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掌編    蜜たちへ

目が覚めた瞬間、天井がダサくてムカついた。
ビニール製の壁紙に中途半端なアートがいかにも六本木のホテルだ。ベッドの端でぐっすり眠る男の背中が大きく波打っている。

記憶はある。昨夜の打ち合わせの帰り、深夜に女ひとりでも入りやすいと噂のバーでやけに歯並びのいい男に声をかけられた。

「キミって、どこかでモデルやってなかった?」
古典かよと思ったけど、笑ってみせた。

「え。やってないですよ、広告の仕事です」
「やっぱり、感度高そうだと思った」

あんたの感度はその口の端っこで止まってるな、と思いながらハイボールを一気に飲み干した。どこかのスタートアップの代表らしくて、見た目も清潔感があってちょうどいい硬さの背中。

帰るタイミングを失ったふりをして男についてきた。男はシャワーを浴びたあとフランス映画の小難しい話をしていたけど、わたしは脱ぎかけたストッキングの内側がぜんぶどうでもよくなっていた。右耳を噛まれ、滑らかな内腿を褒められて、髪をほどいたときの匂いが好きだと言われた。

わたしの躰はときどき誰かに確認してもらわないと、どこまでが自分なのかわからなくなる。
腹の上を這う指、腰骨を押さえる手、その下のくぼみに埋まる舌、それら全部が他人のはずなのに自分の感触よりずっとリアリティを感じながら自分の輪郭を確かめると、やっと落ち着く。

つけっぱなしのテレビが回復の兆しと言ってるけれど、兆しというのはたいてい不安の裏返しで、誰も信じてない。信じてないとわかっていて話すキャスターの声が妙に深刻で、昨日まで穏やかだった国が今朝めちゃくちゃになってしまった理由は言わなくてもいいらしい。
わたしは落ちている下着をモゾモゾと身につけながら、いったい何をしているんだろうと昨日の残りのポカリを口に含んだ。

制服のかわいい女子校を出て名前だけは知ってる大学に入り、めでたく就職してアラサー女子として個人的意見は持ちつつマウントを避け、上司の無茶振りにも「なるほどですね」と共感じみた逃げも上手くなった。

あなたはもっとやれる、力を出し惜しみしちゃだめよ。そうイキがっていた先輩は今どうしているのだろう。惜しんでいるつもりはなくて、ただそんなことにエネルギーをかけたくなかっただけなのに。
 
たまには誰かに優しく輪郭を確かめてもらいたくて、でもそれは弱さじゃなくて生理現象みたいなものだと思っている。本能だからどうしようもない。
人とつながろうとする行為を重いとか依存とかで切り捨てたい男たちは、だいたい「いつも笑顔でライトな女」が好きで、その都合のいい状態をキープする裏にどれだけのジャッジが蔓延っているのか、たぶん一生理解しないのだろう。彼らはパフェの器にちょこんと乗ったウェハースのような薄っぺらな添え物が欲しいだけなのだ。

男はまだ寝ていた。
起こさずにホテルを出ると朝の日差しがビルの谷間で爆発していた。
会社に行く意欲なんかゼロで、二日酔いの足がカフェチェーンの入ったビルに吸い込まれ、併設された小さな本屋をのぞく。本棚をなぞっていると、なぜか指が「アリのせかい」という背表紙に止まった。

ページをめくると「社会胃(クロップ)」という聞き慣れないフレーズがあった。
蟻にはふたつの胃があるのだそうだ。ひとつは消化のためで、もうひとつは仲間に蜜をわけ与えるため〝だけ〟に存在する胃。その器官は自分以外のために密を貯めておき、巣にいる空腹な仲間がいたら口移しで与えるらしい。

意味がわからなかった。いや、意味がありすぎて脳がエラーを起こしていた。わたしかと思った。
誰かに求められたら、すぐ「うん」とついて行ってしまう。好意を向けられたら笑い返す。服を脱ぐのもその延長かもしれない。

そういうときわたしの意思はぜんぜん働いてなくて、わたしの「社会胃(クロップ)」が勝手に蜜を吐き出してるだけなのだ。優しい気持ちになりたくて、つい自ら気持ちも躰も差し出して蓄えた蜜でまかなっている、あの与えることの満足感。

それでも人間は蟻よりずっと不器用だから、自分の胃と社会胃の境界も曖昧で、どっちが自分なのか時々ほんとにわからなくなる。だから相手が満たされたあとカラカラに乾いてしまう。

同期の女子たちと「値上げエグいね」と笑い合い、気楽にバリ島とか行っていたころが懐かしいよねと連休の予定をそれとなく探り合い、露骨に高騰する飛行機代に、未来を期待したらガッカリするだけというマインドを植えつけられ、やっぱいろいろ忙しいよねというセリフで話をそらして互いの傷を見なかったことにする。せいぜい社食のランチでポキ丼を選んだり、コンビニで濃いめチーズケーキを買って自分を甘やかした気になって帰るくらいがわたしの蜜のもとだ。

でも。と、思い直す。
「このままではダメ」というフワッとした共感モードに取り憑かれたウェハース女よりずっとマシじゃないか。蟻の世界を想像すると、ベタに与える役割でなにが悪いと思えるから不思議だ。

通りにはわたしと同じような顔をした女が何人も歩いている。ベージュピンクのマニキュアをして空虚な目で街を眺め、他者のために蜜を溜めこみ、吐き出しながら一生懸命世界とコミュニケーションをしている。 
彼女たちはカラカラになっても平気な顔で蜜を差し出す。そして、ときどき、誰かかと混ざりあうことでしか自分の境界を感じられない夜を過ごし、その自分を肯定できている。そんな背中は強い。

信号の向こうにガラス張りの新店舗が目に入る。
看板の《パンケーキ追加シロップ無料キャンペーン中》が最悪にダサくて愛しい。

わたしたちはきっと同じくらい空っぽで、同じくらい甘いものが好きで、美味しいねとみんなに与え合いたいだけなんだ。
蜜のもとを補充するためにわたしは信号を渡った。

(了)

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