「観る」ことについて、三たび考える 「観る」ことができる人/できない人 (4806字あります お暇な時に)
まだ考えている。「観る」ことについてだ。なんなら、この仕事に就いて40年以上、ずーーーっと考えている。
若い頃は、自分の観ている様子を同僚に伝えようとしたり、それがわからない人、「観えていない」人に苛立ちもした。いつしか伝えることを止めていた。「観えていない」人に、どうして観ないんだと責めることも止めた。
ただ、黙って動いた。「観えていない」人には、ぼくの動いている様子も「観えていない」ことに気がついたからだ。
前に書いたように、それはただ「どうした?」ということばを、的確なタイミングでかけるだけなのだから、それほど労力を使うわけではない。ただぼんやりとしたレーダーのようなものを広げておき、それに何かが引っかかった時に反応するだけだ。(そういえば、これは共通テスト小説の読み方に似ている。そうか、小説ができない生徒は「観る」ことがうまくできないのだな。)
多くの人は勘違いなさっていると思うのだけれど、金八先生は、全然いい教師ではない。全くダメ(笑)。いい教師の下では、不思議にドラマは起こらないのだ(完全自己肯定・笑)。
現実では、ドラマが起こるか起こらないかの分岐点がある。それが、声かけのタイミングである。声かけの中身は前述のように「どうした?」の一言で充分だ。相手が話したがることもあるが、声かけだけで終わることの方が多い(時には、溢れる思いをどーっと吐き出す彼/彼女もいる)。「どうした?」の一言で充分、彼/彼女には伝わるのだ。「あいつは、自分の心の変化に気がついている」と、わかってもらえる。彼/彼女と担任の間に、そのくらいの信頼感はあるものだ。自分を観ている人が一人いることで、彼/彼女は客観的な視点を取り戻す。高校生は、思っているより少し大人なのだ。
そのタイミングで火を消すのがプロ。だから、金八先生はイモ教師だ(あ、ここで気がついた。金八先生は中学の先生だった。ごめんなさい)。
「大ごとになって騒いでどうする? どうしょうもねぇだろ」 これがプロ目線(笑)。
それが上手くいくようになると、卒業までにクラスの三分の一から半分が退学する高校で、ほとんど退学者のいないクラスができあがる。中堅進学校から、そのクラスだけ旧帝への進学者が爆伸びする。ま、数少ない自慢である。聞き流してほしい(笑)。
みんなが聞きに来る。「どうしてそうなったんだ? 何をしたんだ?」エスパー扱いである。「観てるだけだって!」。いくらそう言っても、誰も分かってもらえない。まぁ、ぼくの伝え方が未熟なだけであるが。
…… 話が、脇道でした。戻します。「黙って動いた」のところまで戻します。
当然だが、担任でないクラスにも授業に行く。生徒を「観る」し、生徒が「観える」。時に声をかける。授業の始まる前や後、時には廊下で。別に一言で済むのだから。こちらから何かが「観えた」彼/彼女に声をかける。彼/彼女は、黙っているがビビッドに反応する。
ある学年にいた時に、主任にバレた。
「tetsuさん、あんたあの子になんかしただろ?」
いや、言い方!(笑)
「最近目つきが、変わったんだよ。あんたなんか言っただろ」
「あ、ちょっとだけ」
そこからは、チーム隠密である。「あのクラスが何となく気になるんだけど」とか、職員室で怒っている担任を見ては目配せがくる。ぼくが授業に行っていないクラスでもおかまいなしだ。同じ学年にいるので「観よう」と思っていれば、「観る」ことはできる。あとは、その彼/彼女を「観て」いれば、話しかける時はやってくる。ただ「待って」、声をかけるだけだ。主任と僕しか知らないミッションが、いくつも遂行された。そうやって未然の消火に動いた。
