YS 1.2 耳を澄ませる
じゃあ始めようと、まずは合図を出してくれたヨーガ・スートラ。ヨガとはなんですかについて、早速語ります。
ヨガインストラクターのもえと申します。よろしくお願いします。
※前回分は、こちら『YS 1.1 さあ始めるよの合図』をご覧ください。
ヨーガ・スートラ第1章2節
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥
yogaś-citta-vr̥tti-nirodhaḥ
ヨーガ チッタ ヴリッティ ニローダハ
「Yoga is the state in which the the mental-emotional fluctuations has become still.」(ヨガとは、心や感情の揺れが静止した状態のことである)(3)
この前の第1章1節で「これよりヨガを明細に説く」(2)と始まり、さっそく「ヨガがとは」を教えてくれる親切なパタンジャリです。今回は、ハリーシャの英訳を私が和訳して紹介しました。ヨーガ・スートラをすでに読み込んでいる方には、違和感があるかもしれません。
多くの場合、この節は「心の動きを止めることがヨガである」と訳されています。しかし、ハリーシャは「心や感情が動きを止めている状態がヨガ」であると言います。根拠として、ヨガ・スートラが書かれた同時期、もしくは少し前のどの文献を見ても(ヨーガ・スートラ3周目はこの辺も話せるようになっていたい)、ヨガは方法ではなく、その結果としての状態を指して書かれているということ。また、サンスクリット語の nirodhah / ニローダハ は動詞ではなく名詞なので、「静かにすること(動作の最中)」ではなく「静かである状態(そのものの名前)」を指すというのも、その根拠であるとしています。(確かに、フォーチャプターでは blocking や stoping と動名詞な訳を紹介している)
どちらだとしても大差がないようにも聞こえますが、自分がどちらを採用するにせよ、区別しておくことは大事なはずです。そして、私はここを少し大事にしてみたい。
たとえばハンドスタンド(アド ムカ ヴィルクシャーサナ)を練習している時、「なかなか止まらないなあ」と思いながら練習を続けるわけです。こういう時って、実際に止まれた時に、止まれたことにびっくりしてしまって、あれこれからどうするのと戸惑ったり、喜んでバランスをくずしやすい。そりゃそうだよなと思うのは、止まることがハンドスタンドの目標になってしまっているから。止まっているところが目標到達地点。止まって、ふうと静かに息を吐いて落ち着いた、そこなはず。
木のポーズも分かりやすい(なにせハンドスタンドのサンスクリット名は、逆さの木のポーズという意味)。ぐらぐらしながら、ふと、ここかと静かになった、そこに到達したい。止まれ止まれとあたまがいっぱいになっている状態を、ヨガが目的としているとは思えません。
ヨガが「doing(していること)」ではなく「being(在り方)」の価値を掘り起こしてくれているのとも、相反してしまうと思うんです。
では、その「ヨガな状態」というのは、どういうことなのか。私はハリーシャのたとえ話がしっくりきたので、ぜひ紹介したいと思います。人がみな自分のラジオをもって生まれてきたら(!)というSF風味のお話。
人はみな、自分のラジオをもって生まれてくる世界です。
そのラジオがキャッチする放送局はランダムに変わるので、音楽、教育講座、ゴシップなど、様々な音が聞こえてきます。生まれたときからそうなので、特に違和感も感じません。
しかし、ある時、なんだかいい感じの人に出会い、話してみたら、抱えてるラジオを止めてみることを提案されます。始めは、なんのことか分かりません。止める・止めない以前に、ラジオを認識することもないまま生きてきたからです。やってみることにして、大変だけど続ける。そして、やっと数分、止めることが出来た時に、小さくて繊細で、なんだか落ちつく、そんな音楽がながれていることに気づきます。この音はどこから聞こえてくるのかとその人に聞くと、ずっと静かに流れていた音だよ、と教えてくれました。
その音だよ、いうことです。
余談ですが、よく知られているのは、湖に石を投げると波が立つという例えかなと思います。水面にあらわれる波は、感情や思考の揺れで、その波が静まった時に底に見えるものが自分だよと。
これもイメージしやすいですが、波が静まった時に底にあるものを本来の自分としてしまうと、では本来の自分を見ているのは誰?と思いませんか。ハリーシャが、それでは本来の意味とずれてしまうのではないかと言っているのは、なるほどと思います。(「見るもの」と「見られるもの」については、のちほど出てきます)
インテグラル・ヨーガ (2) もフォーチャプター(1)も、citta / チッタは、あらゆる心の動きを包括していると説明しています。たとえば、いい匂いに気付く、食べたことあるぞと思う、おいしかったよな、だから食べたい、という、潜在意識を含むいくつもの思考のステップすべてが citta です。
そんな citta を静かにさせることが、果たしてできるのか。まずは、思考や感情が動いてしまうことは当然で、大騒ぎしすぎてしまうのが困るというところから始めたい。そして、うるさい音に負けてしまっていても、底に流れている音は、変わらず存在している。つまり、本来の自分はいつでもそこにあるということも、同時に覚えておきたい。だから大丈夫。そして、そうやってスタート地点に立っているのが、いまヨーガ・スートラを読んでいる私たち、ですよね。
現代ヨガのマスターと呼ばれるダーマ・ミトラも、ヒマラヤヨガバリーの創設者ラリーも、練習によって得られる結果を求めるでなく、ただそれがやるべきことだから練習しなさいと言います。簡単なことではないけど、私はもうヨガに十分によくしてもらったので、ただ練習・勉強を続けることに集中するのでもいいなと思います。
とはいえ、ヨーガ・スートラはまだ2節。その背景と、その方法を、引き続き読んで咀嚼することで、ゆっくり自分ごとにしていきましょう。サンスクリット語で読んでみることもお忘れなく!
その心や感情が静止した状態ってどんな感じなんでしょうか。それは次回のヨーガ・スートラ第1章2節から⇩
※本記事の参考文献はこちらから。
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