「観る」こと再び ことばの未熟さについて
自己肯定感が、ダダ下がりである。理由は、はっきりしている。いつものことだ。
ことばにできないことをことばで伝えようとして、挑戦した。そしてまた負けた。(+コロナに罹患した)
当たり前だ。ぼくはことばの専門家ではない。いや、国語の教師だからそんなことを言ってはいけないのだが、でも少なくともことばを紡ぐ専門家ではない。作家や詩人ではないのだ。
作家は、膨大なことばを使って、ほんの一瞬こころを通り過ぎる感情を伝えようとする。
詩人は、ことばを削いで削いで、削いだことばを組み合わせることで、伝わるはずもないことを伝えてくる。
すごい人たちだと思う。限られたことば(ことばはたくさんあるけれど、ぼくらのこころに浮かぶ風景を描ききるほどたくさんではない)で、ある一瞬の風景やこころの動きを伝えてくる。普遍的なことばで、個性的な思いを、瞬間の心の揺らぎを伝えてくるのだ。いやいや、そんなことできる方が変でしょ。ことばの変態でしょ。そう思うが、あこがれは止まらない。
そんなに大げさな話ではないのだ。昨日noteにアップした自分の記事の文章のこと。「観る」ことを書こうとして、どんどん泥沼に入り込んでしまった。
嘘を書いているとか、間違っているとかいうのではない。それは、ぼくにとっては間違いのないことばなのだが、自分で書きながら、もちろんそれを読み返してみても、これで他者に伝わるはずがないじゃないか!? と思うのだ。
・彼/彼女の息づかいと表情をなぞる。
・彼/彼女の見ている風景を観る(教室で・家庭で・街で)。
・彼/彼女の聞いている言葉を聴く(教室で・家庭で・街で)。
・彼/彼女の生育歴や家庭環境を知る(保護者やきょうだいを観る)。
誤解を怖れずに、簡単に言うと「自分を、彼/彼女に明け渡す」ということです。そんなことできるわけはありません。でも多く経験を踏まえると、かなり近づけるような感触があります。濱本さんがおっしゃっている「他者の心」が、これにあたるかもしれません。
その上で、彼/彼女に焦点を合わせないようにして観る、あるいは彼/彼女を視界の隅っこに感じるようにします。すると少しずつですが、彼/彼女の姿が観えるようになります。「観る」ですね。
ここで書こうとしているのは、ぼくが教室で生徒をどのように見て/観ているのかということだ。そして、それを言葉にすると上記のようになる。もちろん顔真似をしたり、彼女に一日付き合って彼女の見るものや聞くことをリサーチするわけではない。
ぼくは、ずいぶん若い頃から「見る」訓練をしてきた。特別なことではない。例えば教室から外を見ると同時に、外から教室を見ている視点をもつ、というようなことだ。外の木の枝に鳥が止まっている。その鳥の目で世界を見る、イメージ。退屈な授業の時に、誰もがやるようなことだ。
もちろんそれは想像に過ぎないのだろう。こちらからあちらを見ると同時に、あちらからこちらを見る視点を想像しているだけだ。
ところが、である。ところが、それを何度となく繰り返している(訓練を重ねていく)と、鳥の目で見ている風景がリアルに感じられる一瞬がくる。今、ここにいる自分から視線だけが外れて、空っぽになった自分を外から見ているような感覚が生まれる。
ほら、こんなこと言ってるから、アヤシい人認定されるのだ。
自分を空っぽにして、教室の彼/彼女になってみる。二間のアパートに家族六人で暮らしていたり、親戚の家の一部屋に父親と二人で居候していたりする彼/彼女になって、街を眺める。教室を観る。そうすると、彼/彼女がよく見せるぼんやりした笑いにも意味が生まれるし、SHRが終わるやいなやバイトに駆け出す気持ちも分かるようになる。
そうして思うのだ。もしぼくが彼/彼女の立場で生まれ育っていたら、あんなに健気に生きることができただろうか、と。
そこに至って、途方に暮れる、ということなのだ。
彼/彼女の目を通してみるぼくは圧倒的な他者だ。担任とはいえ、1年ないし3年後には、完全な他者になる。ちゃんとした家庭を持ち、仕事を持っている公務員。自分の人生とは交わらない人。ぼくには何もできない。
「途方に暮れる」は終着点ではなく、スタートだと書いた。ここから「観る」がスタートする。同時にここが基本である。
想像してほしい。あなたは学級担任で、毎朝、30~40名の生徒と対する。SHRの始まる時間ではないから、教室は軽い喧噪状態だ。あなたは、その様子をぼんやりと見ている。誰かに焦点を合わせるわけではない。誰かの話に聞き耳を立てるわけでもない。
その上で、彼/彼女に焦点を合わせないようにして観る、あるいは彼/彼女を視界の隅っこに感じるようにします。すると少しずつですが、彼/彼女の姿が観えるようになります。「観る」ですね。
あなたは、何か軽い違和を感じている。いつもと同じ喧噪なのだけれど、何かが昨日と違っている。どうやら教室の右側のようだ。そちらに感覚を少し集める。すると、もう少し対象が絞れてくる。Kくんだ、Kくんの様子が少し違うとわかる。
こういう経験をイメージすることができるでしょうか? いつもと同じだけど、何かが違う。それをことばにすることはできない。強いていうなら、「魂の揺らぎがいつもと違う」そんな感じだ。違うのは、目に見えるものではなく、目に見えないものなのだ(ここで、アヤシい人認定、その2)。
改めてKくんに焦点を合わせると、それは観えなくなる。不思議だけどやはり正面から見たら写らない。いつもと同じKくんがそこにいるだけ。でも少し視線をはずすと、やはりいつもと違う磁場がそこにある。そうとしか言えない。
いつもと同じなのだけれど、何かが違っている。そんなことを感じたことはないだろうか? そこに少し意識的になってみてほしい。きっと、そこには何かがある。
ぼくは長いあいだ担任を務める中で、その感覚を大切にしてきた。
でも、できることは少しだけ。ぼくはその日、廊下ですれ違うKくんに「大丈夫?」と声をかける。あるいは掃除の時間に「どうした?」と声をかける。それだけだ。ぼくは本当に無力で、彼の状況に対して何か具体的な手助けができるわけではない。小さな声をかけることができるだけだ。
Kくんは、決まってこう答える。「大丈夫だよ。えっ、どうしたの改まって? 何ともないよぉ」「あ、そうなんだ。ならよかった」
これだけの話だ。実はその日何かが起こっていて、その一言が正鵠を射ていたことがわかるのは、事態が収拾して、笑い話になる頃。本人や保護者から「どうしてあの時、声をかけてくれたのですか?」と聞かれる。もう、これは異口同音に、何度も聞かれた。
ぼくはいつも笑って「観えたんだよ」と答えるだけだ。「観えたから、声をかけたんだ」と。
…… ことばはいつも未熟で何かを伝えようとすると、何かが漏れてしまう。ことばの外にある何かを伝えようとすると、スルリと身をかわされる。でも、それは確かにあるような気がするのだ。
あーっ、やっぱりうまく書けない。
自己肯定感がさらに下がっていく予感しかない(笑)。
コロナの熱のなかで書いてみた。
「観る」ことについて、おかわりはこちら。
