すべては“観”から始まる 濱本克哉さんの記事を読んで考えた
「あーっ、そうなんだよなぁーっ」と、声にしていました。
濱本克哉さんの一昨日の記事、「環境にどう対応すべきか ─ すべては“観”から始まる」を読んでいたときのことです。
ここでは、「観る」ことの大切さをビジネスの世界から書かれています。でも「観る」ことが大切なのは、どの世界でも同じだと濱本さんはおっしゃっているようにも読めます。
ぼくも40年あまりを高校の教室という狭い世界にいて、「観る」ことの大切さを何度も思い知らされました。また「観る」ことの難しさも。
濱本克哉さんのその記事は、こちらです。
どうぞ、ゆっくりお読みください。
まず、
観るとは、ただ視界に入れることではありません。
自分の心
他者の心
状況の流れ
これらを静かに受け止めることまで含みます。
と、あります。ドッキリですね。
例えば、教室で最近生活が荒れている生徒が眼に入ります。教師としては、その子の生活を通常モードに戻したい。でも、そういう気持ちがあると、たいてい上手くはいきません。
なぜ観る前に動くとうまくいかないのか
多くの人は、まず「欲」が立ちます。
教師には、いつも欲があるからです。「この子の助けになりたい」という欲です。確かに教師のその思いは悪いものとはいえないでしょう。職業の性質からも、社会的な基準から考えても、正しいように思えます。
でも、それではだいたい上手くいきません。生徒が、納得してくれるフリをしてくれる場合はあります。「ま、そう言うよね」という具合です。言葉が届いていないんです。
では、どうすればいいのでしょうか。
ポイントは、濱本さんのいう「自分の心」です。それを「静かに受け止める」ことです。
教師としての「自分の心」を腑分けしてみます。
・彼/彼女の生活が乱れている……他の生徒に悪影響を与える
・彼/彼女の生活を元に戻したい……周囲の人(保護者・友人・もちろん教師)も心配している
・彼/彼女に将来のことを考えてほしい……自分が苦労するのに
・彼/彼女にいまできることを頑張ってもらいたい……勉強しろよー
はい、「静かな自分の心」はどこにもありませんね。そこに見え隠れするのは、「教師の欲」「定型にはめ込みたい欲」ばかりです。
ぼくも、若い教師に何か話してくれと言われることがあります。そのたびに「よく観ること」と言うのですが、これが全く通じません。新卒1年ほどの教員が、「自分はよく観ているし、だいぶ観えるようになっている」と言います。スゴいなーとも思いますし、違うんだよなーとも思います。
ぼくが「観ること」の大切さを学んだのは、カルロス・カスタネダの3冊目だったと思います(真崎義博 訳『呪師に成る イクストランへの旅』二見書房、1974年)。呪術師ドン・ファンの導きによって、呪術師修行をするところです。「観る」ことは、呪術師になるための大きなステップでした。
ドン・ファンの教えを、今のぼくにあらわすことができる言葉にすると、こうなります(「彼/彼女を観る」こととは、ですね)。
・彼/彼女の息づかいと表情をなぞる。
・彼/彼女の見ている風景を観る(教室で・家庭で・街で)。
・彼/彼女の聞いている言葉を聴く(教室で・家庭で・街で)。
・彼/彼女の生育歴や家庭環境を知る(保護者やきょうだいを観る)。
誤解を怖れずに、簡単に言うと「自分を、彼/彼女に明け渡す」ということです。そんなことできるわけはありません。でも多く経験を踏まえると、かなり近づけるような感触があります。濱本さんがおっしゃっている「他者の心」が、これにあたるかもしれません。
その上で、彼/彼女に焦点を合わせないようにして観る、あるいは彼/彼女を視界の隅っこに感じるようにします。すると少しずつですが、彼/彼女の姿が観えるようになります。「観る」ですね。
三者面談や二者面談など、「彼/彼女」と話をする機会はたくさんあります。もちろん授業中にも。でも、そのような場面では「彼/彼女」の姿は、あまりよく見えません。掃除の時や廊下での立ち話、あるいはSHR前後の喧噪の中で、ちょっと油断している時の「彼/彼女」の方がずっとよく観えます。
……わかりにくいですよねぇ。ちょっとスピリチュアルな感じもするし。でも、「眼の端で観る」とか「焦点を合わせないようにして観る」とか「油断しているところを観る」というと、ある程度経験を重ねた教師にはピンと来たりするんです。少なくとも、改まって正対している時より、ずっと。
これも「わざ言語」の一つかもしれません。「わざ言語」とは、「科学的な言語では表現できない身体に根ざした感覚の共有を促す言葉」という感じですね。十年ほど前に看護系の文章で初めて知った言葉ですが、さまざまな分野で、少しずつこの語の使用が広がっています。
長嶋茂雄監督の「スーッと来た球をガーンと打つ」も、「わざ言語」と考えられます。その分野の特殊な技術を習得した人には、すんなり通じる言葉です。大工の棟梁の言葉やスポーツのコーチの言葉などがよく例としてあげられます。
あれれっ? 話が枝分かれしてしまいました。ちょっと太い幹に戻りましょう。
「自分の心」を「彼/彼女の心」に差し替えると、どうなるでしょう?
