見出し画像

<S2第1部・私の位置が揺らぐ> 第1回 森は 人間より先に「私たち」だった(8/15改稿)

――宮沢賢治『狼森と笊森、盗森』を読む

Season1第9回で、私は『狼森と笊森、盗森』を、土地の時間を受け取り、未来へ返すための作品として読みました。

人間が来るより前に、岩手山の噴火があり、灰が積もり、草が生え、柏や松が育ち、森ができる。人間は、その長い時間の途中から入ってきます。

Season1で大切にしたのは、そうした時間を感じ取ることでした。Season2では、そこからもう一歩だけ進みます。

世界を別の仕方で感じられるようになったとき、私たち自身は、どこに立っているのでしょうか。

土地を見て、使い方を決める側でしょうか。森や水や動物は、人間の生活を支える背景でしょうか。「私たち」という言葉は、人間だけで閉じてよいのでしょうか。

今回考えたいのは、自然との調和を称えることではありません。土地を選び、利用し、判断する側に立っている人間が、その自分の位置をどう問い返されるのかです。

ただし、ここで先を急がないようにしたいと思います。

『狼森と笊森、盗森』は、森の意思を人間が完全に理解する物語ではありません。森と人間が対等な契約を結ぶ物語でもありません。まして、現代の制度や権利の答えを賢治が先に示していた、と読む必要もありません。

作品にあるのは、もっと素朴で、もっと不安定な関係です。人間は森に問いかけ、森は答えます。けれども、その関係は一度で決まりません。毎年のように何かが起こり、そのたびに人びとは、森へ入り直します。

Season2の最初の一歩は、そこから始めます。

(Season2では、文末に「今回の要点」を置きました。全文を読む時間のない方は、これを読むだけでも理解していただけると思います)

1 作品の場面

人間は、森へ許可を求めます

物語の舞台は、小岩井農場の北にある四つの森、狼森、笊森、黒坂森、盗森です。そして、この物語の時間は、人間から始まりません。

最初に語られるのは、岩手山の噴火です。灰が土地を覆い、草が広がり、柏や松が生え、やがて四つの森ができます。その長い時間を知っていると語るのは、黒坂森のまんなかにある大きな巌です。

人間は、あとからやって来ます。四人の百姓は、森に囲まれた野原を見て、ここなら暮らせそうだと考えます。水がある。日当たりもよい。畑も起こせそうだ。土もひどく悪くはない。

ここには、人間の確かな観察と判断があります。暮らすためには、土地を見なければなりません。作物が育つか、水が得られるか、冬を越せるかを考えなければなりません。賢治は、その営みを否定していません。

しかし、場所を決めた百姓たちは、そこでただ土地を取り囲んで仕事を始めるのではありません。森に向かって、「こゝへ畑起してもいいかあ。」と尋ねます。森は、「いいぞお」と答えます。

家を建てること、火をたくこと、木をもらうことについても、人びとはそのつど森へ問いかけます。この場面は印象的です。

ただし、これをそのまま現代の「同意」や「契約」の物語へ置き換えると、作品から離れてしまいます。森の返事が、人間の制度でいう許可と同じものなのかはわかりません。

重要なのは、もっと手前にあります。

人びとは、自分たちが暮らすと決めた土地であっても、利用を始める前に森へ呼びかける。

人間の判断だけで、世界との関係が完了していないのです。

2 通常の読解では見落とされる転倒

森は、許可を与えるだけの従順な自然ではありません

この作品を「自然との共生」の美しい物語としてだけ読むと、奇妙な出来事が次々に起こる理由を見落とします。

百姓たちは畑を起こし、家を増やし、作物を育てます。森は冬の北風を防ぎます。生活は少しずつ根づいていきます。けれども、森は人間の暮らしを支えるだけの背景ではありません。

ある冬の朝、四人の子どもがいなくなります。人びとは森に尋ね、やがて狼森へ入ります。そこで見つけたのは、狼たちが火のまわりを走り、子どもたちが栗やきのこを食べている光景でした。

ここで大切なのは、何が起きたのかを一つの説明に決めないことです。人間にとって、幼い子どもが夜の間にいなくなることは重大な出来事です。一方、狼たちは子どもたちを傷つけているようには描かれていません。むしろ食べ物を与えています。

人びとが子どもを連れて帰ろうとすると、狼たちは森の奥へ逃げ、悪く思わないでほしい、食べ物をたくさん振る舞ったのだ、と伝えます。人間と狼では、同じ出来事の見え方が重なっていません。

