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LanLanRu映画紀行| 会議は踊る(後編)

舞台:1814-1815年 / オーストリア・ロシア・フランス

「会議は踊る」/ エリック・シャレル監督作品
1931年、トーキー初期のドイツ映画だ。ナポレオン失脚後、1814-1815年にかけて開催されたウィーン会議を舞台に、ロシア皇帝・アレクサンドル1世とウィーンの街娘とのつかの間の恋を描いた、楽しいオペレッタ映画である。映画の中で歌われている「新しい酒の歌」と「唯一度だけ」は今も世界中で愛されている、馴染み深い名曲。
なお、ロシア皇帝を演じたのはヴィリー・フリッチ、ロシア皇帝に恋する手袋屋の娘クリステルはリリアン・ハーヴェイが演じている。

なんだか全体的に浮かれ気分、お祭り気分の、それは楽しいオペレッタ映画だ。ナポレオン失脚後、ウィーン会議に参加するために、はるばるロシアからやってきた皇帝アレキサンダーとウィーンの町娘クリステルのつかの間の恋のお話。
映画のことはだいたい記事前編で書いているのだけれど、ウィーン会議といえばもうひとり、タレーランという人のことを書いておきたい気がしている。

記事前編はこちら >>>
LanLanRu映画紀行|会議は踊る(前編)

タレーランが大活躍! 1814-1815年のウィーン会議とは

タレーランはフランスの外交官だ。ウィーン会議にはフランス代表として参加したのだけれど、この時の活躍ぶりがすごかった…!だがタレーランがどれだけの偉業を成し遂げたのか語るためには、まずはウィーン会議のなんたるかを説明しなければならないだろう。
ウィーン会議というのは、1814 - 1815年にかけて開かれた、ナポレオン失脚後のヨーロッパ秩序回復のための国際会議だ。
そもそもの話はナポレオンに遡るのだが、フランス革命の混乱の中、天才的な軍略と政治的手腕で頭角をあらわしたナポレオンは、フランス革命の「自由・平等」という理念を広めるためという名目で侵略戦争を繰り返し、ヨーロッパ中を席巻。一時はフランス帝国の皇帝にまで上り詰めて、ヨーロッパ大陸のほとんどを支配下においた。しかし、1812年のロシア遠征、次いでライプツィヒの戦いなどで、プロイセン、ロシア、オーストリア、スウェーデン等の連合軍に壊滅的な敗北をしたことをきっかけにエルバ島へと流されてしまう。

そのナポレオン失脚後、ヨーロッパの秩序回復のために開かれたのがウィーン会議だ。
議長はオーストリアの外相メッテルニヒ。その他参加者は、オーストリア皇帝フランツ1世とロシア皇帝のアレクサンドル1世、イギリス代表カースルレー、ウェリントン、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世と代表ハルデンベルクなどなど…!
もう錚々たる面々だ。普段なら決して直接顔を会わすことのないような大物たちが、この時ウィーンに一堂に会したのである。

「正統主義」を主張してフランスを救ったタレーラン

そして、この会議にフランス代表として参加していたのが、外交官のタレーランなのだった。
考えてみるといい。ヨーロッパ各国の代表が集まる国際会議。参加者はロシア皇帝やプロイセン王、オーストリア皇帝にイギリス代表と、ついこの間まで、対仏大同盟を結んでフランスと戦っていた相手ばかり。そして、かれらにナポレオン率いるフランスは大負けに負けたばかりなのだ。
ただ一国だけ敗戦国のフランス代表のタレーランなど、どんなに肩身の狭いことか。しかも、各国虎視眈々、自国の領土を拡大しようと鵜の目鷹の目狙っている。

ところが・・・!この人は外交の天才だ。
大惨敗してすっかり敗戦国になってしまったフランスの代表でありながら、タレーランはフランス革命前の状態こそが「正統」な秩序であるという「正統主義」を主張した。つまり、1789年以前、フランス革命とナポレオン戦争が始まる前の状態にヨーロッパを戻そうというのだ。
ずるいといえばものすごいずるい。なぜって、タレーランは「正統主義」によって、フランスの戦争責任をなかったことにしてしまおうとしたのだ。
たしかにフランスはヨーロッパ諸国に侵略戦争を行ったけれど、悪いのはフランスではなく、革命と、その革命の思想を広めようとしたナポレオン。なんなら、フランスだって彼らによって混乱に巻き込まれた被害国である!
と、そんなふうに、タレーランは堂々責任転嫁して、被害者側にまわってしまったのだ。
なんという論理展開・・・!なんという屁理屈・・・!
だが、何より革命を恐れたヨーロッパの君主たちには、案外この理論がしっくりきたのかもしれない。結局タレーランは、戦勝国同士の利害対立の隙を巧みに突いて、フランスの領土を守り、賠償金を払うこともなく、大国の地位を保つことに成功。ナポレオンによって窮地に陥ったフランスを、見事外交の力で救ってみせたのであった。

美食家だったタレーランの饗宴作戦

さて、そんなタレーラン、1914年のウィーン会議で、フランスの権利を守るのに必要なものを尋ねられた時、一言こう答えたという。
「もっとキャセロールを」。
実は、タレーランといえば、美食家としても有名だ。食にかける情熱はかなりのもので、政治や外交にも大いにその力を利用したものだった。

