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LanLanRu音楽紀行|カンタータ《栄光の瞬間》

べートーヴェン作曲

舞台:1814年 /  オーストリア

カンタータ《栄光の瞬間》Op.136
クラシック音楽は好きな方だけれど、馴染みのない曲もまだまだ多い。このべートーヴェンのカンタータもその一つ。
今までまったく知らなかったけれども、この曲、ベートーヴェンが1814年のウィーン会議の時に書いた作品なのだそうだ。そうと知れば、がぜん興味も湧いてきて、いったいどんな曲だろうと、聞いてみたくなったりもする。

それにしても、ベートーヴェンがウィーン会議の曲を作っていたとは。
たしかにウィーンで活躍していたベートーヴェンがウィーン会議の曲を作っていたとて不思議はないけれど…。ウィーン会議といえばその時代のひとつの転換点ともいえる出来事。それをベートーヴェンが祝して作曲しているとなれば、この曲だって歴史文脈上、もう少し知られていても良いような気がする…!
ともあれ、この曲のあることを知って、改めてつくづくと感じたのは、ベートーヴェンがこの激動の時代の中で、生きて活躍をしていた音楽家だということだ。

ナポレオン戦争の時代を生き、ナポレオンに失望したベートーヴェン

この頃のヨーロッパに生きた人は、大なり小なり、皆なにかしらナポレオンの影響を受けている。ベートーヴェンについては、ナポレオンがフランス皇帝に即位した時に大激怒して、ナポレオンに捧げるつもりだった《交響曲第三番》の献辞を書いていた表紙をびりびりと引き裂き、燃え盛る暖炉にくべてしまった…!というエピソードがよく知られているところ。
ベートーヴェンとしては、フランス革命の混乱のなかで一兵卒から身を起こし、革命精神の体現者として登場したナポレオンの姿に心酔していたのに、その期待を裏切られて、たいそう失望したのだと伝えられているのだけれど、そのうえ、皇帝となったナポレオンは、革命の”自由・平等”という精神を守り広める、という建前で、フランス周辺のヨーロッパ各国へと侵略戦争を繰り返したので、たまったものではない。
ベートーヴェンが暮らしていたウィーンもナポレオン率いるフランス軍に、1805年と1809年の2度にわたって占領されてしまったので、戦火や砲撃音の中、ベートーヴェンは弟の家の地下室に逃げ込んで、枕で頭をおおって、大音響で炸裂する砲撃音からひたすら耳を守らなければならなかったというし、それにナポレオンのせいで、ベートーヴェンは経済的にも大打撃を受けていたのだった。支援を受けていたウィーン貴族たちは国外に逃げてしまったうえに、フランス軍に占領された後、ウィーンの物価は戦争前の何倍にもはね上がり、食糧も不足がちだったということだ。ナポレオンなど実生活においてはしごく迷惑な存在だったに違いない。

だから、ナポレオンがついにフランスに対して同盟を結んだ同盟国軍に敗れて、退位させられてエルバ島に流されてしまうと、ベートーヴェンはじめ、ヨーロッパ諸国民はやっと平和が戻ってきたと胸を撫で下ろす心境になったのではあるまいか。
そして、そんな祝杯ムードの中で開かれたのがウィーン会議なのであった。

ウィーン会議によって大喝采を受けたベートーヴェン

「ウィーン会議」はその名前のごとく、ウィーンで、1814-1815年にかけて開かれた国際会議だ。その目的はナポレオン後のヨーロッパの国際秩序をどうするか話し合うこと。オーストリア宰相のメッテルニヒを議長に、全ヨーロッパ中の君主や外交官が、その召使や秘書たちを連れてウィーンにぞろぞろ集まってきたので、もうウィーンの街はお祭り騒ぎだ。

そしてこの頃ウィーンにいた、ベートーヴェンはじめ音楽家たちもしっかりこのお祭り騒ぎに巻き込まれていたのだった。
その頃のベートーヴェンといったら、もう40代も半ば。スランプに入って作曲がはかどらなくなってきていたけれど、《交響曲第三番「英雄」》《交響曲第五番「運命」》《交響曲第六番「田園」》など数々の名曲を世に出しており、既にウィーンの音楽界では大人気の音楽家になっていた。