担任の当たり外れとは、よく聞く。本当に申し訳ないことだと思う。でも本当に担任の当たり外れはあるし、そのことで簡単に彼/彼女の人生は変わる。それを極力少なくすべく担任に見えないように動くミッションは、楽しかった。誰にも知られず(主任以外)、ひっそりと何も起こらない。もちろん、当時10クラスほどあった学年全体をカバーできるわけもないが。
その時の学年主任は、すぐれものだった。一度、聞いたことがある。
「あんたには、観えるのか?」
「いや、俺には観えない。何となくは分かるんだけどな。確信みたいなものがないんだ。だからtetsuさんが貴重なんだ。それに俺には言葉がない」
「いやいや、何も特別なことは言ってないって」
「誰がいつ言うかで違うんだよ」
おぉ! こいつは面白い。はじめて僕をちゃんと使う人に会った。彼とは長くチームを組んだ。
何か話を作ってるみたいだが、本当の話だ。どんな仕事にも、その仕事に熟達した人にしか理解できない、呪術めいた技術があると睨んでいる(前にも書いた「わざ言語」の話だ。「わざ言語」の黄色い本が見当たらない)。たぶんマイスターとは、その技術の呪術師に与えられる名称だと思う。ぼくは教員技術競技会「観ること」部門が存在したら、すぐにマイスターの称号を貰えるだろう。
…… と、ここまでが本日の枕である(長い!)。
今日、書きたいのは「観ることができる人/できない人」についてだ。
ぼくの「観る」は、ちょっと特殊だし、偏っている。でも、同じように「観る」(=「感じ取る」かもしれない)ことができる人には、たくさん出会ってきた。
当たり前だが、教員にもいろいろな人がいる。そして、これも当然だが、教員に大切なのは「観ること」だけではない。他にもさまざまな大切なことがあり、ぼくに欠けていることも多々ある。しかし、今日ここでは「観ること」部門に特化して教員を分類してみたい。あくまで私見なので、ざっくりとした分類で勘弁していただきたい。前述したように「観ること」のできる教員にもたくさん出会ってきた。とりあえず下の分類は、それ以外の人たちについてのものだ。だから「観ることのできない人」の分類。
あくまでも私見です、私見ね。
・「観えている」のに、そこに価値を置いていない。使えていない。
・「観る」ことのポイントが違う。数値化、客観化に注目しすぎている。
・「観ていない」、あるいは「観ること」に興味がない。
・人に興味がない。「観る」ことを知らない。
ぱっと思いつくのは、上の四分類だ。まず、
・「観えている」のに、そこに価値を置いていない。使えていない。
という教員。こういう教員は、実は多い。そして意外に職員室では軽く扱われたりする。優しいだけだ、厳しさが必要だと攻撃される場合もある。逆に感情的になり、それが悪い方に転ぶこともある。このタイプの先生は、何か彼/彼女に不安を感じている。でも、自分の感覚に自信を持てていないうえに、どうすればいいかわからない。彼らは、ときに高校生に対して最も下手な手を打つ。過干渉な保護者のようになってしまうのだ。
彼らに対しては、「観る」ことの理論的な説明と納得、「観た」あとの現実的な動き方(待ち方)の指導が行われれば、確実に現場は変わるはずだ。だがマイスターにそれはできない。マイスターはある意味職人であり、教育者ではない(教育者だけど)。
・「観る」ことのポイントが違う。数値化、客観化に注目しすぎている。
このタイプの教員も多い。とても熱心な先生と見られている。生徒の動きをよく見ているし、部活動や成績をよく覚えているし、研究熱心だ。生徒ともよく話すし、信頼されている。熱血タイプでもあり、生徒にも保護者にもわかりやすくウケはいい。それで充分かもしれない。ただ見えていることを「見ている」だけなので、生徒自身が「この姿なら、見せてもいい」とか、「見られてもかまわない」と演じている顔しか見えない。
何かが起こった後になって、「彼/彼女が、そんな面を持っていたなんて……」と、驚き嘆くタイプである。
