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【愛知】日本初のプロ野球試合、今はそのまま自動車学校 | 鳴海球場跡(前編) | 名古屋市緑区 | 2008年アーカイブ


嗜好の分散化などにより、昔ほどの勢いはなくなったとはいえ、プロ野球はいまなお高い人気を保ち続けている。その日本プロ野球史において、最初にプロ球団同士の試合が行われた場所が、今回紹介する鳴海球場である。

鳴海球場の歴史

<沿線開発で生まれた球場>

昭和2年(1927年)、当時の日本にはまだ現在のようなプロ野球は存在しておらず、野球人気の中心は大学野球や中等学校野球、現在の高校野球であった。
愛知県内で路線網の拡張を進めていた愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)は、沿線開発の一環として人気の高い野球に着目し、昭和2年(1927年)10月17日、総工費36万円を投じて、知多郡鳴海町(現在の名古屋市緑区)に新たな球場を竣工・開場した。

当初は「愛電球場」として開場し、その後「鳴海球場」の名称で広く知られるようになったこの球場は、当時、東京六大学野球の舞台であった神宮球場全国中等学校野球大会(現在の夏の甲子園)の舞台であった甲子園球場と並び称される本格的な野球場であり、名古屋周辺における野球熱の高まりを受けて建設された施設でもあった。

この球場は、両翼106メートル、中堅約136メートルという、現在のプロ野球本拠地球場と比べてもなお広大なフィールドを備えていた。開場当初の収容人数は約2万人で、メインスタンドには鉄製の屋根がかけられ、さらに内野には甲子園球場「アルプススタンド」に対抗する形で、「伊吹スタンド」と称される観客席も設けられた。

その後、昭和12年(1937年)の改修工事や戦後の増設を経て、スタンドはさらに拡張された。最終的には公称4万人規模の収容能力を持つ球場となり、鳴海球場は戦前から戦後にかけて、東海地方を代表する野球場として存在感を示していった。

<日米野球の開催>

昭和6年(1931年)、同9年(1934年)には、アメリカから全米選抜チームが来日し、鳴海球場でも日米野球が行われている。昭和6年は東京六大学の選手が出場したが、昭和9年は学生野球統制の影響もあり、六大学の選手による出場は実現しなかった。そのため、大学OBなどを中心とした日本選抜チームが急きょ編成された。
その後、この時代背景の中で編成された選抜チームが、後の日本初のプロ野球球団「大日本東京野球倶楽部」、現在の読売ジャイアンツへとつながっていくところは、歴史の面白さだろう。

この日米野球には、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグなど、後世まで名を残す大リーガーも参加していた。そして1対0で敗れはしたものの、沢村栄治が名だたる大リーガーを相手に好投し、一躍名を挙げたのもこの日米野球であった。ただし、沢村が好投した試合の舞台は鳴海球場ではなく、静岡の草薙球場である。

<初めてのプロ野球>

そして昭和11年(1936年)2月9日、鳴海球場で日本初のプロ球団同士の試合が行われた。対戦したのは、名古屋金鯱軍東京巨人軍である。初戦は地元の金鯱軍が10対3で勝利したが、続く2試合は8対3、4対2で巨人軍が勝利している。

巨人軍はご存じのとおり、読売ジャイアンツであるが、名古屋金鯱軍の名を知る人は、よほどのプロ野球好きでない限り多くはないだろう。名古屋金鯱軍は昭和11年に結成された名古屋のプロ野球チームで、昭和16年(1941年)に他球団へ吸収合併された短命の球団である。合併先の球団も後に解散しており、現在の中日ドラゴンズとは直接の関係はない。鳴海球場は、この金鯱軍の本拠地として合併まで使用された。

<戦局の悪化によるプロ野球中断>

戦局が悪化すると、野球を取り巻く環境も急速に厳しくなっていった。アメリカ由来のスポーツである野球は「敵性スポーツ」と見なされ、球団名や用語の日本語化も進められた。職業野球は昭和19年(1944年)まで公式戦を続けたものの、同年11月には翌年の公式戦休止が決定される。

そして多くの野球人たちも、プロ、学生、社会人を問わず応召し、グラウンドから戦場へと送られていった。巨人沢村栄治をはじめ、戦地で命を落としたプロ野球選手も少なくない。

鳴海球場も、メインスタンドを覆っていた鉄傘やバックネットなどの金属類は供出され、グラウンドは高射砲の弾薬置場として使われたという。かつて多くの観客を集めた広大なグラウンドは荒れ、球場としての機能は失われていった。

戦後、野球は比較的早く復活する。昭和21年(1946年)からプロ野球のペナントレースも再開された。しかし鳴海球場は、しばらく占領統治した米軍のレクリエーション施設として優先的に使用されることになり、戦前のように自由に野球場として使える状態ではなかった。

<中日ドラゴンズの本拠地球場に>

その後、鳴海球場金鯱軍と同じく名古屋を地元とする中日ドラゴンズの本拠地球場として使われた。しかし昭和23年(1948年)12月、中日スタヂアム(現在のナゴヤ球場)が突貫工事の上完成すると、中日の主な本拠地はそちらへ移り、鳴海球場で行われる一軍公式戦は次第に少なくなっていった。

昭和25年(1950年)、広大なグラウンドで本塁打が出にくかったため、甲子園球場にならう形でラッキーゾーンが設けられた。これにより、両翼は106メートルから約91メートル、中堅も約123メートルに短縮された。
昭和26年(1951年)、名古屋鉄道ドラゴンズの経営に参加すると、球団名は一時「名古屋ドラゴンズ」と改められた。名鉄直営である鳴海球場での開催試合増加も見込まれ、スタンドをはじめとする大規模な改修も行われた。しかし、交通の便の悪さもあってか、期待したほど多くの試合は行われなかったようである。

