも現状容認的なものになる危険性、小さな選択ミスが大きな危険につながる可能性をはらんでいるので気をつけておかなくっちゃね。
爆弾がまだ爆発しないときは、矛盾物が一定の条件によって、一つの統一体のなかに共存しているときである。新しい条件(発火)が出現するにいたって、はじめて爆発がおこる。(毛沢東「矛盾論」 堀間さんの記事からの孫引きです。お恥ずかしい)
確かにその通りだなぁと、毛沢東の著作さえ満足に読んでいないという自分に対する残念な思いと、堀間さんの記事への共感と、小さなひっかかりとともに思った。
その小さなひっかかりに近いものを感じたことがある。また長くなりそうだが、お時間のある方は付き合ってほしい。
ぼくは天安門事件を折り返し地点とした二年のあいだ、中国で暮らしていた。その時、毛沢東のことをどう思うかと広州外語学院の先生がたに聞くと、だいたいモゾモゾしたはっきりしない返事が返ってきた。もとより彼らは政治的な質問や発言を好まない。自らの立ち位置を明確にすることが、とても危険なことだと理解しているからだ。
すでにどこかで書いた気もするが、広州外語学院から見た、1989年の天安門事件の概要をもう一度、記しておく。
胡耀邦の急死は同年の4月の中旬だった。そこから五・四運動70周年記念日に向けて、北京の学生たちの間で自由と民主化を目指すデモが広がった。その後、多くの学生たちが天安門広場でハンガー・ストライキを始める。趙紫陽がそれに同情的な発言をしたことで、学生運動は過熱し、一方では政権抗争的側面を持つようになった。
同じ頃、北京から遠く離れた広州外国語学院の学生たちも、北京の学生たちと同じように、広州市街において連日のデモ、ハンガー・ストライキを行っていた。そのためすべての講義は休講となった。
大学からはまず、デモによって休講になった講義の出欠処理のレクチャアがあった。とりあえず、講義は行ったということにしておいてくれ、と。その上で「全員出席」として対応してくれというのだ。先生がたは、どうぞ自由にお過ごし願いたい。海外に長期で出られる場合は、連絡してほしいと伝えられた。
デモに対する学生たちの行動は、大きく3つに分けられた。北京の天安門広場に向かい活動に直接加わっているもの、広州市街でデモやストライキに参加しているもの、それ以外の3つ。
そこでぼくは耳を疑う話を聞く。「学生たちは、旅費を払わずに北京に行けます」というのだ。運動に参加する学生は革命の闘士(になるかもしれない)である。革命立国の歴史を持つ中国は、そのような学生を支援する(革命が成就したとき、学生から運賃を取ったものは処罰されるかもしれない)伝統がある。小さな話だが、学生たちが広州市街でのデモに参加する場合のバス代もかからない。大学側から送迎バスが出るからだ。公的支援によるデモ、ハンガー・ストライキである。ビックリ、だ。
当然、その流れをうまく利用しようとする輩もいる。大学が休みになったから帰郷しよう。幸い北京まではただで行けるし。うまくすれば、学年末テスト(7月)もなく夏休みに入るかもしれない。そう考えて帰郷してしまった学生である。当時、広い中国で帰郷するということは一大事だった。高速鉄道はなく、飛行機で帰郷するなど学生は誰も考えなかったころだ。列車で帰ると、下手をすると片道一週間の旅程である。
さすがに帰郷する学生は多くなかったようだが、広州市街へ無料バスが出るというだけでも一般学生の気分は高揚していた。デモやハンガー・ストライキ(広州市街でもすでにハンガー・ストライキが始まっていた)の「応援」に行く多くの学生たちは、半ばお祭り気分だった。天安門でもそうだったが、広州でも多くの市民が彼らを支援(食料をカンパなど)していた。夜、構内を大きな声で話しながら歩いていたり、季節外れの爆竹(爆竹は年越し)を鳴らしたりしていた。
日頃は真面目で物静かな学生が多いだけに、その変化は目立った。
仲のいい先生数人に話を聞いた。「何が起こっているのか?」 誰も、はっきりしたことは言わないが、数人の発言を総合すると、このようになる。「学生運動であれば、何も心配することはない。学生はいつでも夢を描くものだ。だが、今回の動きは鄧小平と趙紫陽の政治の争いになっている。両者の力は拮抗している。それぞれの地区の共産党、公安、解放軍が、どちらにつくか日々動いている。うかつなことは言えない」