彼らには、とても残念な言い方になるが、なかなか「観ること」も「待つこと」も伝授できない。自分が「見ている」世界に自信を持っており、他に「観る」べき世界があるなどと少しも思っていない。部活動顧問や管理職にも多いタイプだ。
・「観ていない」、あるいは「観ること」に興味がない。
残念ながら、高校教員にはこのようなタイプの人も多い。大学や大学院で自らが研究してきたスタイルを、高校の教育現場で実践することを至上命題としているような教員だ。教科研究は好きだが、生徒一人ひとりの違いにそれほど興味があるわけではない。彼らにとって生徒の違いは、成績の違い性格の違いくらいのものである。彼らにかかると進路相談は、偏差値の適/不適の組み合わせに過ぎないものになってしまう。特定の熱狂的ファンを持つことが多く(多くは自分の能力を評価してくれていると感じる生徒や保護者である)、職員室ではご意見番だったりする。
担任よりも、主任や行政、管理職を好む傾向が強い。
・人に興味がない。「観る」ことを知らない。
少数だが、教員にもこういう人はいる。とても残念なのは、教員としてのキャリアを生かした異業種への転職システムが確立していないことだ。教員を何年か経験すると、自分が教員向きの人間か否かは自然に理解される。それはそれでいいではないか。他に、その人にぴったりの仕事は必ずあるはずなのだから。教員になって10年目くらいから、とても上手に手を抜くようになってくる。20年を待たずして、教科指導の研究や生徒理解への情熱は全く持たない。もちろん、それはひたすら隠されるが、隠しきれはしない。唯一、転勤や人間関係、昇進に希望を持つ。
それでも教員なので、何かしらのことに一生懸命に振る舞うが、それが効果的に働かなかったり、自分でもそれを楽しんでいるようには見えない。仕事を楽しめない教員にとって、この仕事は辛いのだ。
…… 思いつきに始まった粗っぽい分類ではあるが、それほど的外れではないように思う。ここから導かれるいくつかの問題点と今後の課題と願いを示して、今日のこのグダグダの論もおしまいにしよう。
・「観ること」の重要性を認識し、それを言語化・普遍化できれば、「観ること」を学び、身につけるシステムが構築されうるかもしれない。
・「観ること」ができることが、教員の必須条件ではない。「観ること」はさまざまな教員の仕事の一部に過ぎない。ただ、現場では有効に機能することもあるのだが、軽視されがちである。
・「観ること」の重要性への共通認識が生まれたら、それだけで救われるスタッフ・キャストは多数いる気がする。
・しかし、「観ること」の権威化・権力化は、決して行ってはならない。これは能力ではあっても個性に属すものであり、価値化されるものではない。
・「観ることマイスター」がチームに一人いると、なかなか便利である。
・教員からの異業種への転職システムは、積極的に構築されたい。「向いていない」人は能力がないのではなく、能力のベクトルがわずかに違うだけ。その能力を欲しがる異業種は必ずあるはずだ。
…… みたいな感じかなぁ。
こんなに長くなってしまい、申し訳ありません。
以上の文章は、すべてコロナ下の熱狂(発熱)にうかされたものであり、個人的な妄想と幻想(ずっと寝てたしね)をベースに書かれました。文責はコロナとtetsuにあります。話半分で読んでいただけたら、幸いです。
おかげさまでコロナは、ぼくの貴重な体重3キロと、通院代+薬代=3万円とともに消えました。今さらながら、コロナこわい。いろいろコワすぎると思う週末の始まりです。ぼくは、体力回復に努めます。
インフルエンザ・コロナ・風邪・溶連菌・アデノ(って何?)・マイコプラズマ等々が流行しているという知らせをもらいました。
みなさま方も、くれぐれもご注意くださいませ。元気が何より一番です!!
「観る」ことについて、おかわりはこちら。