ちなみに、当時タレーランが重用していたのは、アントナン・カレームというシェフであるが、この人がまた当代随一の、もう天才的な料理人なのであった。
アントナン・カレームの名前は、フランス料理に少しでも詳しい人だったら知らぬ者はいないだろう。フランス料理の基礎を築いた、カリスマシェフの先駆けとも言えるような人だ。
私たちが知る、いわゆる典型的なフランス料理のイメージというのは、実はカレームによって作られた部分がけっこうある。例えば、フランス料理のシェフが昔よくかぶっていた、シェフ帽。あの帽子を考案したのもカレームであるし、なんといってもフランス料理の肝といったらソースなのだが、その多種多様のソースを大きく4種に分類して体系化したのもカレームだ。
それにフランス料理といえば、アミューズ、オードブル、スープ、メインディッシュと、一皿ずつ順番に運ばれてくるのが本式だけれど、このサービス方法もやはりカレームが推奨したものだった。もともとのフランス式サービスというのは料理を一度に並べて提供するもので、今のような、一皿ずつ順番に運んでくるのはロシア式なのだそうだ。これだと料理を温かいまま提供することができる。
もともとパティシエの助手から身を起こしたとあって、得意なのはフランス建築を参考にした壮麗なピエス・モンテ(糸状のあめやアーモンドペーストを使った装飾菓子)。ナポレオンのウェディングケーキを作ったこともあったし、他にも数々の式典料理や晩餐会の料理を取り仕切った有能なオーガナイザーでもあった。
だが何より、彼の名を高めたのは、彼が執筆した料理本の数々だろう。『パリの宮廷菓子職人』『フランスの給仕長』『19世紀のフランス料理術』 などなど。著作によって、料理文化の普及にも貢献したが、「フランス料理」というものを体系化し、芸術の域にまで高めたのは、まさにカレームの功績だった。

持ちつ持たれつだった タレーランとアントナン・カレーム

だが、そんなカレームもタレーランと出会うことがなければ、ここまでの名声を得ることはできなかったに違いない。
カレームのパトロンとなり、活躍の場を与えたタレーランだったが、彼はまた、厳しい課題を出してカレームの料理の世界を広げたプロデューサーでもあった。そのひとつは、なんと1年365日、毎日違うメニューを作れというもの。それも、宗教行事という1年の決まり事を守ったうえで、フランスの四季折々の食材を上手に取り入れて利用しなければならないというのだ。これにはカレームもだいぶん試行錯誤させられたらしい。なお、カレームの創作した四季折々の見事なメニューは、1822年に出版された『フランスの給仕長』に収められている。
こんな具合に、単なる雇い主と料理人の関係を超えて、美食の道を追求していたタレーランとカレームであったが、カレームにとって更に幸運だったのは、タレーランが政治の中心にいたことである。早々にナポレオンに見切りをつけていたタレーランは、1814年のナポレオン退位直前、パリに入城してきたロシア皇帝のアレクサンドル1世に自邸を提供しており、そのおかげでタレーラン邸はナポレオン後のヨーロッパ政治の中心地となったのだった。

そしてそのタレーラン邸で主催された夕食会。カレームの料理は出席者の評判をさらい、タレーランの饗宴作戦は大成功…!敗戦国でありながら外交交渉を有利に進めることができた、タレーランの成功の裏には、実はカレームの料理の力もあったのだった。
だが、タレーラン以上に、カレームとフランス料理にとって、これは大きな躍進であった。
当時まだフランス料理というのは、そんなに国際的な評価が高くなかったのだけれど、ウィーン会議が終わった頃には、その素晴らしさがヨーロッパ中に知れ渡り、また、同時に料理人・カレームの名も、世界的な名声を得ることになったのだった。カレームはこの会議の後、ヨーロッパのセレブリティから引く手あまたとなり、イギリスのジョージ4世、ロシアのアレクサンドル1世、ウィーンのフランツ1世、それにロスチャイルド家など、名だたる権力者に仕え「帝王のシェフ」として知られることになる。そして、カレームが築き上げたフランス料理は、その後「近代フランス料理の父」と呼ばれるオーギュストエスコフィエによって、形を変えながら受け継がれて、今なお世界中の厨房へと、影響を与え続けているのである。ちなみに日本も大いにその影響を受けている。「天皇の料理番」として知られる秋山 徳蔵も、フランス留学中にエスコフィエのもとで働いていたことがあり、帰国後、その経験をもとに、宮内省で主厨長を務め、腕を振るったのであった。

さいごに

と、長くなったが、とにかくそんなわけで、ナポレオン戦争には負けたけれど、外交によって勝ち、料理では世界を征服した…というのが、ウィーン会議の頃のフランスなのであった。だがそれもこれもタレーランの力量があってこそ。タレーランなくば今のフランスも、フランス料理もなかっただろうと考えると、タレーランほどフランスに貢献した人もいないと思うのだけれど、その割には知られていないような気がするのは残念だ。それで今回は、「会議は踊る」の映画に事よせて、タレーランのことを書いてみたのだった。


〈参考文献〉
・『宮廷料理人アントナン・カレーム』(ランダムハウス講談社, 2005)
  イアン・ケリー 著 、村上 彩 訳



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