そんなある日、大学に行くと学生は一人もいなくなっていた。学生寮も空っぽである。大学正門玄関の柱に赤いペンキで何かが殴り書きされていた。たまたまいた先生に話を聞くと、「学生たちは全員逃げた」と言う。「故郷に逃げたのか、どこか他の所に隠れているのか、誰も知らない。とにかく、このまま休講は続く」らしい。なぜ逃げたのか、誰から隠れているのかを聞いても誰も答えてくれない。6月5日の朝のことだ。その前夜に世界中の耳目を集めた事件が起こっていたのだが、当事国にいたぼくは何も知らなかった。
……同年の10月、何もなかったかのように新年度はスタートし、その後一年間を広州で過ごした。親しい先生は、こういう話をしてくれた。
「天安門事件は学生運動として始まったけれど、終盤は学生にも制御できない暴徒集団になっていた。仕事を求めて地方から流入した多くの農民や労働者が参加することで、集団は膨れ上がった。自由や民主化のプラカードを持つ彼らは、自由や民主化の意味すら知らない。それどころか自分の持つプラカードの文字も読めないような人がたくさんいた。そんな人たちが学生と一緒に活動して、有頂天になった。食事も支援で食べられたし、革命英雄のように扱われもした。学生によるデモのコントロールもできなくなっていた……武力による制圧も仕方ないだろう」 これが彼らの話すことのできる公式見解だった。
真実は知らない。中国政府の言い分も信用できないし、西欧諸国や日本の過剰に人道的で部分的な報道も信じられない。
ただぼんやりと、ここにあるのは自由や民主化の問題ではないし、人権の話題でもないような気がしたのだ。もっと根源的な何か大きな問題があるように思った。
「農民や労働者」と一括りにされてしまった10億を超える人びと。彼らは教育のないもの、理性で統御できない人たちという扱いを受けている。いや、表向きにはそうではないのだが(誰に聞いても農民が国の根幹だと言う)、実感としてはやはり愚民政策が続いている感じだ。
で、冒頭の毛沢東の話である。
当時の政治的な流れで言えば、毛沢東の評価はほぼ決定していた。否定されて当然だったと思う。鄧小平の改革開放路線がスタートした頃だったから。また、大学の先生がたのほとんどは文化大革命で、直接的な攻撃、被害を受けている。その痛みはまだ彼らの身体に残っていた。
しかし彼らの口調は、どこか懐かしげで、親戚の(ちょっと迷惑な)おじさんを語るようだった。酷い目に遭わされたけれど憎めない。そんな感じだ。言葉は厳しかったり、総括的・批判的なのだが、頬が緩んでいる。
直接的な被害者である大学教員でさえこうなのだから、農村では根強い人気があるんだろうなと思った。毛沢東その人に備わった慕わしさ、人なつっこさかもしれない。人間的な魅力とでも言ったらいいのか。それが、中国人民が毛沢東を慕う根本にあるのではないか?
ではその慕わしさ、人なつっこさ、人間的な魅力とは、なんだろうと考える。中国人民が、毛沢東の「矛盾論」(二元論を超え、大局に立って)に賛同したのではなく、毛沢東その人の言うこと(たとえそれが何であっても)だから賛同したのだとしたら。
あ、これは誤解される書き方だね。ぼくは毛沢東のカリスマについて語ろうとしているのではない。彼が農民や労働者の一人だったからではないか、と思っているのだ。
毛沢東は中国の農民や労働者を知っていたというか、彼自身が最後まで農民や労働者の一人だったのではないか。これも抽象的な言い方だが、彼が持っていた価値観は、農民や労働者のものであり、それを中国古典的なプラグマティズムに拠っているということもできるけれど、それは極めて庶民的な価値観、哲学、生き方だったのではないか?
そこに何かがある、といつも思うのだ。でも、それをうまく言語化できない。世界中で上流階級、中流階級、労働者階級のクラス分けが行われ、国境より深い分断が生まれている。それがどこに端を発するものか、そのような現実を生んだ物語は何か?
堀間さんの記事に感じたのは、そこへの繋がりだ。なぜそう感じたのかを自分の経験を遡ることで、少しでも明確にしておきたかったのだが、今回もうまく捉えられなかった。俎上にのっていただいた堀間さんには、申し訳ない。
このような分断を生んだ世代の一人として、少しでもはっきりさせたいと思うのだが、今回も徒手空拳の空騒ぎになってしまった。
全体としては空を掴むような話になってしまったが、天安門事件当時の様子や当時の人々の毛沢東に対する意識を少し書くことができたので、よしとしておきたい。
前回のリクエスト・アワー01はこちらです。
