シロクマ文芸部| IN MY LIFE
小さな手のひらに桃グミみたいな肉球がついている。
いい夢、見た?──彼女は肉球をうっとり眺めながら話しかける。
友人宅で生まれた仔猫を譲り受けたのは先週だった。仔猫は急しつらえの段ボールのベッドの中でキトンブルーと呼ばれる薄墨色の瞳を揺らし、まだ視界がぼやけているせいかタオルに丸まってもごもごしている。密集した毛並みは触れるとほのかに甘く母乳の匂いがする。
部屋の窓を開け放っているから外の物音がよく聞こえる。郵便バイクがアスファルトを通る音、配送トラックの荷台の扉が開けられる音や振動や、下校途中の子供たちの声も、午後のまぶしさに混ざって。
ご機嫌いかが? お外の音が聞こえる?
あの茹だるような暑さがもうじき終わろうとしている。
「すもも」と名付けた仔猫を眺めながら、パーフェクトな夏だったと彼女は思う。自分がこれまで夏というものをちっとも理解していなかった、と。
なけなしのお金で旅行に出かけ消耗するだけだったり、先の見えない恋愛に溺れたり、一体何をしていたんだろう──。
今はこの仔がいる。世界は小さないのちと同時に、彼女にも微笑みかけてくれている。
ジャムの空瓶に飾ったローズマリーが風で揺れ、「すもも」がミュウミュウとタオルの中で蠢きだす。
パンの白いところみたいに柔らかくとろけそうなお腹は傷ひとつなく、生まれた不安と空腹であげる鳴き声は人間の赤子にそっくりで、口と鼻はうつくしいバラ色だ。おそろしく小さな手。グミの肉球と透明な爪。
哺乳類、という、すこやかで、せつなく、どこもかしこも、この世のものとは思えないほど精巧な高貴さを、彼女は誰にも見せたくないと思う。
時間を止めて永遠にこの夏の中に閉じこもっていたい。息苦しいほど切実にそう思い、キャットフードのパウチを手に取る。
+ ・ + ・ + ・ +
──死んでからどれくらい経ったのだろう。
マグダはもう、ここはどこだろうとか、今度は誰だろう、とは考えない。
代わりに、なんだかケモノ臭いわ、と思い、ほのかな湿度に気づく。何の獣かわからないまま、自分から発せられる匂いを胸いっぱいに吸い込む。
マグダは、自分がマグダであることも、かつて子供を三人産んだことも覚えていない。国から逃亡した経験も、その後の紛争を生き延びて船で大陸に渡り、最後は教会の大火事に巻き込まれたことも。
けれど今、むせるような生き物の匂いは感じるし、それとピッタリくっついている心臓の動き、四肢の筋肉の弛緩も血流も、全身で──というより正確には全身全霊で──わかる。
マグダには視覚も思考もない。だから自分が猫で、どこかの家の中にいることを知る手がかりがない。
猫はまだ生まれたばかりで、性別は雌らしい。室内で大切に飼われ、この環境に満足している。「すもも」と言う名前もつけられているけれど、もちろんマグダにはほとんど意味をなさない。そのうち慣れてゆくのだろうと気づくのはもう少し先だ。
「すもも」はちょうど食事をしているところで、たくさん召し上がれ、と女の声と一緒に出てきた魚のスープをバラ色の舌でぺちゃぺちゃ舐めている。
水を飲みたい欲望が湧いてきて、でも、全部食べ終わるまで皿の前を離れるつもりはない。食するという純然たる快感と、滑らかな舌の動きによる生のリズムの両方が全身を満たし、マグダは恍惚となる。
どうしてこんなに躍動するんだろう。──マグダは思う。
マグダには世界と自分の区別がつかない。
だから力いっぱい、全身で感じる肉体のすべてが自分だと察知する。
ヴェルベッドのような毛並みも、健康な目も口も歯も、手や脚やお腹があたたかいのもマグダ自身で、今のマグダにはなにひとつ憂いも曇りもない。
また生きるのね── 輝かしいばかりに幸せだった。
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