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掌編   虹色に踊る夜の

越してきたアパートの風呂場に人魚が現れた。
浴槽に湯をはっているときだった。人魚は虹色の尾びれで、ぽわんと飛沫を立てながら湯に浸かり、

「熱すぎますわ」

機嫌悪そうに眉をしかめアーモンド型の瞳をこちらによこした。

「それは、すみませんでした」

私は慌てて水を足した。
人魚の上半身が桃色に蒸気している。茹だったらたいへんだ。

せっかく引越したばかりだというのに、面倒なことになった。会社からほど近いこのアパートは男やもめが気兼ねなく暮らせると期待したのに…….。
それにしても人魚はどこから紛れこんだのか。すべての水道は海へ通じているというから、浴槽の給湯口から迷いこんだのかもしれない。アパートがペット不可だったらどうするのだ。罰金で済むだろうか。

あたふたしながら蛇口の水を全開にした。手で確かめると温水プールくらいの温度まで下がっている。これでは躰が温まらないばかりか風邪を引いてしまう気がするが、人魚なら適温かも知れない。人魚の様子を横目でうかがった。
すると、私をよそに人魚はすっかりぬるくなった浴槽の湯を両手ですくい上げ、天にかざすような素振りをして、するすると指の間から水を垂らし遊んでいる。そして私に向かって、

「ああ、ちょうどよくなりましたわ」

無邪気に微笑む。やはり、ぬるめの湯が好みらしい。

週末の夜だった。風呂場の小さな窓から爪のように薄い月が見えた。
人魚の尾びれが起こすぽわんぽわんという飛沫が夜に響き渡った。


久しぶりの人魚だった。ずいぶん以前に絶滅したと思いこんでいた。
懐かしさのせいか、私は正面から見る勇気が出せず、風呂場の鏡越しで観察することにした。
人魚は青白い肌の両胸に半透明の貝殻をつけていた。長い灰色の髪が水面に浮かぶ海藻のようにゆらゆらと浮いては流れ、下半身は湯に浸かっている。薄いピンクや水色に偏光するスパンコールドレスのような鱗で覆われた下半身の尾びれが水面から跳ねる。

「春ですねえ」
うふふ、と囁くようなちいさな声で人魚が微笑むので

「ええ。でもまだ夜は冷えますよ」
動揺を見破られないよう、目をしっかり見て私は答える。

「……うふう。冷えますかあ」ぽわん。

「ええ。夜は冷えますね」

「うふふ」ぽわんぽわん。

「お湯、ぬるくないですか?」 

「このくらいがお肌に良いのです」
「シャンプーと石鹸はここにあります」
「まあ。海藻シャンプーですのね。うれしいこと」

さざなみに似た、何重にも重なった和音のような声だった。
溢れた湯が排水溝に流れてゆく。弾力のある虹色の鱗がいくつも重なり、溝のところでキラキラと光っている。排水口が詰まるのではないかと気になってしまう。

「うふふ。よろしかったら、ご一緒しませんかあ」

洗い場で立ったままドキリとする。
どういう意味だろうか。普通はどう応えるのが無礼にならないのか。
気のきいた言葉が浮かばず、狼狽えてあたまを掻く自分の姿が鏡越しに見え、さらにバツが悪い。
人魚は浴槽のへりに両手を重ねて顎をのせ、深い緑色の瞳を私に向けている。風呂場の湯気が水滴でできたビーズになってまつ毛に光る。

「いえ。遠慮しておきます。どうぞごゆっくり」

それだけ言うと、すごすごと部屋に戻る。
顔が火照る。前触れのない人魚に焦って、変な声を出してしまったではないか。いや、そんなことはどうでもいい。緊張で喉が渇いた。
ビールを缶のまま飲み干し部屋に寝転がると、私の生涯につきまとう因縁のようなものだと憂う間もなく、睡魔に誘われる。

故郷では、人魚に逢うことは珍しくなかった。
海沿いの鄙びた岬の集落に人魚はやってきた。
温泉にはいりたいのです、と無邪気に話しかけ、湯に浸かって満足するとまた海に帰っていった。人魚を煙たがる宿屋もあった。むしろ快く受け入れる宿のほうが少なかったように思う。

私が小学校に上がった頃だった。生まれつき躰の弱かった私を心配して、母は湯治に連れて行ってくれた。
岬の先端にある湯場だった。海から吹き付けてくる風が崖下に舞い上がり、海鳥たちが長い直線を描いて一気に昇っていくのが見えた。

「人魚の湯だから、すぐ元気になるわ」
母に言われ、岩場から湯を覗いて驚いた。虹色だったからだ。
それは名づけようもない色彩で、ピンクからオレンジ色、やがて紫や水色へとさまざまなに揺れ動く不思議な液体だった。おまけに桃の果実のような甘い香りがする。とろりとした寒天質の湯の肌触りに子どもながらうっとりした。

