レジリエンスを求める会社ほど、壊れているものを直さない
僕はこれまで、経営者やリーダーの内面を支援する仕事をしてきました。そして、今でも日々、それらの方々と対話をしています。
組織の中で何かがうまくいかないとき、その人は何を恐れているのか。何を手放せずにいるのか。どのような思考や行動のパターンが、目の前の状況をつくり出しているのか。
本人の内側に問いを向け、見方やあり方が変わることで、現実が動き始める場面を何度も見てきました。
ですから僕は、内省することには力があると思っていますし、他者の内省をガイドする力も相当にあると思っています。
でもね、最近、少し怖くなることがあります。
本人の内面へ問いを返すことによって、本来は組織や制度の側が引き受けるべき問題まで、その人の成長課題にしてしまってはいないか、という問題意識。
本人が自分を見つめ直し、しなやかさを取り戻し、ご自身の軸を立て、また働けるようになる。
支援としては、うまくいったように見えます。
僕自身も、そこで仕事ができたような気になってしまう。
ただ、その人が回復して、また以前のように働けるようになったとき、組織の側では何が変わったのでしょうか。
もしかすると僕は、人を支援することで、壊れた組織がそのまま動き続けるのを手伝ってきたのかもしれません。
たとえば、ある管理職が疲弊していたとします。
上からは変革を求められ、下からは丁寧な対話を求められる。人は減っているのに、会議と報告は増えている。正式な制度だけでは仕事が回らないので、自分で資料をつくり、関係部署へ根回しをし、曖昧な部分をその都度のみ込んでいる。
本人は、なんとか踏ん張っている。
でも、あるところで動けなくなる。
そこで会社は、対話の相手を斡旋し、いったんガス抜きをして、レジリエンスを高める支援をする。本人も、自分の思考のクセや感情とのつき合い方を学び、少しずつ元気を取り戻していく。
そして、同じ場所へ戻っていく。
人は回復した。
でも、その人を疲弊させた仕事のつながり方は、ほとんど変わっていない。
人が回復するほど、制度は壊れたままでいられる。
レジリエンスという善意が、結果として、組織の壊れを見えなくする補修材になってしまうことがあります。
ちょっと、本人に背負わせすぎかもしれません。
では、なぜ会社は壊れているものを直さないのでしょうか。
「経営者や人事が無責任だから」というわけではないと思っています。
皆様、本当に一生懸命課題に向き合っていらっしゃることを僕は知っています。
ただ、多くの場合、壊れている場所が見えていないのだと思います。
そこで「もっと俯瞰して全体を見なければならない」という話になります。
経営視点を持つ。視座を高める。部分最適ではなく、全体最適で考える。システムの全体をみる。
どれも、間違ってはいません。
でもね、僕はここにもう一つ、落とし穴があるように思うのです。
僕らが「全体を見る」と言うとき、多くの場合、高い場所から組織を見渡すことを想像します。
組織図、業務フロー、評価制度、サーベイ結果、KPI。
きれいに整理された情報を並べ、その背後にある全体構造を理解しようとする。
ところが、そこで見えているのは、すでに整理された後の会社です。あるいは、人がイメージの中で捉えた全体像とも言えます。
実は、そこには見えていないものがたくさんあります。
誰かが非公式に行っている確認。制度と現場の矛盾を埋める根回し。入力しにくいシステムを補う手元のExcel。会議では言えないことを引き受ける、廊下やチャットでの短いやりとり。
制度の潤滑油として会社を実際に動かしているものの多くは、全体図からこぼれ落ちています。
つまり、全体を見ようとして高い場所へ上がるほど、誰かが低い場所で丁寧に縫い合わせているものが見えなくなる。
そんなことが起きます。
少し哲学の話をします。
アクター・ネットワーク理論、通称ANTと呼ばれる考え方があります。
この見方では、組織や制度という大きなものが、最初からどこかに存在しているとは考えません。
人、規則、会議、書類、システム、数字、役職、慣習、恐れ、善意。
そうした人間と、人間ではないもののつながりによって、その都度「会社」というものがつくられていると考えます。
会社という実体が先にあり、その中で人やモノが動いているのではない。人とモノのつながりが絶えず編み直されることで、僕らが「会社」と呼ぶものが成立している。
この考え方に立つと、現場の小さなほころびは、全体から切り離された個別の問題ではなくなります。
承認がいつも遅れる。
特定の人が休むと、仕事が止まる。
会議では決まったはずなのに、現場では動かない。
誰も頼んでいないExcelによって、まるで薄氷の上のように仕事が回っている。
こうした場所では、普段は背景に沈んでいる「仕事のつながり」が、むき出しになります。
何らかのほころびは、誰か個人の失敗ではなく、「うまく機能していない仕事のつながり」として現れている。
ほころびは、ふだん見えない組織の全体へ入っていく入口でもある。
ですから、制度を直すときに必要なのは、最初に全体像を完成させることではないのかもしれません。
まず、目の前で起きている一つの不具合にとどまる。
なぜ、この人がここまで疲れているのか。
この人は、公式には存在しない何を補っているのか。
どの制度と、どの現場のあいだを翻訳しているのか。
この人が踏ん張るのをやめたら、何が止まるのか。
そうやって関係を一つずつ辿っていく。
すると、目の前のほころびを通して、組織の姿が徐々に立ち上がってきます。
全体は、上から見渡すものではなく、ほころびから辿っていくもの。
視座とは、高さではなく、全体へのアクセスの仕方なのかもしれません。
ただし、ほころびを見つけたからといって、元どおりに縫えばよいわけでもありません。
それでは、同じ制度を延命するだけになることがあります。
誰かの善意に頼っていた接続は、もう切った方がよいかもしれない。
一人の管理職が引き受けていた翻訳を、別の仕組みに分けた方がよいかもしれない。
そもそも、続ける必要のない仕事だったと気づくかもしれない。
必要なのは、壊れる前の状態へ戻す「修理」ではなく、つながり方そのものを変える「編み直し」です。
そして、もちろん、人にはレジリエンスが必要です。
生きていれば、思いどおりにならないことはゴマンとあります。制度を全部直してから働くというのは現実的ではありません。
人が個人技で対応しなければならないことは、まだ、たくさんある。
でも、人の回復力に期待する前に、その人が何を黙って繕い続けているのかを見る。
そこから始めなければ、レジリエンスは、人を支える力ではなく、壊れた会社を長持ちさせる力になってしまいます。
会社の全体像は、会議室の壁に貼られた図の中にはありません。
今日も誰かが黙って縫い合わせている、その糸が切れたときに、初めて姿を現すものなのかもしれません。
参考:Tony Yamadaの仕事

