物語の欠片 象牙色の城郭篇 9
-カリン-
カリンが訪れた時には不在だったディルは、他の側近が教えてくれた通り程なくすると戻ってきた。厨房係に夕食の指示をしてきたのだという。
執事室とはいっても、執事という位を持つ者はそう多くない。今は五名程だろうか。その他の多くの側近たちは執事の指示の元に動いている。
ディルも、それからカリンを嫌っているバジルも古くからの側近であり、執事の位を有している。バジルについては戴冠式の際に狼藉を働いた罪で一時期執事の位を剥奪されていたが、最近戻ったようだ。
多くの側近を取りまとめる能力はそう真似できるものではなく、ひとりでも欠けると他への負担も大きいのだろう。
とはいえ、バジルはほとんど上皇と行動を共にしており、執事室に居ることも、カリンが出くわすことも滅多に無かった。
上皇に呼ばれた時にはバジルにも挨拶をするが、カリンを目にすると片方の眉を上げるだけで答えてはくれない。そのような態度に、ことあるごとに注意をする上皇の言葉も、あまり効果が無いらしい。
「お待たせして申し訳ありませんでしたね。」
雇用の形態は異なるものの、執事は上級官吏相当なので、中級官吏であるカリンよりも位は上だが、ディルは誰にでも敬語を使う。年老いてはいるが背筋は未だにピンとしており、所作には隙が無かった。
「いえ、こちらこそお忙しい時間にお邪魔して申し訳ありません。」
「私は大抵忙しくしておりますので。」
少し悪戯っぽい表情でそう言った後、ディルはおもむろにカリンに礼を言った。
「ディルさんにお礼を言われる心当たりはありません。」
「貴女のおかげで、最近時々リクニス様が城を訪れて下さるようになりました。」
「それはわたくしではなく、マカニの族長のおかげです。」
「貴女がマカニに居なければリクニス様がマカニの族長に会うこともなかったでしょう。」
「あの、ディルさんはもしかして…。」
「ええ。かつてはリクニス様にお仕えする側近でした。バジルは昔からラグラス様付きでしたが。ですから、再びお仕えすることは叶わなくとも、城でお姿をお見かけするだけで、とても嬉しいのです。」
「思いがけないことでしたが、ディルさんのお役に立てたのならば幸いです。」
「今回は私が貴女のお役に立てるでしょうか。」
「あの、お願いということの程でもないのです。女王陛下よりディルさんが今噂になっているアグィーラの傷ついた木をご覧になったのだと伺ったので、場所を教えていただきたくて。」
「なんと、そんなことでしたか。それは尚更お待たせしたのが申し訳ない。」
「いえ、わたくしとしてはどうしても知りたかったので。」
「そうでしょうとも。…直接私が見たのはアグィーラ広場の奥です。奥に小さな池があるのをご存知ですか?あまり目立たないのですが。」
「ええ、目にしたことはあります。行ってみたことはありませんが。」
アグィーラ広場自体は城のすぐ近くである。城下町で一番広い広場であり、時折参加者の多い城の式典でも利用するので、何度も行ったことがあった。しかし敷地が広いので、奥の雑木林の方までは行ってみたことが無い。
「私は家が近いので、散歩経路なのです。うちの犬があの辺りが好きでして。」
アグィーラには犬を飼っている家が多い。人間よりも嗅覚や聴覚が鋭いので魔物除けになるからだ。
その犬がある日の散歩の途中で落ち着かない様子を見せた。落ち着かせようと近づき、撫でてやっている最中に傍らの木の傷に気がついたのだという。
「明らかに人がつけたような傷でした。丁度、しゃがみこんだ時に目線に入ったのです。大人の腰くらいの高さでしょうか。普段だったら見逃してしまったかもしれません。何と申しますか、剣で切り付けたというよりは、ナイフのようなものを突き立てたような深い傷でした。そして、よく見ると同じ木に、同じような傷が三箇所あったのです。」
「そんな傷が、三箇所も…。」
その木のことを思うと、自分の身が傷つけられたかのように心が痛んだ。
そしてそのような木が、このアグィーラの城下町にいくつもあるのだ。今からでも遅くないだろうか。癒せるものなら癒してやりたい。
樹木はそれ自体にある程度の自己治癒能力がある。傷から新しい芽が出ることもあるのだが、勿論、傷が原因で枯れてしまうこともある。
もう日が暮れているだろう。明日の朝、出廷する前に寄ってみることに決めた。
「他の木も気になるのではありませんか?」
「え?ええ、勿論。あの、ご存知なのですか?」
「全部ではありません。ただ、自分が目にしたものですから気になって、噂が聞こえてくると耳を傾けていました。ですから何箇所かは。」
「ご存知のところだけで構いません。教えていただけますか?」
