掌編 Butterfly cage
あなたは、中華料理屋が一階に入った雑居ビルの外階段をのぼってゆく。最上階から新宿の白い空を眺め、混然として猥雑で埃っぽい街を背に、スタジオのドアを開く。
真っ暗なスタジオの奥から、青白い笑顔があなたに駆け寄る。結局ここに棲みついてしまった彼女を疎ましく感じながら、あなたは訊ねる。
「仮想ドーパミン、今からいい?」
ふたりだけの造語を使えば彼女が喜ぶと知っていたから。
予想通り「いいよ」と明るい返事がかえってくる。それが彼女の不安をカモフラージュするために振り絞った言葉であることを、あなたは気づかないでいる。マルボロを出して一本吸う。
あなたはスタジオの照明をつける。窓はない。
風俗店のティッシュやネットカフェのチラシが散らばったデスクの上に、ストロングゼロの空き缶を見つけ、飲み口でタバコを消し、その横にカメラバッグをのせる。黒々とした一眼レフをバッグから取り出すと、あなたは慣れた手つきでレンズを磨く。
彼女の顔が一瞬翳る。
あなたが行きたがっていたライブチケットをダフ屋から入手してわざとデスクに置いていたのに、バッグの下敷になって破れかけている。
買ったばかりのレンズに集中するあなたに、彼女の翳りを読みとることはできない。
天井に取りつけたスピーカーから低音が強調されたブリティッシュロックが響く。
「また脱ぐの?」
つるつるしたナイロン地のローブを着た彼女が裸足であなたに近づき、肩越しに話しかけてくる。甘ったるい息が首元にかかる。あなたは振り返りもせず、ただ頷く。
ヨドバシで入手したドイツ製のレンズは82万もして、彼女のポルノビデオの売上で払ったことがあなたの記憶にのぼり、すぐに消える。あなたは新しいレンズを使いたくてたまらない。
新宿東口の路上で座っている彼女に「ライターある?」とあなたは声をかけたのだった。
バイトの話を持ちかけると彼女は、どうしようかと思案するように目を泳がせ、本当はどこにも行き場がないことを察して欲しくて目を伏せる。女優を目指してると彼女は話し、ちょうどいいね、とあなたは嘯く。
これまで何度も同じような若い女をスタジオに連れてきていた。
淋しい目の女は服を脱がすのに実に簡単な存在で、売春より安全で稼ぎもいい理想のバイトだとあなたは考える。
フォトグラファーだと話すとほとんどの場合、行く当てのない女たちは気をゆるめ、黙ってついてくる。あなたはそれを便利に使う。女優になりたい奴が家出なんかしない。
彼女はスタジオのなにかを手に取っては、また置き直すということを繰り返したあげく、ローブをつるりと脱いで長椅子に横たわる。蝋のような白い肌が、黒布を垂らした背景に輪郭を持って浮かび上がる。彼女の上腕に彫られた蝶のタトゥは飛び立つことはない。
あなたは満足げに彼女の躰を観察するふりをする。わざと時間をかけ、ライトの影を避けながら脚をひらかせ、形のいい乳房に垂れたひと束の髪を指ですくい、ゆっくりと背にまわす。
ライティングを強めに設定し、彼女の肌を白く飛ばす。
人工知能に求められる「素材」としての裸を熟知しているあなたは、そのためにだけにシャッターを切る。
写真にクオリティは必要ない。 データはA Iのレタッチ処理で整形レベルに変えてしまうか、首から上はアルゴリズムによって顧客の好みにすり替えられる。東洋人の若い女の「素材」は高値がつく。それは街に溢れている。
マニュアル通りの淫らな演技をする彼女が、レンズ越しにあなたに応えつづけている。
仮想ドーパミン空間──性的な刺激と没入感、一瞬で脳裏から破棄される消耗品を収めるために、あなたは連写する。高価なドイツ製レンズで仮想ポルノ撮ってるなんて、世の中の男はとことん馬鹿で幼稚だとあなたは蔑む。
彼女は長椅子の下に手を伸ばし、隠していた紫の錠剤を口に入れ噛み砕いて発泡酒の残りで胃に流しこむ。ファインダーに隠れたあなたの眼には視えていない。
とり立てて美人ではない。けれどなんでも撮らせてくれる「素材」として、あなたには彼女が扱いやすい。
顔も胸もSMも変態も、個人の性的嗜好別にAI生成動画に変換する仕事をあなたはしてきた。ドーパミン誘導、声質や絶頂のタイミングなど、プライベート・ポルノを望むクライアントから神業だと評判を得ていた。