「どうして人魚の湯は元気になるの?」少年の私は母に訊く。

「千年生きる伝説があるんよ」

その答えはあまりにも抽象的すぎたのだが、素直にそうなのかと深く考えることはなかった。

母は伝説を大切にするひとだった。
「生き物はぜーんぶ、海神うみがみさまから生まれた家族がよ。大昔からみんな助けあって生きとる」

岬の湯から海も陸も眺めることができた。
寂れた集落の屋根や、そこで暮らす人びと、風や光を受けて刻々と表情を変える海のきらめき、潮騒の音が響いていた。海が持っているあらゆる気配がこの地に生きる人間の細胞奥深くに染み込んでいるようだった。

人魚は昼間はハマナスの咲く岩場の影で横になって眠り、夜になると薄暗い岩風呂に遊びにきていた。私が人魚が湯に浸かっているのを見るのもいつも日が暮れてからだった。
白い湯気の向こうで朧げに見え隠れする人魚はいつもひとりきりだったが、人懐こさも有名で誰とでも打ち明けた。

母が「こんばんわ」と声をかけると、うふふと囁きながら、愛嬌いっぱいの笑顔であれこれ話しこんでいた。
潮の満ち引きのように、遠くなったり近くなったりする奇妙な話し方だった。けれど、聞いているだけでなぜか心地がよくなったものだ。少年の私は虹色の湯にのぼせるまで浸かり、彼女たちの幸福そうな囁きにじっと聞き耳を立てていた。

人魚は熱い湯が苦手で、頻繁に岩に上がっては桃色に染まった躰を夜の空気で冷ましていた。その全身は少年の私よりずっと小さく、九十センチほどだったかと思う。
へそのあたりから徐々に鱗が密集しており、素肌との境目は見事なグラデーションで連なって発光して、薄暗い湯治場が人魚の辺りだけ仄かに青白かったことを覚えている。なにより、深く澄みわたった瞳をしていた。

とろりとした七色の湯が若返りや万病に効くと噂になった。人魚のおかげで岬はちょっとした名所として湯治客が訪れるようにもなった。
それも束の間だった。過剰に儲けを求める宿屋が、人魚の奪い合いをはじめたからだ。沖でくつろぐ人魚を無理やり捕獲し、長時間湯船に浸けるという愚か者もあらわれた。

人魚たちは傷つき、美しい鱗は白く濁った。宿の下水溝から海に逃げだして死に絶える人魚も出た。くの字に折れ曲がった人魚の死骸が沖で干からびているのを発見すると、私は胸を痛めた。
やがて集落から人魚が消えた。成人した私は母を看取るとすぐに故郷を去った。

潮の香りがする微睡みから目を覚ました。
気になって風呂場を覗きにいくと、人魚の姿はなく、鱗の浮いた虹色の湯船が揺れているだけだった。なんだ、もう海へ還ったか。
ほっとした私は、鱗だらけの浴槽のぬめりを洗い流し新しく熱い湯を足して浸かった。湯を変えたのになぜか身体の芯から温まり、その感触がいつまでも持続した。湯はいくら足しても虹色だった。

翌日、風呂場を覗きに行くと昨夜の残り湯に人魚が躰を浸していた。私を見るなり

「お部屋に伺ってもいいかしら?」
人懐こく微笑んでくる。

「風呂は気に入りませんか」
「わたくしがここにいると、あなたさまが熱い湯にはいれませんでしょう」
「では、そうしますか」
「まあ。うれしい」ぽわん。

きっと行く当てがないのだろう。私が世話するしかない。
そう決めると、一階に住む大家を訪ね、水の溜めておける入れ物はないか相談した。意外にも大家の男は大きめのタライを貸してくれた。ペット可かどうか訊くと怪しまれる気がして礼だけ残し、拝借したタライを抱えて部屋に戻った。玄関を開けた途端、ほのかに潮の匂いがした。

部屋の中ほどにタライを置き、ぬるめの湯をためると浴槽から人魚をタオルでくるんで抱きあげそっとタライに移した。
人魚の肌は実にヌメヌメとして、慎重に持ち上げないとつるりと腕から抜け落ちてしまいそうだった。体重は軽く、まるで藻のかたまりを持っているかのようにふわりとして、間近で見る白い皮膚は静脈の青さが透けるほどだった。

人魚は虹色の尾びれを振り、ご機嫌そうにタライをぐるぐる廻った。まるで踊っているようだ。そのたびに床が飛沫を浴びた。私は濡れた床を黙々と拭きあげ、タライにぬるま湯を足しながら見守った。拭いたタオルに七色の模様ができていた。

