人生に消極的なようでいて
あるメルマガの言葉が琴線に触れて
泣いてしまう日曜日。
長いこと「主体的」「能動的」を布教してきたと思う。
子育てスキルのテーマでも「自分で決められる子を育てる」。
キャリアの話でも「ビジョンを明確にする」。
コミュニケーションでも「NGをケンカせずに表明する」。
布教をやればやるほど、消極的でいたい人が目立つことになりそこにちょっとした対立が生まれていた笑
東北に引っ越してからは、ますます自分と周囲のギャップを感じることが多かった。
東北の人は優しい。
できる人ほどがまん強い。
よくもわるくも、かもしれないけどとっても日本人的で、人を巻き込んで何かしようというような人とはあまり会ったことがない。
東北の人について感じることは、もちろん私見であれこれやろうとするわたしの体験の範囲で、ということなのだけど、東北の人自身に「こういうとこないですか?」と聞くとだいたい「そういうとこありますね」とニヤリとしてくれる。
ディスってないのであしからず。
誰でも自分を基準にして人を理解する。
わたしは、どこにいっても「みんなはわたしと違うみたい」と感じながら生きているほうなので、自分の中にあまり日本人的要素がないことは骨身にしみている。
文学的表現ではさ、「わたしはみんなと違うみたい」となるほうが一般的だと思うのよね。
でもわたしにとっては「みんなのほうが、わたしと違う」なのでやっぱり自分が中心なのよね。
それが裏を返すと「個」が強いということだし、能動的であるということでもある。
冒頭に戻って、朝のメルマガは響月ケシーさんの数日前の一通だった。
「選んでいるようでどうしようもなく選ばされている」
という視点が生まれたの。
おお…。
確かに…。
つまり縁とか運とか流れとか、自分のコントロール外の要素も人生には満ちている。
生理的なことで変わったりもする。
「生理的なこと」だって自分のことでありながら、自覚があっても選びきることなんてできないわけで、「主体的」である、なんて幻のようなものかもしれない。
そして逆に、なんにも選んでないように見えて、その受け身さ自体が自分の選択といえる。
選んでいるのか選んでいないのかすら、見方によって逆転するということなのだ。
だからね。
ああこれも心理学を傍らに置いているとたびたび、何度も納得することになる、「あるがまま」がベストという結論。
誰かをどうにかしようとしなくていいし、自分をどうにかしようとしなくてもいい。
子どもを「こう育てよう」としなくていい。
パートナーを「成長させよう」とか思わなくていい。
うまくできない自分を嘆かなくていい。
消極的でもいい。
とにかく動きまわって空回りしたっていい。
どんな自分でも尊い。
子どもも、パートナーも、みんなね。
たまに見にいくケシーさんのnote、今日もグッときました。
わたしは4年もたっているのに離婚のことまだ言葉にできないからなあ。