同時に、誰かの欲望を満たしたとたん泡のように消えてしまう「情報シェア」の価値観は消えつつあり、個別化を加速するフェイズに入ったとあなたは確信している。
ウケが良かった場面の「素材」をサンプリングして合成するのは自分ではなく人工知能で、そんなスキルは職業や人種どころか年齢も国籍も関係なく、ある日突然アフリカ人の小学生が世界的大ヒットを生成A Iと共に作り上げる日も遠くはない、とあなたは考える。
だが、皮肉にもA Iだけで生成されたポルノ動画は不気味な感触がして、売れない。興奮はしてもフィニッシュできない。だからあなたはA Iに「養分」を与えづつける。コンピュータはナンパができない。
アルゴリズムの気紛れによって正体不明になった女たちは、いとも簡単に「養分」になり、自己を葬り去りながら狡猾に生き抜いていく。儲けたお金で整形を施し、男に貢がせ海外へ逃亡する。
今や遺伝子レベルで人生は変えられないことを誰もが知り、フェティシズムな快楽にしかエネルギーを注がなくなった。それでいい、というのがあなたの考えだった。
長椅子に横たわった彼女が青ざめた顔でレンズを見つめている。瞳孔が開いている。あなたは気づかないふりをする。あなたはいつだって無関心でいたい。無機物を観察するときのように。
ふいに、緑の情景があなたの脳をかすめる。
あなたは幼かった。裏山でいろんな昆虫をとった。鈴虫を母親に見せようとしたあなたは、オスだけでは鳴かないことを知りメスも虫籠にいれた。オスの鈴虫はメスを迎えると勢いよく鳴いて五月蝿いほどだった。
子供ながら、女のためにこんな簡単になびくことはしないと、あなたは誓った。
蚕の生態に魅了された。無心に桑の葉を食む柔らかい生きものの感触や、脱皮を繰り返し芋虫が八の字を描いて楕円形の白い繭をつくり、そこに自分自身を閉じこめてゆく不思議さを飽きることなく観ていた。
母親には黙っていた。汚いから手を洗ってきなさい、と言われるからだ。その口調の底に「それだからおまえは」の蔑みをあなたは感じとった。
やがて白い繭から蛾に生まれ変わっても飛べることさえできずに、交尾だけをして卵を産み一生を終えるのを観て、あなたは想った。
幼虫としての生が終わり、全く別の生きものとして生まれ変わる彼らの記憶についてだった。
人間は、蛾や蝶のように脱皮を繰り返しその形態がガラリと変わるということはない。
幼虫だった彼らの過去はどこへ行ったのか?
桑の葉を食べていた芋虫が蛾として生きるとき、そこに芋虫の記憶はあるのだろうか? 卵を産みつけるとき、かつて自分はここから来たのだと、一瞬でも察することはあるのか?
──いや、ないはずだ。
生きものは過去を思い出し懐かしむような意識構造になっていない。なんのためにもならない過去は、忘れ去るのが生き抜くためのすべだ、とあなたは悟る。
こんなことを思い出すのも彼女のせいだとあなたは考える。こめかみが痺れる。あなたは彼女の躰に近づき、耳もとで卑猥な言葉を投げかける。
彼女は薬の効いたとろけるようなまなざしを向け、長椅子からずり落ちコンクリートの床に白い裸体を転がして丸くなる。芋虫みたいだとあなたは薄く笑ってカメラから手を離す。
ストロング缶が足元まで転がり、蝶が張りついた彼女の腕が目の前に伸びてくる。
あなたは短く交尾をする。
新宿の街が巨大な繭だとしたら、こうして交わっている自分は蛹なのか、蛾なのか、そのどちらの細胞にあたるのか、あなたはわからない。
たとえ今すべてが壊れたとしても、世界をぶち破ってまったく別の生きものとして変態し、生き残るのは紛れもなく女たちだ。
あなたは起き上がりシャワーを浴びる。熱めの湯を浴びながら、あなたは仕事のことで頭がいっぱいになる。今回の顧客は桁が違う。これを作り終えたら、さらに大きな資金が流れこむ。
そうだ、ひさびさにアイルランドに旅に出よう。崖を見下ろすB&Bに泊まって、荒涼とした景色をドイツ製のレンズに収めたら最高じゃないか。
バスルームの向こうで傷ついた蝶が床に崩れ落ちているのを、あなたは気づかない。
お読みいただきありがとうございます。
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