たいがいの場合、途方に暮れてしまいます。「自分の心」「他者の心」「状況の流れ」を「静かに受け止める」と、「途方に暮れる」。
教師が生徒である「彼/彼女」を観ると、途方に暮れてしまうことが多い。「彼/彼女」の多くは、それほど困難な状況に対している。
さて、話しはそこからです。「途方に暮れる」は、終着点ではなく、スタート地点です。ここから、どのような介入が可能か、どうすれば「彼/彼女」が自力で歩けるように補助ができるかを悩みます。
濱本さんは、
ただし、見つめた勢いでいきなり告白しても、うまくいくとは限りません。
まず相手の関心事を知り
その流れに合わせて近づき
心が開くタイミングを待つ
これが自然なプロセスです。
相手にトラブルが起こった日などはタイミングとしては不適切ですね。
つまり、行動を最適化するには──
まず心と流れを観ること
と、書いていらっしゃいます。そうなのですよ。互いの「心と流れを観ること」がすごく大切です。ところが、この「待つ」のが至難です。
ぼくらの仕事の場合、生徒を指導するという大義名分があり、また、その指導は早い方がいい(生徒が深みに入らないうちに)という暗黙の了解もあります。ですから、「待つ」のがいっそう難しくなります。
もちろん緊急を要する場合もあります。かなり追い詰められている状況、例えば風俗で仕事を始めたとか、妊娠したとか、同棲を始めたとか、そういう場合の介入は、急を要します(どれも以前、担任として経験した実例です)。それでも、「その時にすぐ」ではなく、数日内にタイミングをみて、ということになります。まさに濱本さんのおっしゃるように「心が開くタイミングを待つ」わけです。
例として「生活が荒れている生徒」を取りあげたので、こういう流れになってしまいましたが、それは「真面目に生活を送っている、成績の良い生徒」にも、すっぽりあてはまります。性格も非の打ちどころがなく、成績も優秀で、東大や京大、あるいは医学部医学科にストレートで入るような生徒も、同じです。心に非常に脆弱な部分や、どす黒い部分が観えたりします。しかし、彼らの属性が社会的に有効であることで、自分も周りも気がつかない、あるいは誰も口にしない場合が多いのです。だから気がつかない。あるいは、だから許されると思っている。
もしかすると、自分も周囲の他者も、そのことに一生気がつかずに過ごせるかもしれません。そうなのであれば、むりやりここで指摘することはないかな、なんて思います。でも、人生はそんなに順風満帆の日ばかりではありません。
さて、どうしたらいいのでしょう?
そのことは、またいつか書いてみるかもしれません。
今日は、長い原稿を読んでいただき、ありがとうございました。
濱本克哉さんの記事を読んで、いろいろ考えるところを書かせていただきました。ぼくが誤読している箇所は、ございませんか? もし、そのような箇所がありましたら、すぐに修正いたしますので、ご連絡ください。
濱本さん、ありがとうございます。何の許諾も得ずに引用等させていただきましたことを、お詫びし、お礼申し上げます。
また、ここで書いたことは、濱本さんの記事にインスパイアされたtetsuの意見であり、濱本さんには何の責任もありませんことを付記しておきます。
「観る」ことについて、おかわりはいかがですか?
