掌編 レコードのある部屋または白昼夢
頭に浮かんだ言葉をキーボードで打ち、それに続く言葉を探してまたキーを打つ。打ったり消したりを繰り返すうちにここだという手ごたえがやってくる。そのタイミングが来たら浮かんでくる言葉が手の動きを誘導する流れについてゆく。わたしの朝のルーティン。
そうやってたどり着いた物語の世界は未知のフィクションで、年代も国も脈略なく入れ替わる。導かれるままそこへ潜ってゆく。
なにしろ執筆をしているわたし自身、一体どうしてこんなイメージが湧いてくるのだろうと戸惑うことも多くて、仮にそこへたどり着いたからといって納得のいくものが書けるかわからない。でもなぜか止められない。ある種の性癖なんだとあきらめている。
今朝もいつものごとくMacの前で目を閉じている。やがてイメージのドアが開く。
まぶたの裏に西陽が揺らいでいる。部屋には古めかレいレコードプレーヤーがあり、埃がつかないようモロッコ柄の布がかけられていて、その下の棚にはボリス・ヴィアンの作品集が並んでいる。床にはチェスの駒が散乱しているのに、プレイヤーが置かれているところだけは神棚か何かのように乱れがなく、清らかに見える。
白昼夢はいつもそんなふうにはじまり、ストーリーの中にいきなり放り込まれ、途中から見始めた映画のように前後関係を無視しているにもかかわらず、そのことをおかしいとも感じずに素直に受け入れたわたしが与えられた役目になっている。
わかりやすいストーリードリブンも皆無。難しく考えずにただ微睡みの彼方に流れてゆく。
小さなアパルトマンの部屋に置かれたレコードプレーヤーのそばには男がいる。彼は音楽好きで、機嫌の良い時は音楽について滔々と語ってくれる。静かな音響は完全に無視し、ロックと激しめのジャズしか聞かない。
どうして? と訊くと、心が暴れてしょうがないんだと答えた。そういうものなんだと言うだけで説明をしてくれない。
それなのに、繊細なダイヤモンドの針を置くときの彼は神事に及んでいるような厳粛さを感じさせ、わたしは男の指がこんなにも美しく動くのだという事実を知らされる。
華奢と言ってもいいほど細い指が動き出すと、触れたものを惑わせ、屈状させるような妖しい空気を放つ。
やがてツッとかすれた音がしてレコードが鳴り出す。部屋に漂っていた緊張の糸がほどける。
わたしはその瞬間がいちばんよく見える位置を懸命に探し、針が円盤に落とされるときの感覚を味わっている。それは時間や天気や彼の服の色合いでその席は微妙にずれ、ぴったりの場所を見つけると嬉しくなり、何度もその瞬間を求めてしまうほど官能的だ。
針はわたしを愛撫しながら躰の中をまっすぐに落ちていく。
「Nirvanaのライブだよ」と男が言い、地響きのような旋律が爆音で流れだした途端、そこが昔住んでいたハドソン川沿いのアパルトマンだったと気づいてわたしは息をのむ。
脈略のない白昼夢のはずなのに、急にリアルな過去が混じりあう。
そうやって脳内のイメージ映像をじっと眺めていると、淡い色調の精密画の中に紛れこんでしまった錯覚がするのが常だ。それは一定したタッチでくまなく筆が入り、緻密度は高いものの奥行きはない。印象派の絵のように。
たしかにあの頃わたしはイーストサイド三四丁目の小さな部屋で男と暮らしていた。ふたりは若く貧しく愚かだった。西陽しか当たらない窓からエンパイアーステートビルが望めることが唯一の慰めだった。
男はやさしいけれどいつもエネルギーが散漫しているように見えた。
完全にドロップアウトする勇気もなく生存競争に翻弄された彼の不器用さがわたしには故郷のように懐かしくて、一緒になって慈しんでいたのだと想う。つまり歪んだ自己愛。
ふたりでいると自分がゆるゆると消えて相手と一体になり、あらゆる境界線のバリアが溶けていく快感があった。だから「手放したくない」と勘違いしてしまっていたのだろう。
夕方になると男は、レコードの棚を丹念に調べた後、針を落とした。
レコードをかけるのは機嫌の良い証拠だった。選出は慎重だ。誤ると、せっかくの気分が壊れてしまうとばかりに神経質にレコードを出したり引っ込めたりしていた。
「もし世界がふたりだけだったとしたら……」
彼は灰色の瞳でじっとわたしを見た。
青い目に比べて灰色の瞳はクールに映るのはなぜだろう。青い目を海だとすれば、男は山間にふと現れ雲の動きによって微妙に色を変える小さな湖を想わせた。
わたしはその色を見てせつなくなった。目の前にあるものではなく、閉じた裏まぶたに映し出される都合のいい幻を追っている表情にしか見えなかった。そこにわたしの姿は映っていないのだ。
彼の幻想に誘い込まれ、一緒に耽っているうちはわたしも幸せを感じていたのだから悪い思い出ばかりじゃない。世界を変えてやろうぜと青臭い発想ができたのも、若さゆえの勘違いだと今ならわかるのだけど。
──針が落ちただけよ、とあの頃のわたしが耳打ちして、ようやくこちら側に戻ってきた。
白昼夢から覚めるとわたしは躰の芯が熱くなった。
Mac画面にまっさらなページを立ち上げ、浮かんでくる物語りが動き出すのを察知した瞬間スイッチが入ったようにキーボードを打ち続けた。
(了)
短い物語りとエッセイを書いています。お時間ある時にぜひ✨
いいなと思ったら応援しよう!
応援ありがとうございます✨ ZINE制作や創作活動に使わせていただきます✨