掌編 Unicorn
マダムMの角をはじめて見たとき、新種のきのこかと思った。
同じアパルトマンに棲む彼女がマルシェで買ったばかりの青リンゴを壮大に廊下へ堕とし、ボクが拾って手渡したときだった。中腰になったマダムMの頭髪から、親ゆびの先くらいの白い塊が見えた。
パリは乾燥していて雨でも傘をささないから、きのこ菌が頭皮に付着してそのまま生息してしまったんじゃないか。そんなボクの妄想を裏切った角は、明らかにマダムMの頭皮の延長上に、きのこよりずっと硬そうなカルシウムの風合いの乳白色をして気品高く突き出していた。
言葉を失っているボクに、これいいでしょう? とマダムMは自分の頭のてっぺんを刺して笑った。
ボクはクリュニー美術館の「貴婦人と一角獣」という有名なタペストリーを想い出さずにはいられなかった。視覚・味覚・触覚・聴覚・臭覚という、ひヒトの五感を現した『五枚』と、未だ『謎が残る一枚』の六枚で構成された有名な織物だ。
ユニコーンは処女にしか懐かず、強引に手懐けようとすると自ら命を絶ってしまうほどデリケートな生きものだと訳註があった。その逸話は、地球上に棲む生命の儚さを物語っていよるようで、パリに留学したばかりで心細かったボクに甘美を与えてくれた。
謎とされる六枚目のタペストリーのタイトルは「我が雄一の望み」だった。
それを意味するのは『愛』だと解釈したギャラリストが多いけれど、はそんなことはどうでもいい気がした。謎は謎のままで完成だ。
以来、アパルトマンの廊下でマダムに逢うと、ボクは彼女の頭が気になってしかたがなかった。毎回盗み見るのも失礼だったので、
「生まれて初めて見たので、つい」
と廊下の踊り場で白状した。
すると彼女は両眉をあげてチャーミングにおどけてみせた。そればかりか、柔らかな物腰でボクに頭頂を差しだして
「日本にはないの? だったら、いくらでも見るがいいわ。男性には生えないものだからね」
丁寧にお辞儀しているような格好のままクスクス笑った。
なんだ男には生えないのか……。残念だなと思いながら、ボクはなぜか一礼して、マダムのほとんど白くなった髪の奥に生えた角を観察した。ドキドキした。天井の明かりとりの窓がボクたちのいる螺旋階段の踊り場に陽をさしていた。柔らかいウェーブがかった髪が銀色に輝いて微かに石鹸の香りがする。
角は美しい象牙色をして、マダムの銀色の森に佇んでいた。遠目から見るよりずっと艶やかで、湿気をおびた森に生息するめずらしい植物みたいだ。生えているというより、長い年月をかけて大切にさたお気に入りのアクセサリーのように、持ち主のイメージとぴったり同じに見えた。
貴婦人とユニコーンはこんなところにもいたのか、とボクは想った。
誰からも愛され、静かに見守れ、乱暴にしたら簡単に壊れてしまいそうな結晶のような角。
どんな感触なんだろう。
一角獣みたいに処女にしか触れさせないんだろうか……。
ボクは好奇心を悟られないように黙っていた。見ているだけなのに心拍が速くなる。
もどかしくなったのか、マダムMは垂れていた首をゆっくりと元に戻した。そしてボクと目を合わせたあと、慣れた口ぶりで「どうぞ」と言い、また頭を下げた。窓から差し込む光がまだら模様にマダムの後頭部を照らしていた。
「え」
「触りたいんでしょ? どうぞ」
「いいんですか……ありがとうございます」
まるで女の子の膨らみかけた胸にはじめて触れるような緊張感がボクの中心に流れた。それくらい大事な瞬間だと思った。
ボクは人差し指でマダムMの角に触れた。
光を透過した白い角は、弾力があって、鳥の軟骨みたいな感触がした。頭蓋骨から突然突き出したのではなく、角そのものが独立したひとつの生きもののように、生命体の匂いを放っている。
マダムに丁寧にお礼を告げると、彼女は顔をあげ、ライムグリーンの瞳を丸くしてみせた。そして、このことを誰かと共有して愉快な気持ちを長続きさせようとしているみたいに、ステップを踏みながら階段を降りていった。
ボクは正直、ほっとしていた。角が生えていることで彼女の人生が傷ついたり、哀しんだりすることはなさそうだったから。