同年8月、木造だった中日スタヂアムで火災が発生し、球場は全焼した。開催予定だった試合は他球場へ振り分けられ、鳴海球場でも数試合が行われた。しかし、これはあくまで代替開催であり、翌年に中日スタヂアムが鉄筋コンクリート造で再建されると、鳴海球場での試合数は再び減少した。

<自動車学校へ姿を変えた球場>

昭和28年(1953年)、名鉄名古屋ドラゴンズの経営から撤退すると、鳴海球場で行われるプロ野球公式戦も終わりを迎える。同年5月3日には、名古屋ドラゴンズ阪神タイガース戦が行われ、これがこの球場における最後のプロ野球公式戦となった。

やがて名鉄は、モータリゼーションの進展と免許取得者の増加を見込み、球場経営からの撤退と自動車学校の開設を決定する。昭和33年(1958年)10月末、鳴海球場は30余年の歴史に幕を下ろした。翌年、スタンドの一部を取り払い、グラウンド跡に教習コースを設けて「名鉄自動車学校」として再出発した。

当初はメインスタンドも残されていたが、後に撤去された。ただし現在でも、敷地の形状や一塁側・三塁側スタンドの一部に、球場時代の痕跡を見ることができる。

平成19年(2007年)の改修時には、鳴海球場誕生80年を記念して、教習コース内に金色のホームプレートが設置された。


協力:名鉄自動車学校さま


航空写真(国土地理院)

昭和21年(1946年)の航空写真。
プロ野球が再開された年であるが、鳴海球場は主に米軍兵がレクリエーション広場として使用していた。


昭和24年(1949年)
この翌年、ラッキーゾーンが設けられ、翌々年に観客数増加の改修工事が行われる。21年と比較して内野の土の入れ方が使用されているグラウンドっぽくなっている。


昭和33年(1958年)
閉場直前(5月撮影・10月閉場)。
写真を見ると、ホームベース周辺からバックネット方向にかけて地面が掘り返されたようになっており、閉場前とはいえ、すでに野球場として使用されていなかったのかもしれない。

内野スタンドの前面がグラウンド側へ張り出すような形となっており、観客席が拡張されていたことがうかがえる。


昭和34年(1959年)
閉場翌年の航空写真。メインスタンドはまだ撤去されていない。ただし教習コースを確保するため、各スタンドのグラウンド側部分、特に三塁側は解体されている。


昭和44年(1969年)
メインスタンド、及び一塁ホーム側のスタンドが解体されている。


昭和52年(1977年)
コースに若干のレイアウト変更が行われているが、大きな変化はなし。


平成19年(2007年)
この年、講習コースを中心に大規模な改修が行われたが、球場としての形状やスタンドに大きく手が加えられることは避けられた。


令和8年(2026年)
Google Earthより。
球場の形状、スタンドの設置状況。


球場時代の写真

開場当時の絵ハガキ。
当時は何かできるとすぐ絵葉書にしていたので、意外と写真が残っている。外野側からホーム方面を臨んだものだが、後に拡張されるスタンドは当然まだない。

「緑区史」

球場外側の丘から撮影された写真。
こちらもスタンド改修前。広大なグラウンドぶりが見て取れる。

「愛知100年写真集」 中日新聞社

昭和6年の日米野球入場券。
主催の新愛知新聞社は現在の中日新聞の前身。

「愛知100年写真集」 中日新聞社

鳴海球場で撮影された、開設当時の名古屋軍(後の中日ドラゴンズ)。

「愛知100年写真集」 中日新聞社

昭和12年(1937年)愛知県中等学校野球大会の様子。

「緑区史」

観客が外野までぎっしり詰まった最盛期の鳴海球場
写真中央やや右がホームベース部分であり、かなりファールゾーンが大きな球場であることが分かる。

「緑区史」

外野側の丘から無料観戦する人々。

「緑区史」

鳴海球場誕生80年を記念して、平成19年に設置された記念ホームプレート。若干の説明板も用意されている。
コース内なので、自動車学校の職員の方に案内してもらい撮影。


Google航空写真から切り取った記念ホームプレート部分。
当時のホームベース付近とのことであるが、航空写真で見る限り、もう少し南東側だったと推測される。


結構まとまった雨が降る日だったが、金色ホームベースは貧乏人の自分には眩しい。
この数日前に元巨人宮本「ズームイン サタデー」の収録に訪れたとのこと。撮影した翌日、テレビを見たら放映されていた。


説明板。
知る人ぞ知る、国内で最初にプロ球団同士の試合が行われた球場である。こうして振り返ると華々しい歴史を持つ球場だが、当時は現在のように本拠地で試合を重ねるという考え方がまだ定着しておらず、また地理的な不便さもあって、鳴海球場で行われたプロ野球の試合はそれほど多くなかったようだ。


ホーム跡後方の駐車場二階から外野方面を撮影。


ホーム後方から、三塁側スタンド方面。


上記同地点からセンター方面。


上記同地点から一塁側スタンド方面。


三塁ホーム側スタンド
これが「伊吹スタンド」と名付けられたスタンドの跡。
恐らくもう少し前の部分までスタンドはあったと思われる。となると、現在一階部分はスタンド内通路跡ということになるが、確証を得た話ではない。


こちらも改修時に追加された三塁外野側スタンド
一階は車庫として用いられている。更に奥に見える建物は当時のものではないらしいとのこと。


一塁側スタンド望遠。
こちらは昭和12年改修時に追加されたスタンド。

一階は待合室や職員控室、警備事務所等として用いられている。
最近の待合室には女性専用というのもあるらしい。


一塁側スタンドの一階部分。
通路の屋根を支える鉄骨は後付けと思われる。


次回はスタンドへ。

<つづく>


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