寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第7回 バルカン後篇〜ドゥヴロブニク、コトルから再びザクレブへ(3)
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(3)ヴェネツィア共和国に伍した独立都市ラグーザ

“「ドゥブロヴニクはとても美しいです」とプローネクは言った。たった一度、半日しか行ったことがなかったのだが。 ”
1964年、旧ユーゴのサラエボ生まれ、ユーゴ紛争を機にアメリカに移住した作家アレクサンダル・へモンはデビュー作『ノーホエア・マン』(「バルカン前篇」ブックレヴュー参照)に散りばめた今はなき祖国への愛惜を示す記述の中で、ドゥブロブニクへの憧れと誇りをこんなふうに折りこんでいる。
実際、マルコの庭から旧市街と海に沈む夕日を眺めていると、この世にこれほど胸に沁みる夕景があるかという感慨に圧倒され、作中のプローネクが「とても美しいです」とただ一言、万感の思いを唇に乗せた気持ちがよくわかる。
90年代のユーゴ紛争後に再興され、中世の面影をほぼ完璧な形で残す街並みに渋いオレンジ色の屋根が連なる旧市街、街をぐるりと囲む重厚な城壁、打ち寄せる紺碧のアドリア海……どの時間に、どのエリアを眺めても絵になる。
街の始まりは7世紀というのが定説だ。西からアドリア海を渡ってきたローマ人がラグーサという集落(のちの海洋国貿易国ラグーサ共和国)と天然の入江に作った旧港がドゥブロブニクの起源。
13〜16世紀に地中海貿易で繁栄したラグーサは小さいながら、当代きっての強国ヴェネツィアにも引けを取らず、当時の市民の標語「自由は金より尊い」を刻んだ柱が今も港に残る。
その後1667年の大地震で壊滅的な被害を受け、1990年代には旧ユーゴ紛争で街全体が “危機にさらされている世界遺産リスト” に載るほど破壊されながら、停戦後に国際社会の支援で精力的な修復がなされ、1994年にはリストから除外。修復プロセスでは “元の姿をできる限り忠実に再現する” ことに注力されたために、ひと通り歩いたくらいでは天災や戦禍に傷ついた街であることに気づけない。
家主マルコによれば、戦争の傷跡を探す視点で少し注意深く歩けば戦争犠牲者の慰霊碑や、建物の壁面に銃痕が見つかるのだそう。

左手、塔のある建物は14〜15世紀築のフランシスコ会修道院

この美しいロマネスク様式の回廊の壁には
病める人々をケアする修道士の姿が描かれている

ドゥブロブニクの紀行本や地域文学に混じってボブ・ディラン歌詞集、
その隣に世界的に読み継がれる哲学的詩集『PROROK(預言者)』など趣味のいいウィンドウ
マルコの自宅敷地内にある貸し部屋は、ひとりで使うのにちょうどいい広さに日常生活に必要な設備と道具が整然とレイアウトされていた。バスルームはコックピットのよう。わずかな移動で食事の準備、食事や書きもの、シャワーや洗濯が楽にできる。贅沢さはないけれど隅々まで清潔で機能的、自分の生活スタイルにピタリときた。
信頼できるマルコ一家に守られたこの部屋のおかげで、歴史地区(旧市街)まで200段以上はありそうな石段の昇降もなんのその。と、張り切っていたわりには、このあとここで滑って足を骨折してしまったけれど。
旧市街地は1日あればたいていの史跡や見どころを回れる規模だったから、リュックに500ミリの水、タオル、昼食用のパン、どこかで読めるかもしれない文庫本を入れて朝、山(=部屋)を下り、日暮れとともに山に戻る街歩きスタイルにすっかり順応した。フランシスコ会修道院、ラグーサ共和国のトップを務めた人の屋敷(総督邸)跡、ローマ帝国から人が渡ってきた時代から今日のドゥブロブニクに至る生活様式を伝える民族学博物館などをじっくり観て回る。
疲れたら港のベンチからぼんやり海を眺めて過ごした。
誰に遠慮することのない自由気ままな街歩きは、読書への没入と同じように人生の重圧から心を解放してくれる。加えて、60歳を超えて感ずるようになった老い先不安まできれいさっぱりアドリア海の波間にぶん投げさせてくれた。




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