物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 2
-レン-
エルアグアへの航路は快適だった。空は澄んだ秋晴れで、遥か先まで視界が効く。風も穏やかな追い風だ。ワイへ着いてからも、前回パキラと二人で訪れた時とは違って門番の対応も整っており、あっという間にエリカの待つ雨乞いの宮へと案内された。
エリカは先日よりもやや寛いだ様子でレンを迎え入れた。やはりエリカにとってもパキラと対峙するのにはそれなりの気負いが必要なのだろう。
「お忙しい所お呼びだてして申し訳なかったわね。来てくださったことに感謝するわ」
使用人がお茶と茶菓子とを出して去るとエリカはゆったりと切り出し、どうぞ召し上がってと勧める。そして、レンが用件を訊こうとするのを先回りするかのように、少し世間話をしましょう、と続けた。レンは仕方なく黙ってカップに口をつける。
「先日、貴方がパキラと二人で現れた時には正直驚いたわ」
「それは何故でしょう」
「あのパキラにとって貴方がそれをお願いできる存在であったことがひとつ。もうひとつは貴方がそれを受けたことがひとつ。どちらかと言えば後者の方が驚いたかしらね。パキラと私が会うといえば政治の話よ。それに貴方が積極的についてくるようには思えなかったの」
「……積極的かどうか分かりかねますが。あの時ポハクには翼を持つ者は私しか居ませんでした。二人で来ざるを得なかったともいえます」
「ふふ。パキラはね、貴方が嫌がるようなら最初からお願いしないわ。意外とそういうところは気を遣う男なのよね」
やはり、下手なごまかしは見透かされている。あの時レンはむしろ積極的に手を挙げた。そうすべきだと思ったからだ。
「少しは興味を持ったかしら?」
「何に……でしょう」
「政治」
「興味を持ったというよりは、避けて通れないと感じたといったところでしょうか」
「それでもいいわ」
エリカは機嫌が良さそうだった。
レンがそのような話に聞く耳を持ったと知ったからか、エリカがこれまでワイに対してやってきた数々の政策について説明し、現在取り組んでいる医院の本格始動に向けての進捗を話してくれた。確かに、エリカの代だけで今話に聞いたことを全て成し遂げてきたのだとすると、随分と精力的だ。優秀な族長ではあるのだろう。
ひととおり話し終えると、エリカは意味深な笑みを浮かべた。レンは心の中で身構える。
「エンジュは……」
やはり、族長についての何かを聞き出すつもりなのだろうか。自分がエリカにひとりで呼び出されて何か訊かれるとしたら族長のことだろうと考えていた。
「エンジュが族長としてやったことで、貴方にとって一番印象的だったことは何?」
「私の理解が追い付くようになってからはあまり大きな変化はありませんが、族長になった当初は不要と感じた掟を色々と廃止したと聞いています」
「昔のことはいいわ。私はマカニの先代も知っているの。勿論入れ替わりの時のごたごたも聞いた。陛下に対する態度と同じよね。エンジュにとっては常識なんて関係ないのだわ。……さあ、貴方の知っているエンジュについて聞かせてちょうだい」
エリカの視線は真正面からレンの眼をまともに射た。動揺を見せずに受け止めるのに精いっぱいで、見返すことはできない。思わず腹の辺りに力が入る。
「……私の知っているマカニの族長は、大々的に何かを大きく変えようとしているようには見えません。ただふと気がつくと、それまで当たり前だと思っていた何かが変わっていたりする。いつもそのさりげなさと軽やかさに驚かされます」
例えばマカニの族長だけに受け継がれてきた掟についてもそうだ。族長は何でもないことのようにシヴァやレン、更にはカリンやスグリにまでその内容を話してしまった。族長が何でもないことのようにやってのけてしまうのでその重さに気がつかないが、改めて考えると自分では到底成し得ないように思う。
カリンをレンの妻としてマカニに受け入れてくれたこともそうだ。当時はまだ現上皇が種族の交流を促進し始める前だった。
族長の継承については話せないので、代わりにカリンのことを例として話すと、エリカは漸くレンの眼から視線を外し、愉快そうに笑った。
