「観る」ことについて四度目のnote 「観る」とは技術的な問題だ。ただしその前に認識すべきことがある。
ここまで「観る」ことについて、三度にわたりあれこれ書いた。そこでは「観る」ことを誰かに伝えることはできないと書いてきた。これまでの教員生活のなかでいろんな人にそれを話してきたのに、伝わった実感がほとんどないという自分の経験からだと思う。
でも、ぼくはわかっている。「観る」ことは、能力ではなく技術であることを。
まず、生徒と担任という状況をイメージしてほしい。両者は完全に他者であり、嫌な言い方だけど、暗黙の上下関係がある。なんだかんだ言っても、教師は教室の権力者(指導者)だ。自分で自分ことを権力者だと言うのは厭だが、客観的な事実ではあるだろう。
生徒と担任はほとんどの週日、顔をあわせる。毎日のように話しさえするだろう。8時過ぎから16時くらいまでの時間を同じ場所で過ごし、授業とHRでは狭い教室で顔を合わせる。たぶんこの時期に限れば、保護者より多くの時間と言葉を交わしている。その上、普通は秘密にされるさまざまな個人情報(これまでの履歴や家庭情報、過去現在の成績まで)も、担任には伝えられている。保護者には見えない、友人のなかでの彼/彼女の姿も知っている。授業中でのいろんな顔や仕草も見ている。その上、保護者の個性にも触れている。
担任が生徒を「観る」のベースに、そのような各種の情報が入っていることは明らかだ。
生徒の個人情報に触れると、いろいろなことが理解される。一言でいうと、彼/彼女がいかにして今の性質・性格を手に入れたかということだ。保護者の性質・性格の影響、居住地区(学校外の人間関係)の影響などが主たるものだ。もちろん家庭の経済状況や保護者の職業なども少なからず影響している。
彼/彼女はさまざまな個性的な環境のなかで生き残るために、自分の性質・性格を形作り、それによって武装している。高校生の性質・性格は、彼/彼女らの生き残り戦略だと、ぼくは考えている。それは彼/彼女らがつくってきたものではなく、装わせられているもの、保護者や小さな共同体(地域やそれまで通ってきた学校)などに押しつけられたものである。
言い方を変えると、落ち着かなかったり、何かと自己本位だったり、おしゃべりだったり、逆にほとんど何も喋らなかったりという、表に出ている彼/彼女らの性質・性格は、彼/彼女らの生育環境に対する彼らの生存戦略であり、それは自身が創りあげた彼/彼女ではないと私は考えている。わかりにくいね。もう一度、少し言い方を変えて書いてみる。
表から見える彼/彼女の性質・性格は、決して彼/彼女の性質・性格ではない。それは彼/彼女らの保護者や生育環境、小さな共同体が彼/彼女らに押しつけたものである。歩く時は右側を歩きなさい。友だちとは仲良くなさい。嘘をついてはいけないよ。……その多くは、この時代この文化にふさわしいものであり、まさに生き残るために必要な要素だが、それぞれの家庭や生活環境などによって微妙に異なる。また、それが性質・性格としてあらわれる際には、作用として(環境に従順な形で)あらわれるか、反作用として(環境と逆の形で)あらわれるかの、大きく2つの形がある。
やはりわかりにくいが、とりあえずこれで我慢していただきたい。とにかくぼくは、彼/彼女らの表にあらわれている性質・性格を、彼/彼女らの本質的な性質・性格とはみなしていないということだ。彼/彼女らは、とりあえずお仕着せの衣裳を着ているが、それは遅かれ早かれ着替えなくてはならない。そして次に着る衣裳は、自分で選ばなければならない。その都度、次のステージに合わせて(大学や会社や愛する人や)選ぶとなると、問題が大きく深くなるばかりだ。
彼/彼女の魂(魂という言葉が適当か否かはわからないが、彼/彼女らが環境に着せられた今の性質・性格の奥にあるものをとりあえず〝魂〟と呼んでおく)は、現在の性質・性格の奥で自分と周囲の様子をじっと見ている。
生徒は、まだ未熟なものとしてそこにいる。彼らを成長させるのが教育の役割であり、成長とは彼らの〝魂〟が彼ら自身によるものとして自立していくことである。また、そのためには「こうしなければならない」「それはよくない」などの、それまでの生育環境が押しつけたような方法によってはならない。それでは彼/彼女らに新たな衣裳を着せることにしかならない。他者に着せられた衣裳はもろい。
ようやく話は本題に戻る。私が担任として生徒を「観る」時、私は彼/彼女の〝魂〟が動きだすのを、じっと見ているということだ。
ここまでを、一度整理しておこう。
前提……担任は通常では知り得ない個人の情報・秘密を知っている。
① 生徒=彼/彼女らの性質・性格は、彼らの生育歴のコピーである。
② 表面に見える、生徒=彼/彼女の性質・性格は、彼らの生育歴によって作られたもので、彼/彼女自身が自ら手に入れたものではない。
③ 彼/彼女の魂は、表面に見えるその性質・性格の影に潜んでいる。
④ 担任としての私が「観る」のは、両者のズレの部分である。
ということだ。
職員室で話題になる生徒の特性とは、ルーズだとか、几帳面だとか、いい子だとか、真面目な子だとか、まぁ、そんなことだ。あるいは問題行動とか、問題行動に発展しそうなところとかだ。
