YS 1.14 どうやって続けてきたかを考える
「心の作用を止滅すること」の方法のひとつアビィヤーサ。前回はその定義について、今回はその条件を教えてくれるスートラです。
※前回分は、こちら『YS 1.13 継続すると確立されて安定する』です。
ヨーガ・スートラ第1章14節
स तु दीर्घकालनैरन्तर्यसत्कारासेवितो दृढभूमिः॥१४॥
sa tu dīrghakāla nairantarya satkāra-āsevito dr̥ḍhabhūmiḥ ॥14॥
サ トゥ ディールガカーラ ナイランターリャ サトゥカーラー アセヴィタ ドゥルダブゥーミヒ
「It becomes firmly grounded by being continued for a long time with reverence, without interruption.」(1)
(アビィヤーサ(修習)は、深く尊敬する気持ちをもちながら、中断することなく継続することで、確かな基礎となる。)
前回のアヴィヤーサの定義でも書いて、今回のスートラでも書いていて、もう耳タコですが、長く続けましょうと書いています。それが条件の1つめ。
練習・実践が中断しないことで、ヨガの恩恵を十分に得られるというのは、ヨガ歴が長くなった者として同意します。フォーチャプター (1) は、練習・実践が中断しないことで精神的な成熟が進むと述べ、やり遂げるための努力は今世では終わらないことが多いだろう、とのこと。
今世で終わらないと聞いて、じゃあもう無理じゃんかと思うか、いまできるだけのことをやろうと思うか、とらえ方は自由ですが、後者の方がやる気になるだろうなと思います。
インテグラル・ヨーガは (2) は、実のある練習・実践のために、半分しかないなんてもうやだと思わない忍耐が必要だといいます。「今日撒いた種がどれぐらい根を張ったか知りたくて、翌日にはそれを掘り起こしてみるというような、子供じみた真似はやめよう。」と書いているのには、ちょっと苦笑いです。だって、ちょっと分かるもんなあその気持ち。
掘り返したい気持ちをおしとどめられるものって何だろうと考えてみると、わたしは、撒いた種が1つではないことを「知っている」ことかなと思います。たとえば、立位の前屈であるウッタナーサナというアサナ(ヨガポーズ)は、足の裏側が伸びるので気持ちいいですが、上半身が逆さになることで内臓機能を整えたり、下を向いて呼吸をすることで気持ちを落ち着けることが出来たりと、身体的にも精神的にもいいところがあるといわれています。私が好きなところは、O脚対策に良かったし、ちゃんと踏む感覚を育むのに良かったし、気持ち入れ替えたいときにどこでもできるし、そういうスイッチのツール持ってるぜという心強さもあるしなど、そのいいところってどこまででもわりと広げられると思うんです。
それって、最初から知っていたわけでなくて、ヨガを続けるうちに少しずつ気付いていったことです。つまり、知らないところに芽が生えているのに気付いて、こんなところにも種を撒いてたんだなと知る。それを繰り返すことで、私が望んで実行したこと(または、実行しないことに決めたこと)は、付随していくつものいいことも運んでくれる(それだけではないけど)ということを実感した。だから、自分が望んだものだけに固執して掘り返したくなる衝動を、まあ大丈夫よなだめてくれます(当社比)。私にとっては、これがヨガが続いている理由かなと思います。
そう思うと、やっぱり長く続けることの恩恵って大きい。でも、長ければいいってもんじゃないよというわけで、2つめの条件。深く尊敬する気持ちを持って練習・実践すること。
日本語のインテグラル・ヨーガは「大いなる真剣をもって」としていましたが、英語版はどちらも「崇拝、畏敬の念(revelence)」といった手の届かないものへの憧れと畏怖を感じさせる訳をつけていました。私の訳は後者をより生かしつつ、でももう少しかみ砕いて「深く尊敬する気持ち」としました。
この条件については、フォーチャプターが情熱的に語ってくれているので、それを紹介したいと思います。まずは「信じる心をもつことが重要で、信じる心を通することでのみ、この変則的な人生に流されずに練習・実践を続けることができる」ということ。始めるのも大変だけど、続けるのはもっと大変です。その続けるために必要なのが「深く尊敬する気持ち」ということですが、どうでしょうか。
これは、ぜひ考えてみたいところです。読んで下さっている方は、もうすでにヨガをしている方が多いと思うので、今まで続けていた中でどう思っていたかを見返してみたい。その気持ちが全くないまま続けることって難しいと思うから、楽天的すぎるかもしれないけど、実は持っていたというのを発見するだけでいい気がします。この先も続けていく燃料になるしね。
続けて、実践・練習を好きになりなさいとも書いています。望んだ結果がほしいのであれば、愛と献身の心をもって行えと。うーん。愛と献身って、宗教に縁がないとなかなか触れる機会がない言葉ですが、濃度や色味こそ違えど体感として知っていると思うので、これについてもちょっと考えてみたい。気持ちの棚卸です。
そこに練習・実践への執着があったとしても、「定期的な自己分析とサットサンガによって、発展させることが出来る(develop)」と書いているのが、おーなるほど!と思うところでした。執着は敵じゃない。時間を変えて、付き合い方を変えていければいいんだということだ。(ここでまた継続することにつながる)
※ちなみにサットサンガ(Satsang)ですが、真実を意味するサットと、地域社会や共同体を意味するサンガでできている言葉です。だから、翻訳すると真実と共にある人たちとの集い(associating with good people)というだけでなく、真実と共にあること(being in the compnay of truth)という意味も含むようです。 (8)
2つの条件、いかがだったでしょうか。条件が分かったとはいえ、消化するのには時間がかかります。でもまずは、なるほどねと思って、始めるだけだよなと思います。
頭がいっぱいですよという方はぜひ、今回のスートラも、サンスクリット語で読みましょう。続けて読んでくださっている方、慣れ具合はいかがでしょうか。楽しんでもらえているといいな。
もう1つの心の作用を静止する方法、ヴァイラーギャ(離欲)についてに話は写っていきます。。内容かのヒントはすでにありましたが、どういうことなのか。次回のヨーガ・スートラ第1章15節はこちらから⇩
※ 本記事の参考文献はこちらから
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