見出し画像

YS 1.4 静かでないとき

心や感情の揺れが静かになったら、本来あるべきところに戻ると聞くと、いいんだろうなあと思います。思うけど、分かるようで分かりきらないとも思います。それならば、反対にそうじゃなかったらどうなのというところから光をあててみると、もう少し近づけるかもしれない。それが今回のスートラです。

※前回分は、こちら『YS 1.3 見るもの』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章4節

वृत्तिसारूप्यमितरत्र॥४॥
vr̥tti sārūpyam-itaratra ॥4॥
ヴリッティ サールーピャ イットラットラ

「Or there is identification with the modifications of chitta.」 (1)
(そうでない場合、〈見るもの〉は、心や感情の揺れによって変容したものと同一視される状態にある。)

ヨガというのは、心や感情の揺れが静止した状態のことですよ(スートラ 1.2)。つまり、〈見るもの〉が本来の状態におさまるんです(スートラ 1.3)。今回は、ではもし静止しなかったらどうなるのか。

ここはぜひ、鏡のたとえを。
朝起きて、鏡を見たら、うーん肌なんかくすんでいるし、なんか黒いぼつぼつもできてる…と思う。不摂生かしらとか思いながら鏡をまじまじ見てみたら、そもそも鏡がくもっている上に黒い汚れがついていた。なーんだ、勘違か。
ということです。

「わたしは女だ」「わたしはヨガ・インストラクターだ」「わたしは健康だ」などと認識した時、ヨガは、それは違うよといいます。なぜならば、鏡のくもりや汚れを自分の顔についていると思ったように、自身の状況や条件を、自分そのものであると同一視してしまっているからです。私たちは、気付かないうちに習慣として行っていることです。


余談ですが、平野敬一郎という作家の方が書いた『私とは何かー「個人」から「分人」へ』という本はご存知でしょうか。この本でで紹介されている〈分人〉という考え方が、その(ヨガでいうところの)誤認識によって枝分かれした自分についての視点と似ていて、かつ、分かりやすく書いてあるので、興味のある方はぜひおすすめです。そして、平野さんの考える「生きていくのを楽にする方法」は、ヨガのそれとは違いますが、すごくいいなあと思ったので、そういう意味でもおすすめです。

そんなわけで、「生きていくのを楽にする方法」に活用することもできる、枝分かれした自分。自己紹介としても、コミュニケーションの便利なツールじゃないかと思うところです。では、何が問題なのか。

それは、その状況や条件が変わってしまうものだから。始めに使ったたとえに沿って検証すると、私はいつか女としての機能を失う(こともある)だろうし、ヨガインストラクターをやめるかもしれないし、また、大きな病気にかかるかもしれない。私がこうだと思っていたことが、そうではないと知った時、そのアイデンティティの誤認が〈苦しみ〉を生むのです

それは確かに、避けられるものなら、避けたい。


私はいま、インドのヨガインストラクター養成講座を実施しているヨガセンターにいます。主にヨーロッパから来るトレイニーが多いので、おのずと講義などで「西洋」と「東洋」を比較をすることになります。その時の私の立ち位置が分からなくなって、これがアイデンティティ・クライシスか~と思いながら、初めの数カ月を過ごしました。
私は「西洋」ではなく、「東洋に」属します。インドを知るほどに、日本と違うなと感じていたからこそ、「私たちの東洋」と言ってしまうことに違和感を感じて、あれこれどうしようと思ったわけです。心のおさまりが悪い。

そのあと、たまたま陰ヨガを通じて道教のことを学び、私の背景にながれる哲学はインドより中国の影響が濃いことに気付いて、解決でした。でもまあ結局、そうか私はアジア人である以上に日本人なんだなと思ったわけで、誤認識をそのまま続けているわけです。

そういえばですが、8年前にインドを初めて訪れた時、大雑把なオーストラリアに2年近く暮らし、生と死がギラギラしている南米を3カ月旅行したすぐあとにきたので(どちらも褒めてます。念のため)、わたし、アジアの優しさに久しぶりに触れたと感動しました。これ、久しぶりの海外旅行でインドに来ていたら、絶対違いますよね。そう思うと、私の認識って、めちゃくちゃだなあと思うのです。

わりとめちゃくちゃなのに、当然のように行っている、自身の誤認識。それが苦しみを生むよと言われたら、そうだろうなあと思います。それと同時に、簡単なことではないなということも、よく分かります。だから、ヨガはそれを目指すために、体系をつくった。


この「わたしは〇〇です」の誤認識の件、私はとてもいいなあと思うんです。たとえば、「わたしは怒っている」「わたしは悲しんでいる」と思った時の、それも自分じゃないってことですよね。
感情が揺れた原因となるものへの、自分の執着が強いほど、その感情に支配され、自身が怒りや悲しみそのものだと勘違いしてしまいます。でも、それは違う。〈見るもの〉は、変わらずただ「怒っているわたし」や「悲しんでいるわたし」を見ている。つまり、「怒っているわたし」や「悲しんでいるわたし」、または「女なわたし」「ヨガインストラクターなわたし」「健康なわたし」は、全て〈見られるもの〉です。

〈見られるもの〉はそうやって変わっていく。そして、〈見るもの〉は変わらない。生まれもしなければ死にもしない、常にそこに在る根本的な存在であること、ここでもう一度思い出しておきましょう。


鏡のたとえに戻って、もう少し続けます。
鏡を見ている〈見るもの〉と、鏡に映った〈見られるもの〉がいる。その〈見るもの〉である本質としての自分の姿、これ、見ることはできません。 鏡に限らず、写真や動画など、自分の像を残すことはできますが、あくまでも自分の像があるだけです。つまりそこにいるのは〈見られるもの〉であって、〈見るもの〉を見ることはできない。

それでも、スートラ1.3 が教えてくれた通り〈見るもの〉のもとに留まること、〈見るもの〉そのものである(being)ことはできる。そして、その状態がヨガだよということ。


ここまでのスートラ計4節だけで、アサナの練習ががらっと変わる人もいるのではないかなあと思います。アサナの練習の前に、座って、呼吸を整えて、スートラを暗唱するというのもいいと思うんです。
私たちは頭や心を忙しくさせてしまうから、〈見るもの〉と〈見られるもの〉がいることを、簡単に忘れてしまう。大事なことは、リマインドし続けることだよなと思っています。そのためにも、読んでみよう。


ところで、そもそも心の感情や揺れって、どういうことでしょう。次回のヨーガ・スートラ第1章5節は、こちらから⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから。



いいなと思ったら応援しよう!

渡辺朋江 | Tomoe Watanabe 励みになります。ありがとうございますー!