「なるほど、よく分かったわ。エンジュのやり方は、少なくとも村人には受け入れられているのね。ずっと疑問だったのよ。何故シヴァ殿や貴方のような人物が育つのか。エンジュを見ていてそうなるもの?」
「少なくとも私は族長やシヴァのようになりたくて今が在ります」
「ふうん。それは少し、羨ましいわね」
エリカはお茶をひと口飲むと、少し考えこむように視線を明り取りの窓の方へと移した。レンも積極的には口を開かないので、自然とその場に暫くの沈黙が訪れる。
窓の近くに鳥でも居るのか、小さな影が小刻みに動く。それを見るともなしに見ていると、エリカが再びゆったりとした口調で話し始めた。
「レン殿は、何の為にエンジュやシヴァ殿のようになりたいのかしら?」
マカニを守る為。
レンの答えは決まっていたが、何故かエリカにそれを伝えるのを躊躇する自分が居た。しかし他に適当な言葉が思いつかず、最終的にそれを素直に伝えた。
「マカニを守る為、か」
くすりと笑ったエリカに、可笑しいでしょうか、と思わず少し棘のある声が出る。
「いえ、ごめんなさい。あまりにも素直だから。勿論、素直なのは悪いことではないのよ。寧ろ、益々貴方に興味が湧いた」
面白がられているようにしか思えないのだが、そう口に出すのは止めた。
「貴方、ワイに来るつもりはない?」
代わりにエリカが口にした言葉が何を意味するのか、レンは一瞬分らなかった。疑問符すら口にできない。
その様子を可笑しそうに見遣ったエリカはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「……私はマカニが好きなのです」
また素直だと馬鹿にされても構わない。それしか言いようがなかった。エリカは余裕の笑みでその返事を受け止める。
「解っているわ。貴方はマカニが好きでマカニを守りたい。でもね、マカニの中に居ることだけがマカニを守ることに繋がるわけではないと思わない?」
「え?」
「例えば貴方がワイの族長になれば、私がエンジュにするように、マカニにとって都合の悪いことをする族長が減る」
エリカは自分のことなのにまるで他人事であるようにそれを語る。確かにエリカの言うとおりではある。族長のみならず、カリンだってしばしばワイの出方を気にしているのだ。
しかし、とレンは思い直す。エリカの巧みな口車に乗ってはならない。これまで終始穏やかに話を進めてきたのは、この瞬間の為に他ならないのだろう。
「万が一ワイの族長になれば、ワイ族をないがしろにするわけにはいきません。ワイとマカニの利害が一致しなければマカニよりワイを優先しないわけにはいかないでしょう」
「そのとおりね。でも、そこを予め利害が一致するように持っていくのが族長の手腕でもあるのよ」
「私にはその手腕はありません」
「何も今それを持ち合わせていろとは言っていないし、今すぐ族長になれと言っているわけでもないわ。とりあえず今日はひとつの選択肢としてこれを持って帰ってちょうだい。貴方とマカニの未来の為に、ね」
目的を果たした後のエリカは、益々機嫌良さそうに全く関係の無い世間話をした後でレンを解放した。
一方のレンは、まんまと悩みの種を植えつけられて悶々としながらエルアグアの空へ舞い上がった。シヴァの言ったとおりだった。しかもこれは、すぐに族長やシヴァに相談できるような内容でもない。少なくとも自分なりの見解は持って帰るべきだろう。
空に上がったものの進路を決めかねて、暫くエルアグアの上空を旋回したレンの翼は、風に流されるまま少しずつ西に進路を取っていた。このままマカニへは帰れない。幸いまだ早い時間だ。
パキラは快くひとりで訪ねて来たレンを迎え入れてくれた。
「突然申し訳ありません」
「いや。イベリスは呼ばなくて良いのだな?」
「はい。本日はパキラ様にお会いしたくて参りました」
「もしかしてワイからの帰りかな?」
絶句するレンをパキラは愉快そうに笑って、自ら気に入りの応接の間へ案内した。
「で? エリカ殿に何を言われた?」
おそらく既にパキラにはある程度話が分かっていたのだろうとは思うが、レンが改めて今エリカと交わしてきた話を一から話すのを、相槌を打ちながら、先回りもせずに聞いてくれた。