それでおそらくメッテルニヒに近いとこからの要請もあったのだろう。ベートーヴェンはウィーン会議に関連した音楽をいくつか書いている。
例えばウィーン会議開催の9月初旬にベートーヴェンが書き上げた《同盟君主に寄せる合唱》WoO95。これはカール・ベルナルトの詩による華やかな合唱曲。
それに、9月22日にヴュルテンブルク王、9月23日にデンマーク王、9月25日にロシア皇帝とプロイセン王が相次いで到着すると、26日に歓迎音楽会が行われたが、ここでもベートーヴェン作のオペラ《フィデリオ》が上演されて、熱狂的喝采を受けたのだった。

そしてその後、10月から11月半ば頃まで取り組んだ大作が、今回取り上げるカンタータ《栄光の瞬間》Op.136である。

カンタータ《栄光の瞬間》Op.136

これは完全にウィーン会議のために作曲された曲だ。帝室王室顧問官でザルツブルク聖ヨハネ病院外科医長という要職にありながら詩人、劇作家というアロイス・ヴァイセンバッハが9月にザルツブルクからやってきて、ウィーン会議開催後から当地で書き上げた詩にベートーヴェンが作曲したものなのだが、全6曲からなるとても規模の大きな、壮大な作品で、ウィーンの女神ヴィエンナ、女預言者、民衆の指導者、守護神の四人と合唱というオラトリオ風の構成になっている。
第3曲「レチタティーヴォと合唱付きアリア」では、ヴィエンナがレチタティーヴォで会議に列席した各王を賛美する。「雲の腰掛に足を置く英雄」でロシア皇帝アレクサンドル1世を、「シュプレー川の堤に佇む支配者」でプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世を、「遠きぺルト海峡の王」でデンマーク=ノルウェー国王のフリードリヒ6世を。「力と善意の象徴であるヴィッテルスバッハ家の主」でバイエルンのマキシミリアン1世を謳い、最後に「冠を戴くもの」でハプスブルク家オーストリア皇帝フランツ1世を謳って「バーベンベルクの力をふるい、ドイツに楽園を築く」と締めくくる。
このカンタータは、11月29日に宮廷大舞踏会場レドゥーテンザールにおける、ベートーヴェン主催の大アカデミーで初演されて大成功。交響曲第7番と《ウェリントンの勝利》の演奏と共に発表されると、各国の君主を含む満員の会場は熱狂の渦となったのだった。

さいごに

この曲、実際聞いてもみたのだけれど、やっぱり素人耳には難しい。ベートーヴェンなら誰もが知っている、「運命」だとか、「第九」だとかのように、個性的で覚えやすい、キャッチーなメロディーで構成されているのでもなく、歌の内容にしても、ロシア皇帝アレクサンドル1世やプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世、デンマーク=ノルウェー国王のフリードリヒ6世やバイエルンのマキシミリアン1世を讃えているとなれば、讃えられている本人たちは嬉しかろうが、なかなか他に演奏の機会も見つけ辛いというものだろう。これはやはりウィーン会議の最中でこそ、演奏されて意味のある音楽だったのだ。

そんなわけで、今ではあまり知名度のある曲ではないというのも納得なのだが、ウィーン会議中、ベートーヴェンの名声をさらに高めるには大いに役に立ったことだろう。その他《ウェリントンの勝利》の成功などもあり、会議のためにウィーンを訪れた各国の王侯貴族たちはこぞってベートーヴェンに会いたがったので、ベートーヴェンは一躍大スターになったのであった。もっとも、この人気は一時的なもので、会議が終わるとベートーヴェンの人気も次第に元にもどっていったのだが、ウィーン会議中の人気のおかげで一時は危うくなっていた年金問題もうまく片付き、毎年一定額の年金を手にいれることができるようになったというので、ベートーヴェンとしては大成功のウィーン会議なのであった。

■ ウィーン会議の関連作品

・「会議は踊る」(1931年、ドイツ映画)
・《同盟君主に寄せる合唱》WoO95(1914年、ベートーヴェン)


〈参考文献〉
・ひの まどか『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 ベートーヴェン』
(株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス出版部,2019)
・平野 昭『ベートーヴェン (作曲家・人と作品シリーズ)』
(音楽之友社,2012)


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