フェンネルは、味を足さない。NHK文化センターで話したスパイスの話
フェンネルは、味を足さない。
――NHK文化センターで話したスパイスの話
NHK文化センターで「食卓に普段使いのスパイスを」という講座をしました。スパイスの話をして、フェンネルを紹介して、最後に調味料をひとつ作る。よくある講座構成と言えば、そうなのですがひとつだけ今もはっきり覚えている場面があります。それは参加者みんなで黙って味見をした時間です。録音も録画も残っていませんがなぜか記憶に残っています。
スパイスには「味」がない
スパイス(spice)という言葉はラテン語の species、「特別な種類」という意味から来ています。インドやネパールではスパイスのことを「マサラ」と呼びます。ここまではどこかで聞いたことのある話かもしれません。でも講座でいちばん伝えたかったのはこの一言でした。
スパイスには、味がない。
甘い香りはする。辛く感じることもある。けれど塩や砂糖のように料理の方向を決めてしまう「味」ではありません。だからスパイスは料理を支配しない。素材や調味料のあいだを取り持つように香りで全体をまとめる存在です。
フェンネルという、やさしい香り
その日、最初に紹介したスパイスはフェンネルでした。甘くて、少し涼やかで、どこか懐かしい香り。アニスや八角に近いけれど、
それよりも軽く、柔らかい。
フェンネルは地中海原産の植物で、古代ギリシャでは「マラトロン」と呼ばれていました。フェンネルが多く生えていた土地は「マラトン」。
そこで起きた戦いの勝利を兵士がアテネまで走って伝えた。それがマラソンという競技の語源になったと言われています。
スパイスは料理の世界だけにあるものではありません。歴史や文化の中に、静かに根を張っています。
日本でも、昔からそこにあった
フェンネルは日本では「呉の母(くれのおも)」と呼ばれていました。平安時代の薬物辞典『本草和名』にも記され、和歌にも詠まれています。
つまりフェンネルは最近になって突然入ってきたスパイスではない。ただ現代の日本の食卓ではほとんど姿を見かけなくなりました。
「スパイスは難しい」と感じる理由のひとつは、この距離感にあるのかもしれません。
なぜ、フェンネルだったのか
フェンネルは味を足さないスパイスです。甘い香りはするけれど、料理の輪郭を塗り替えない。だからこそ日本の料理とも衝突しにくい。
今日の講座ではこのフェンネルを使って、実際にひとつ、調味料を作りました。
三升漬にフェンネルを入れたら、スパイスが少し分かった
講座の後半で実際に調味料を作りました。北海道や東北の郷土料理、三升漬です。
醤油、麹、唐辛子。
それを同量で合わせた、とても日本的な保存食。ご飯にのせてもいいし、豆腐や魚、肉にも合う。「味が完成している調味料」と言ってもいい存在です。
なぜ、三升漬にフェンネルなのか
ここで、前半の話を思い出してもらいました。フェンネルは、味を足さないスパイス。香りで、後味や輪郭を整える存在です。
三升漬は、うま味も塩味も強い。
だからこそ、そこにフェンネルを入れると「味を足さずに、印象だけが変わる」その変化を体験してもらいたかった。
実際に作ってみる
作り方は、とても簡単です。フェンネルを軽く潰して、いつもの三升漬に混ぜる。それだけ。
分量は、「香るか、香らないかの境目」
入れすぎると一気に外国になります。
味は変わらない。でも、世界が変わる
みんなでその三升漬を味見しました。不思議なことに、味は変わっていません。醤油の塩味も、麹のうま味も、唐辛子の辛さも、そのまま。
でも、後味だけが少し軽い。香りがふっと上に抜ける。たぶん「フェンネルの味がする」とは、誰も思わなかったはずです。
でも無いと少し物足りない。それが、スパイスの使い方です。
スパイスは「会話」だと思う
三升漬にフェンネルを入れることは、何かを改良したかったわけではありません。日本の発酵文化と、スパイスの香りを、同じ場所に置いてみただけです。
スパイスは主張しすぎると、すぐに浮いてしまう。
でもうまく距離を取ると、料理の輪郭が、少しだけはっきりする。
スパイスは主役ではなく、会話のきっかけのようなものだと思っています。
家に、使い切れないスパイスはありますか
講座の最後にアンケートを取りました。
「家にあって、使い道のないスパイスはありますか?」
多くの人がうなずいていました。
でももしかしたら、使い道がないのではなく、使いどころがまだ見つかっていないだけなのかもしれません。フェンネル三升漬は、そのことを教えてくれました。
おわりに
スパイスは何かを足すためのものではなく、料理の中に風の通り道を作るもの。もし家にしばらく触っていないスパイスがあったら、
味を足そうとせず、香りを置いてみてください。きっと思っていたより、静かに応えてくれるはずです。
この文章は、NHK文化センターで行った
「食卓に普段使いのスパイスを」という講座をもとに書いています。
「スパイスを覚える」よりも「スパイスが分かる瞬間」を大切にしたい。
次は別のスパイスや日本酒との関係についても書いてみようと思います。
よければ、続きを読んでください。