不思議なことに、順序だてて最初からパキラに話してしまうと、それだけである程度自分の気持ちが整理され、心が軽くなるのを感じた。
「……このような話題は、マカニへ帰ってただ族長に報告することでもないと思い、かといってすぐに自分の気持ちの整理がつくものでもなく、気がついたら此方へ足が向いていました。話を聞いていただいただけでも有難く思います」
「エリカ殿も相当焦っているな」
パキラがくつくつと笑う。
「そう……なのでしょうか」
「エリカ殿にしては論理が破綻している」
レンにはその綻びが分からない。パキラは両の手の指を突き合わせてレンの方へ身を乗り出すと、ゆっくり噛んで含めるように話し始めた。
「いいか、レン殿。ひとつはレン殿がご自身でも気づかれたように、ワイの族長になればワイをないがしろにできないから、必ずしもマカニの利にならないかもしれないというのがあるな。それはマカニ以外のどこの族長になっても同じだ。そしてもうひとつ……」
パキラは口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「どうせ他の所の族長になるならば、ワイではなくポハクを選ぶべきだ」
「ああ……」
「ワイは人口はそれなりに多いが武力は持たないから防衛は国に頼らざるを得ない。ワイが何か仕掛けようと思ったら国が黙っていないだろう。今ワイが国と対等にやり合ってるのは、紛れもなくエリカ殿の知恵一本のおかげだ。国の食糧庫としての地位はあるが、それも先日の旱魃のようにいつも安定しているわけではない。しかもマカニは食料はほぼ自給自足だから、ワイが食料を盾にとっても痛くも痒くもない。一方のポハクは、まあ治安は安定しないが、人間が生きていく上で必要な商流は全般的に制しているし防衛能力もある。マカニだって商流を完全に止められたらさすがに痛いだろう。マカニの息の根を止めようと思ったらワイよりポハクの方が可能性は高いな。それならばレン殿もワイよりポハクの族長になってその流れを止めるべきだ」
色々な感情が複雑に交錯して何と返してよいか分からず、レンは思わず笑いを漏らしてしまった。
「失礼しました、あの……」
「こういうのは笑うくらいがちょうど良い」
そう言ってパキラが自ら笑うので、レンは益々どう返してよいか分からなくなったが、此処へ来るまでの悶々とした気持ちはすっかり消え失せていた。さすがにあの場でレンがエリカに対して、ワイの族長になるくらいならばポハクの族長になりますとは返せなかったと思うが、パキラの言うことはもっともだった。
「レン殿、昼食は?」
「未だですが……」
「イベリスは居ないが、ご一緒に如何だろう」
レンは有り難く誘いを受けることにした。
食事の間は先日のマカニでの話など他愛のない話をしていたが、そろそろ食事も終わるという頃、パキラが少しだけ真面目な表情になって尋ねた。
「マカニへ戻れそうかな?」
「はい、おかげさまで。……本当に、何と感謝すれば良いのか」
「エンジュには、何と報告する?」
「全てそのまま話します。私の迷いも、パキラ様の所へ寄らせていただいたことも。そしてその上で、やはり少なくとも今のところはマカニを離れるつもりはないということも。パキラ様のおかげです。自分の気持ちが揺れたままだったら話せなかったと思います」
「そうか。ではついでにエンジュに、ポハクはいつでもレン殿を迎え入れる準備があると伝えてくれ」
パキラは本気とも冗談ともつかない口調でにやりと笑う。不思議なことに、レンにとってそれは戸惑いをもたらさず、不快でもなかった。パキラは更に、それから、と付け加える。
「次にエリカ殿に同じことを言われたら、パキラにも同じようにポハクに誘われたと言えばいい。……しかし、それを聞いたエリカ殿の顔は俺も見てみたいな」
愉快そうに笑ったパキラに、再度昼食をご馳走になった礼と話を聞いてくれた礼を伝え、レンはパキラの館を後にした。
ポハクの午後は相変わらず灼熱の太陽が照らしていたが、今日ばかりはそれも疎ましくはなく、レンはその太陽に背中を押されるようにして一路マカニに向かって羽ばたいた。
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