わかんない 観ることについて五度目の挑戦
一昨日はとんでもない雪だった。車の上に40センチ以上積もっているのだ。そこに行くまでにも、もちろん同じだけの雪が積もっており、やれやれだ。ずぼずぼである。幸い駐車場にはロードヒーティングが施してあり、待っていればその雪はなくなるが、とりあえず昨日は全く間に合っていなかった。融けるよりずっと早く雪が降り積もる。
さて、この数年ずっと悩んでいることがある。悩んでいるというのではないかもしれない。「わからないでいる」あ、こっちの方が近い。
ずっと、わからないでいる。ぼくはどうすればいいのだ?
仕事の話だ。ぼくは、高校の教師をしている。いろんなことで生徒と話すことが多い。始業前の時間、昼休み、放課後、授業中。いつも生徒と話している。
いろんな生徒とああでもない、こうでもないと話しているからか、その生徒のことがいろいろと見えてくる。
そう。また「見る」という話題だ。
最初に見えるのは、彼/彼女らが自分のキャラとして表に出している自分。それは他の生徒/教員にも見えている。ここで見える彼/彼女らを、「ペルソナ」と呼んでおこう。「ペルソナ」というとカッコいいかな、と思っただけだ。
ほぼ同時に、彼/彼女らがそのペルソナをつけている粗筋が見える。友人関係であったり、家庭関係であったり。そのような背景があるから、このペルソナをつけているんだろうな、ということだ。これはあとで答え合わせができる。担任や過去の彼/彼女らを知っている人物に尋ねればいい。不思議なことだが、その人のペルソナを見ていると「素顔」を誤認することはあまりない。単純に、経験の積み重ねだと思う。
彼/彼女らがつけているペルソナがわかると、素顔が見えるようになる。これは「素顔」と呼んでおく(もう、名付けに興味がなくなった)。「素顔」が見えると、コミットがすごく楽になる。彼/彼女らに話しかける時、ぼくは「素顔」に話しかければいいからだ。彼/彼女らは、それを敏感に察知する。彼/彼女らは「素顔」に話しかけてくるぼくを、「わたし/ぼくをわかってくれている人」として認知してくれる。だから、彼らも「ペルソナ」をつける必要はなくなり、互いに楽な相手になるのだ。
ここまでを一度整理しておく。
まず、生徒の「ペルソナ」人格がある。周囲の人は(多くの場合、両親も含めて)、この「ペルソナ」人格で接している。
その奥には、一人ひとりの「素顔」人格がある。ここに接している人は意外に少ない。兄弟姉妹、非常に近しい友人くらいだ。
でも、すべての兄弟姉妹がそうであるわけではないし、近しい友人がすべてそうでもない。たぶん本人にとって、この「素顔」人格を知っている人、「素顔」人格で互いにコミットできる人は、少数で充分なのだと思う。
この「素顔」人格での付き合いが、彼/彼女らのセーフティネットになり、彼らの大小の危機を未然に救う。
……と、ここまではいいのだ。何の問題もない。ぼくが困っているのは、ぼくがわからないでいるのは、この後の話なのだ。
「素顔」の奥にあるもの、彼/彼女自身が認識していない彼らの姿が見えることがある。心理学でいう深層心理かもしれない。それは「見える」というより、「感じる」といった方がいい。でも実感としては、「感じる」よりずっとはっきりしている。「見える」という言葉を使う所以だ。「素顔」の奥にあるものだから、骨? 髑髏? それじゃあんまりなので、ここでは「奥の間」と呼んでおく。「魂」と呼ぼうかとも考えたのだが、「魂」より、もう少しこちら側、外側の感じだ。で、「奥の間」としておく。
ぼくに、彼/彼女らの「奥の間」が見えてもかまわない。見えていても見えないフリは得意だし、それで何も困らない。そこはあまりタッチすべきところではないという認識が、ぼくにはある。
困るのは、それが見えて「危ない」と感じる時だ。「あ、この人は近い将来この『奥の間』に苦しむことになる」と感じる時だ。誰かを傷つけずにはおかないだろうな、と感じることがある。傷つける相手は他者かもしれないが、自己かもしれない。それが一番こわい。
「奥の間」には、彼/彼女らが知らない、彼/彼女らがいる。それは「ペルソナ」とも「素顔」とも違う「奥の間」の彼らだ。「奥の間」の彼らには、とても危うい匂いがする。未然になんとかしたい。そのためには、今、ぼくがその「奥の間」を彼ら自身に見せる必要がある。それは「未来」の彼らを少し救うかもしれないが、「今」の彼らを傷つけることにもなる。
ここでようやく、わからない案件である。
どうするのが正解か、わからないのだ。
その「奥の間」を彼/彼女らに伝えていいのか、否かである。「奥の間」を、彼/彼女らに伝えると大きな衝撃を与えてしまう。傷つけてしまう。
でも、今なら傷は浅くてすむ。彼/彼女らがそれを認めなくても、耳に入れておくだけでもいい、と思う。
生徒と接していると、それも彼らの「書いたもの」をあいだに置いて、彼らと接していると、なんどもその「奥の間」に行き当たる。
文章には、特に自筆の文章には、本人が思うよりずっと多くの「その人」があらわれる。本人はそれに気がつかない。
「この文章にあらわれている、あなたは……な人だよ」と言う。
彼/彼女は、そんなつもりで書いたんじゃないと言う。それは、かくかくしかじかということを伝えたくて書いたんだ、と。ここまでの伝でいうと、「書いたのは、『奥の間』のことではない、『素顔』のことなのだ」となる。しかし、伝えたいことと伝わることは違う。
大人にも、もちろん「ペルソナ」「素顔」「奥の間」がある。相手によって「ペルソナ」づきあいをするのか、「素顔」でつきあうのか、「奥の間」まで踏み込むのか、私たちは相手に合わせて自然に選んでいる、、、と思う。
そのようなことは、カウンセラー/医者の仕事ではないか、彼らに回せばいいという意見も、もちろんあるだろう。確かにそうかもしれない。ただ、ぼくが感じているのは、ほのかな予兆であり、確定診断に至るものではないのだ。
……はてさて、ここまで書いてはみたのだが、どうにもうまく人に伝えられている気がしない。ということで、今日はここまで。
「観る」ことについて考え始めてから、ずっとこのことを書きたかった。でも全然うまく書けなかった。でも、うまく書けなくても、それなりに最後まで書き終えようと思って、ここまで書いた。上に書いたように、伝えられた気は全くしないが、それはそれで仕方ないかなと思う。
よろしかったら、「観る」ことについて書いた最初からどうぞ。