私は、あんまりそんなことに興味がない。ここまで書いてきたように、それは彼らの生育歴によって作られたものであり、彼らの衣裳にすぎないからだ。ぼくにとってそれは彼/彼女ら(仮)の姿である。
さて、ここからが本番だ。
私は、担任教師として普通では知ることのできない様々な情報を持っており、それを今の彼/彼女らと照らし合わせた答え合わせもできている。今の彼/彼女らが、褒められる姿(いい子だ、いい生徒だ)にできあがっているにせよ、そうでない(問題児だ、性格がねぇ)にせよ、その出発点はここまでの生育環境に(残念ながら教育もその一端をしっかり担っているのだが)よっていることを知っている(経験を重ねると先にあげたさまざまな情報がなくても、生徒の生育環境、装った性質・性格がわかるようになる)。
そういう意味で、高校生の多くは未熟で発展途上の存在だ。ここから自分の手で自分自身を創りあげていく長い旅が始まる。肝心なのは、「自分の手で」というところだ。
そのために教師には、特に担任には「観る」ことが大切になってくる。先に書いたように「観る」のは、彼/彼女らの現在の性質・性格(お仕着せの)と彼/彼女らの〝魂〟の間のズレを「観る」のだ。
これは極めて技術的な問題だと考えている(やっと冒頭の話題に戻ることができた!)。
いつもと違う彼/彼女が姿をみせる一瞬を捉えることは、それほど難しいことではない。いつもは乱暴な言動を見せがちな彼/彼女がちょっと違う言動をしたとか、いつものような言動をしているのに目が泳いでいるとか、いつもつるんでいる仲間をちょっと遠い目で見ているとか。そんないつもと少し違う様子をとらえるのは、教師にとって日常の仕事の一つだ。
もちろん黙っていても彼/彼女らは自然に、自分の性質・性格を作り始める。その多くは健全な成長をみせる。人間の成長とは、思っているよりはるかに健康的だ。そのような多くのケースの場合は、黙ってみている。
声かけをするのは、「大丈夫か?」という地点に彼/彼女が立っているように思える場合だ。
『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー)である。ホールデン・コールフィールドである。ライ麦畑で遊んでいる子供たちが、夢中に走っている。その先に崖があることに気がつかない。彼/彼女が崖から落ちそうになったら、その子を掴まえる仕事をしたいとコールフィールドは言った。「あっ、ぼくも」と思ったのが当時18歳だったぼくで、それが教師の仕事だといまだに思っている。赤子の魂百まで。
で、崖から落ちそうになっている彼/彼女に声かけを行う。
さて、その時の声かけである。これまで何度も書いてきたように、それは「どうした?」の一言で済む。ただし、その「どうした?」には千万の思いの込めようがあるのだ。
励ましの「どうした?」。共感の「どうした?」。心配の「どうした?」。尊敬の「どうした?」。軽蔑の「どうした?」。……。
それは技術的な問題だ。「千万の思いの込めようがある」と書いたが、正確には「こちらの思いを感じ取らせるように演じる(極めて真剣に)」と書いた方が近い。それは情緒的なものをあらわすが、行いははっきりと理知的に計画的に(悪い言葉を使うと「計算ずくで」)なされる。
「寄り添う」という言葉が流行っている。上の行動は、その「寄り添う」とは遙かに遠い行動だ。もっと俯瞰的だし、客観的だし、計算ずくだ。そうでなければ、崖から遠ざかるように仕向けることはできない。
ここで何よりも大切なのは、「崖に向かっているのを、担任に止められた」のではなく、「崖に向かっていることに自分で気がついて止まった」と認識を誘導することなのだ。
そのための、「どうした? 何かあった?」の言葉であり、彼らは「いや、何も」とか、「別になにも」と答える。それは自分で自分に気がついたという答えでもあるのだ。人の多くは健全にできている。長年、教師をやってきて思うのは、そういうことだ。
さて、そろそろまとめておきたい。
担任が教室で生徒を「観る」ということは、極めて技術的な問題である。
教室にいる彼/彼女らは、自分の〝魂〟を育てている最中である。
彼らの今の性質・性格は、かりそめのもの、変態前の姿である。
かりそめの性格を矯正しようとしても上手くはいかない。こじれるだけ。
その奥に育まれている彼/彼女の〝魂〟がある。そこに焦点を置く。
通常、変態(メタモルフォーゼ)・成長は、健全に静かに行われる。
危険な香りがする場合(それは振る舞いの変化として必ず観える)は、声をかける。
言葉は最小でいい。彼/彼女の向日性の力を信じる。
もちろん、それで上手くいかない場合もあるし、彼/彼女から何かアドバイスや、時としては命令のようなものを求められることもある。そのような積極的介入は、ケース・バイ・ケースで慎重に行う。
あれれっ? 本文で書かれていないことも、まとめに書かれている気がするが、そこはここまで読んでくださった諸兄諸姉に委ねたい。
長くなってしまい、申し訳ありません。こうやって書いてみると、教室における生徒と担任というあり方は、かなり特別なものだという気がします。社会のなかで、このような関係はなかなかありませんよね。
……だからこそ、できることがあるはずです。ぼくはずっとそう考えてきました。
「観る」ことについて、違う角度から考えてみました。