厩舎の裏手の雑木林、工房地区の外れの街路樹、孤児院の近くの公園、貴族の館が集まる一角の緑地、西側の墓地…これは外側の城門の外だ。意外と多岐に渡っている。もしかしたら被害はアグィーラだけではないのかもしれない。しかし、誰が何の目的で。
思わずその場で考え込みそうになった時、執事室の扉が叩かれ、レンの顔が覗いた。話が終わったら迎えに行くと言っていたのに思った以上に時間を使ってしまった。ヨシュアも待っていることだろう。カリンは慌てて立ち上がってディルに礼を言い、レンと連れ立って執事室を後にした。
翌朝早く、カリンはレンと一緒に家を出た。レンもマカニへ戻る前に一緒に木を見に行くことになったのだ。
ヨシュアの家は工房地区にあるため、ディルに聞いた場所の中で工房地区の外れの街路樹というのが一番近い。ひとまずそこへ行ってみることにした。
「懐かしいね。この辺りはカリンが住んでいた家の近くじゃない?」
「そう。この先の突き当りよ。」
「今は誰か住んでいるの?」
「どうかしら。アグィーラを出る時に上皇陛下にお返ししてからは行ってみたことが無いから。そもそも上皇陛下がそこを誰かから借りたのか、元々王族の持ち物かも知らないの。」
「そうか。…あ、この木かな。」
手分けして順番に街路樹を確かめながら歩いていると、レンが立ち止まった。指差す先を見ると、確かに傷らしきものが見える。近くに寄り、身を屈めて幹に触れてみる。ディルから聞いた通り深い傷のようだった。この木には傷はひとつだけ。幹の表面についた傷の長さは二インチ程だ。正確な深さは解らないがナイフか細身の短剣でつけた傷だろう。傷の位置からして、大人が腰の辺りにナイフか短剣を構え、身体ごと体当たりすればこのような傷になるだろうか。これだけでは意図は全く分からない。
「ごめんね。痛かったでしょう?」
話しかけてみるが木は何も語らない。ただ、幹に触れている手の先から言い知れない恐怖が伝わってきた。
「ああ、怖かったのね。本当にごめんなさい…。」
カリンの手が緑色の光を湛え、そっと傷口を包み込む。傷口の内側が盛り上がるように膨らみ、傷を塞いでいった。良かった。カリンの力で癒すことのできる傷だったようだ。
しかし傷が癒えてもなお、木は何も語ってはくれなかった。傷が治癒したことからも、まだ死んでいないことは明らかだ。人間に心を開くのを止めてしまったのだろう。次の季節には、花をつけないかもしれない。
次に見に行ったアグィーラ広場の木も似たようなものだった。傷を癒し終えたカリンは木の前に立ち尽くす。
いったい誰が、何の目的でこんなことを。何かの儀式のようには思えないが、ただの悪戯にしては数が多い。幾つの木が傷つけられたのだろう。深い哀しみに包まれそうになった時、近くの木の枝がざわざわと鳴った。レンがはっとしたようにカリンに覆い被さると同時に、鋭い一陣の風が吹き抜ける。
木の葉が散り、レンの翼の羽根が何枚か剥ぎ取られてひらひらと舞った。
「鎌鼬だ。」
「鎌鼬?」
「珍しいつむじ風の一種だよ。風が鋭い層になっていて鎌みたいだから。」
「この、木の傷は違うよね?」
「うん。こんな風にはならないと思う。もっと、切り付ける感じだし、さすがに幹に傷はつかないんじゃないかなあ。見ての通り、葉っぱは散るけど。でも人間の肌は傷つくこともあるんだよ。」
「レンは?大丈夫?庇ってくれてありがとう。」
「大丈夫だよ。翼がちょっと傷ついたけど、このくらいなら飛べるし、自分で繕える程度だ。」
「良かった。」
「でも、なんか嫌な予感がする。」
「嫌な予感?」
「うん。鎌鼬にはあまりいいイメージが無いんだ。カリン、約束してくれるかな。絶対にひとりで残りの木を見に行ったりしないでほしい。」
「レンのいうことは解るわ。でも、傷ついた木は必ず癒してあげたいの。早くしないと虫や菌が入り込んで木が死んでしまうかもしれない。」
この朝だけで全部の木を回ることは不可能だ。しかもまだすべての木を把握しているわけではない。
「三日後にまた迎えに来る。その日は朝から来て一日つきあうから、それまでは危ないことをしないでほしいんだ。」
ただでさえ我儘を言っているのだ。レンの申し入れを承諾しないわけにはいかなかった。何よりこの三日間で、まずは燃えてしまった文献の復元を行わなければならない。そちらが優先であることはカリンも理解していた。おそらく木の傷の謎に関わっている時間はそれ程無いだろう。
約束すると答えるとレンは笑顔を見せ、マカニへと戻って行った。今日の空は重い雲が立ち込めている。藍色の翼は、やがて灰青色の空へ吸い込まれていった。カリンはそれを見送り、城の門をくぐった。