タライの水面は私に故郷の海を想わせた。なぜだかわからないが、比較にならないほどスケールの異なる水面に遠い月の引力を感じるのだ。

なにか食べたいものはありますか? 訊くと
「アイスクリームが食べたいわあ」
ほとんど瞬きをしない大きな瞳で首をかしげ、人魚は甘えた声を出した。

「特別ですよ」
私はこっそり残しておいたハーゲンダッツのチョコミントアイスクリームを冷凍庫から出し、スプーンを添えて渡してやった。
人魚は大きな眼をパチパチさせながら、小さな濡れた手でスプーンを使い、ひと口ずつすくっては
「ああ。おいしい。ああ。おいしい」
ピンクの舌で器用に舐め、繰り返した。

「あーん」人魚は別のひと口をすくうと、スプーンを私の口元に運んだ。
「ほら、あーんしてください」
ドギマギしながら口を開ける。甘く冷たい匙が私の舌に落ちる。
「お、おいしいですね」
つまらないことしか言えずもごもごしている私と目が合うと、人魚は、床を水浸しにしたことを眉をへの字にして申し訳なさそうに謝った。

人魚は明るい時間はタライのカーブに沿うように丸まって眠っていた。
虹色の鱗が透明ゼリーのようにふるふると揺れ、呼吸にあわせて微かに上下していた。私は、普段よりずっと注意深く静かに話し、物音を立てないようにして過ごした。

部屋は湿っていた。人魚から生まれるシャボンのような気泡が部屋の空気をひんやりさせ、夜は発光する鱗の輪郭をいっそう浮き立たせた。

仕事は早く済ませた。帰宅途中のスーパーで湯上げしたワカメと雲丹うにを買い求め、ふたりで夕食をとり、窓越しの夜空を見上げながらデザートにアイスクリームを食べた。

「わあ。大好き。うれしい」

人魚はタライの中で踊るようにまわり、再び床を大胆に濡らしたあと、眉をへの字にしてすまなそうな顔をした。バラ色の頬が少女のようだと思った。

蜜が熟れてゆく桃のようにとろんと眠る人魚は、呼吸さえもさざなみの音を感じさせた。それは小さな部屋の隅々まで深く染みこんでゆき、私は深いなぐさめと安らぎに満たされた。

アパートの廊下で大家と出くわした。彼は私を見るなり、
「そろそろ、ですね」
用心深そうに話しかけてきた。
ああ、タライと返さなければ。私が詫びようとして正面に向くと、
「海に還さなくては」
なにもかも承知した、もの静かな口調で彼はつづけた。
「千年永らえるためにも」
遠回しな態度をとらない彼から神聖な気配を感じとり、私は頷いた。
彼も人魚と暮らしたことがあるに違いない、と思った。


その夜、人魚宛に薄い水色の瓶に入った速達が届いた。岬の海神うみがみからだった。
速達の瓶を人魚に渡すと、ちいさな人差し指で中の手紙を抜き取り、貼りつくように顔を近づけ「近視なんです」といい訳をしながら読んでいた。

満月だった。いつまでも知らないふりはできない。
人魚は満ち潮の海へ戻らなくてはならなかった。

海神うみがみの速達を読み終わった人魚は、虹色の尾びれを揺らしながら夜の窓を虚ろに眺めていた。そして、こちらを振り返ると

「還る前にお願いがあるのです」
シャラシャラと鱗を鳴らし深緑色の瞳を輝かせた。

最後の夜、私は人魚の長い髪を風呂場で洗った。それが人魚の願いだった。タライから抱き上げ浴槽へ移すとき、いちだんと軽くなっていることに愕然とした。よく見ると、鱗もところどころ乾燥し白っぽく変色している。はやく海に戻さなければ。

「海のこと、忘れそうでしたわ」
「すぐに思い出しますよ」

半身を湯船に浸からせ、仰向けの人魚の髪を洗った。人魚の頭は壊れそうなほどちいさく、軽かった。灰色の髪を櫛でときながら私は、果たして人魚はここの暮らしを思い出すだろうかと想像して胸がつまった。
湯に浸かり生き返ったように機嫌よくハミングする人魚の声が、岬で聴いた潮騒の響きと重なった。すると突然、

「想い出しましたわ」

ほんの一瞬、アーモンド型の瞳が海面で跳ねる魚のようにギラリと銀色に光った。そして、七色の湯に潜り、浴槽の給湯口を滑りぬけ、人魚は海へ還っていった。

浴槽に虹色の鱗がびっしりと張りついていた。
鱗はチラチラとうねりながら波立ち、シャンデリアの滴型しずくがたにカットされたガラス飾りのように幾重にも反射し、桃色やオレンジ、水色、紫、そのどれでもないあわいがスペクトルに輝いて風呂場の壁にくるくると反射し、月夜の窓へ流れていった。



短い物語りとエッセイを書いています。よろしければ。


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