大学の帰り、サンミッシェル通りから少し入った古本屋に行った。躰を斜めにしないと歩けないほど狭い入口を抜けると、わずかにカビ臭いような甘くて切ない古い紙の匂いに包まれる。ここに来るとボクは、時間や国境を越えて集まってきた古本から、大切なことを教えてもらえるようで安堵した。
奥にある1ユーロコーナーを眺めていると、本と本の隙間にできた縦長の細い空間から見覚えのある形を見つけた。驚いた。本棚の奥から角が生えていたのだ。
店内を見渡しても誰も気に留めていない様子だった。どうしてみんなびっくりしないのか。ボクが知らないだけで、フランスという国は雑草みたいにあちこちに角が生えているのだろうか。
もう一度、角を凝視した。それは東洋書コーナーにある陽に焼けた背表紙の、アベコウボウとオオエケンザブローの隙間の奥から突き出していた──(なかなかゴージャスな挟まれ方だ)。
角は、正確に言うと、こちらに向かってまっすぐ伸びているというより、気づいたら自覚なしにこの世界に生まれついてしまった、という心もとない印象を潜めていた。マダムの艶のある角と比べると色褪せてベージュがかり、クローゼットの奥で日の目を見ることなく燻んでしまった彫刻を想わせた。
ボクっぽいな──なぜかそう思った。
そんなところでこっそり自己主張しなくても、素直に角らしく真っ白であればいいのに。優柔不断なくせに妙なところで頑なな感じがボクそっくりじゃないか。
きっと世界には自分と似ている角があるのだろう、とボクは想った。それに、パリの片隅にある古本屋の壁にボクの角がひっそり存在しているのは悪くない気分だ。
ひとの気配を感じて隣を見ると、アンナ・カヴァンの文庫本を手にした女の子が隣の本棚を凝視していた。
彼女は、まるで学者が長年研究してきた結果にめぐりあわせたような、うっとりとした表情をして立ちすくんでいる。──きっと見つけたんだ。ボクは彼女に悟られないようにこっそり眺めることにした。
女の子はなにかを決心するように、本棚の壁に向かってこくんと頷いた。その視線は、オガワヨウコとカワカミミエコの本にできた隙間へ向かっていた。彼女はゆっくりと片手を突き出して角を壁から引き抜いた。それから別の手で髪を真ん中から掻きわけ、角をてっぺんに乗せた。躊躇はまるでなかった。
そして、器用そうに人差し指と親指で角をつまむと、左右に揺さぶりってベストな位置を探るようにこまかく動かした。彼女の頭皮に嵌めこまれてゆく、きゅきゅっとした音が聴こえてきそうだった。
本来、角はそうやって接着するものなんだろうか?──世界はわからないことばかりだ。
少しして彼女は、満足そうに自分の角を指先で撫でた。生えたての初々しい、淡いみずいろの小さな角だった。遠い惑星のカケラみたいだとボクは想った。
女の子はひと呼吸した後、長い髪をかきあげて角を隠し、スカートを翻して出口に向かった。すれ違う瞬間、その頬がバラ色に輝いているのをボクの目の端がとらえた。
サンミッシェル通りへ向かう彼女を窓越しから覗いた。やっと春らしくなったパリの街を踊るように歩く後ろ姿に、クリュニー美術館の六枚目タペストリー「我が雄一の望み」が重なった。
キミの望みが叶いますように、とボクは祈った。
帰国の日、ボクは美しい角を持ったマダムMとハグをして別れた。
日本に戻るといっても就職先も住むところも、なにひとつ決まっていなかった。以前なら怯んでしまいそうなこの状況は、不思議とボクを解放的にした。地球上にボクにそっくりな角がある、そう想うだけで、絶対的に見守られている気がした。
最後に古本屋に立ち寄り、ボクの角に逢いに行った。
本棚のムラカミハルキとムラカミリュウの間にできた細長い空間の奥に、クリーム色の角はあった。
──ひさしぶり。
小さく声をかけた。角はぼんやりとした壁の暗がりから、ほんの少し逞しくなったボクを黙って迎えてくれた。
──じゃあね。元気で。
ボクは、リディア・デイヴィスとルシア・ベルリンの間に角が挟まれるように本を移動した。
ユニコーンは貴婦人が隣に来てくれて喜んでくれているだろうか。
(了)

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