シロクマ文芸部|午後のノックへ耳をすます
文庫本が居間の本棚にぎっしり並んでいる。
本棚だけでそのひとの人生が想像できるというけれど、あながち間違いではないと思う。
三〇年間、この部屋で夫と本を読んできた。私は庭の見える窓際のスツールに座って。彼はビロード張りのソファの肘掛けに頭を置いて足を投げ出した姿勢で。
うつろう季節を過ごした居間には、ページをめくる乾いた音と空白のソファのくぼみが残されている。
ふたりで読書に集中しているとき、夫がどんな状態かはすぐにわかった。
彼が気が散っていると周囲の空気がざわつき、没頭している場合は気配そのものが消えて躰がそこにあるのにいないようだった。
同じ場所にいながら相手が不在になっていく感覚は嫌いではなかった。それぞれの世界をゆっくり彷徨いながら、気持ちを互いに寄せたり離したりしているうちに眠りにつくこともあった。
夫は美術商で海外出張が多く、私もよく同行した。
北欧の小さなギャラリーを巡り、大道芸人が火を吹く旧市街で商談し、クリスマスの特設ステージで歌われる子どもたちのゴスペルを聴きながら額装を考えた。パーティーでは慣れない社交でくたくたになったけれど、ホテルに戻れば静かに互いの本を開くといつものふたりに戻れた。
ウィーンでは甘すぎるケーキの匂いに包まれて推理小説を読み、スペインの路地で買ったオレンジで指を濡らしながら冒険譚に夢中になった。
旅から戻り、スパイスや草の匂いのするスーツケースの中から角が丸まった文庫本がどさっと出てくると安堵したものだ。
夫は旅先を物語るようなヒロイックなことはせず、帰ってくると再び小説の世界を行き来するそれぞれの時間が流れた。
それは他人から見れば無意味な時間なのだろうけれど。
晩年になって夫は筋肉が少しずつ萎縮していく難病を患った。
治療法はなく、進行を遅らせることしかできなかった。
それでもこの部屋で読書を続けたのは、彼がいつものようにソファで寝そべりたいと望んだから。
看病はソファですることにした。
以前と変わらない時間が流れているようで確実に違っていたのは、呼吸音が前よりもはっきり聞こえるようになったことだった。ページをめくりながら、意識の端で彼の動静を伺ううちに、これまでにはなかったほど周りの気配に敏感になっていた。
夫の呼吸が大きくなったり小さくなったりするたびに、肉体の輪郭が濃くなったり薄くなったりした。息を長く引き出すとそろそろ眠りに落ちる合図で、目覚めるときはまぶたの瞬く音でわかった。
生きていることの重さが剥き出しのまま部屋に満ちていた。
迫ってくる死に押し上げられるように露わになったいのちは、余計なものが削がれ、存在の芯が際立っていった。その変化を間近で見ていることに私は静かな感動を覚えていた。三〇年も一緒にいた彼の核にやっと触れられた気がしたのだ。
初夏の光が降りそそぎ、緑が窓に透けるある日の午後、ページの余白に夫の筆致を見つけた。
〈本からノックの音が聞こえた。きっと自分が自分を叩く音だ。
ノックが聞こえる限り、いのちは続くのだろう。〉
彼らしい言葉だと思った。
死を遠ざけず、どんな状況にも騒がない人だった。生きていればそれで良い、死ねばそれも悪くない──そんなふうにも言っていた。
これといって目立つところのない、和紙のように静かな人が残したメモは、退屈とも感じてしまう彼の人生の欠片だ。
余白に散らばった言葉を集めているうちに月日が流れた。
夫はつくづく美術とは無縁の人間だったと思う。
いかに自分が他の人間と違うかとか、実体のない才能やセンスのようなもので世の中にアピールしてアイデンティティーを満足させるといった芸術畑にありがちな歪んだ自意識のようなものが彼には全くなかった。
ふしぎなことだ。生きているときは死んだときのことを想像させ、死んだ後は生きているときのことを生々しく感じさせるなんて。
窓辺のスツールから立ち上がり、いつものように文庫本を一冊選んでページをめくった。欄外に小さなメモを見つけ手を止めた。
〈誰だって自分の生命の終わりを知っている。
知っていてもどうすることもできないでいる。
自分の生命について平等に、徹底的に、無力なのだ。〉
この頃すでに自分の病状に気づいていたのだろうか。
無力、という言葉にリアリティを感じて胸がつまる。
ページを閉じて棚に戻そうとした途端、紙の切れ端がするりと床に落ちた。
〈Cherish what has no name. 名付けようのないものを慈しむこと 〉
自分の呼吸が大きく聞こえ、鼓動が背表紙に伝わり、わずかにページを震えさせた。
胸の奥でもつれていたものが解けていくのがわかった。
私は勘違いをしていたのかもしれない。
人生は書き残したメモではなく、最初から最後まで、全部が切れ切れのメモだったのかもしれない。
数え切れないくらいたくさんの小さな瞬間の寄せ集め──うんざりするほど同じことの繰り返しなのに、どれひとつとして同じものはなく、それをもっと意味のあるものに変換したり価値ある誰かの人生と引き換えることもできない。
彼との名もなき時間は、そこに特別な意味も価値もないからこそ、奇跡のようにうつくしかった。
まさに、夫がずっと歩んできた無意味であることが純粋なアートではなかったのか。
夫がいた場所を正確になぞって擦り切れたソファに視線を向ける。
息をひそめ、ノックの音を逃さないよう耳をすます。
恋人たちが別れを少しでも引き延ばすためにまわり道を選ぶように、私は最後のページをゆっくりと開く。
(了)
本にまつわる小説や書くことについての物語はコチラです✨
いいなと思ったら応援しよう!
応援ありがとうございます✨ ZINE制作や創作活動に使わせていただきます✨