だからといって、私たちが「狼の本当の考え」を知ったことにもなりません。作品は狼に言葉を与えますが、その言葉を現実の自然の代弁へ置き換えることはできません。

人びとは帰ったあと、粟餅を作り、狼森へ礼として置きます。

ここにあるのは、完全な理解ではありません。自分たちとは違う出来事の受け取り方がありうることに触れたあと、それでも関係を切らず、応答を返すことです。

この時点で、人間はまだ森を理解していません。けれども、自分たちの見方だけが唯一ではない可能性を、すでに見てしまっています

3 もう一つの転倒

人間は、土地を判断するだけの位置に立ち続けられません

百姓たちは働きます。鍬で野原を起こし、栗を集め、薪を作り、蕎麦や稗を育てる。小屋が増え、馬が入り、畑が広がる。生活は、人間の労働によってつくられていきます。

ここを弱める必要はありません。人間は土地に後から来たから何もしてはいけない、という物語ではないからです。むしろ人びとは、よく見て、よく働き、暮らしをつくります。

ところが、その生活は人間の計画だけでは進みません。子どもがいなくなり、農具がなくなり、粟がなくなる。そのたびに、日常は中断されます。

人びとは土地を観察していました。けれども、出来事が起こるたびに、今度は「自分たちは何を見落としているのか」と考えなければならなくなります。ここで起きる転倒は、人間が自然を見ることをやめることではありません。

水を見ることも、土を見ることも、森を見ることも必要です。変わるのは、「見る者である自分の位置は動かない」という前提です。

世界を判断していたはずの私が、自分の判断の前提そのものを見る。

Season2第1部の最初の回転は、まだここまでです。

4 農具がなくなる

所有していることだけでは、関係は終わりません

次の年、山刀や鍬などの農具がなくなります。農具は、百姓たちが生活するための大切な道具です。失えば困ります。

人びとは森へ尋ね、狼森を経て笊森へ入り、大きな笊の下から農具を見つけます。そこには、赤い顔をした山男がいます。人びとは山男に、これからはいたずらをやめてほしい、と頼みます。山男は恐縮し、去りぎわに、自分にも粟餅を持ってきてほしいと求めます。

ここも、簡単に「和解」と呼ばない方がよいでしょう。農具は返ります。しかし、人びとが山男の行為に納得したわけではありません。山男も、なぜ農具を集めたのかを詳しく説明しません。それでも、人びとは農具を取り戻して終わりにはしません。狼森だけでなく笊森にも粟餅を置きます。

所有物が戻ったことと、関係が終わることが同じではない。反対に、贈り物をしたことと、すべてが解決したことも同じではない。

作品は、その中間に関係を残します。

私たちはここで、所有そのものを否定する必要はありません。農具は百姓たちに必要ですし、取り戻そうとするのは当然です。ただ、所有しているという事実だけでは、山男との関係の意味まで決まらない。

この小さなずれが、次の出来事へつながっていきます。

5 盗森と粟餅

「友だち」になるまでに、怒りも、返還も、贈与もあります

さらに次の年、納屋の粟がなくなります。人びとは森を順に訪ね、最後に盗森へ向かいます。盗森は、自分を盗人と決めつけられたことに激しく怒ります。人びとは黒坂森が見たのだと主張します。互いの言い分はぶつかります。

ここで物語に入ってくるのが岩手山です。岩手山は、盗んだのは盗森だと告げます。同時に、盗森は自分で粟餅を作ってみたかったのだ、とその事情も語ります。

粟は戻されます。そして人びとは粟餅を作り、四つの森へ持っていきます。盗森には、いちばん多く持っていきます。

物語はそのあと、森と人びとが「友だち」になったと結びます。この結末は大切にしたいと思います。

粟餅に少し砂が入っていたことを、怒りや傷が残った印と読みたくなるかもしれません。しかし、物語はそこまで説明していません。砂の意味を一つに決める必要はないでしょう。

むしろ注目したいのは、「友だち」という言葉に至るまでの過程です。

最初から調和していたのではありません。子どもをめぐる不安があり、農具の消失があり、粟の盗難があり、盗森の怒りがあり、岩手山の言葉があり、返還があり、そのあとに粟餅が渡されます。

ここでの友だちは、違いが消えた存在同士というより、出来事を重ねながら関係を続ける者たちです。

森と人間が同じになったわけではありません。人間が森の内面を理解し尽くしたわけでもありません。それでも、翌年も関係は続く。この「続く」ということを、まずはそのまま受け取っておきたいと思います。

もう一つ、ここでは「友だち」という言葉を、人間側の勝利や森側の従属として読まないことも大切です。人びとは森を消して畑だけにしたわけではなく、森も人間を追い出したわけではありません。畑は広がり、森は残り、粟餅のやり取りも続きます。

同じ場所にいることは、同じ考えになることではありません。この作品の終わりは、その違いを消すよりも、違いを抱えた関係が時間の中で続いていく姿として読む方が、物語の手触りに近いように思います。

6 主体は、どのように変化するか

土地を選ぶ者から、自分の判断の前提を問い返す者へ

この作品の人びとは、最初から完成した「自然との共生者」ではありません。

野原を見て、ここに住もうと決めます。畑を起こし、家を建て、木を使い、作物を育てます。人間には、人間の必要があります。

一方で、人びとは森へ問いかけます。そして何かが起きるたびに、また森へ入ります。子どもがいなくなったとき、農具がなくなったとき、粟がなくなったとき。一度得た許可で、その後のすべてが決まるわけではありません。

この反復は、作品全体を読むうえで見逃せません。

何かが失われるたび、人びとはまず森へ呼びかけます。森は「知らない」と答え、人びとが探しに入ることを告げると、「来お」と返します。子どものときも、農具のときも、粟のときも、ほぼ同じやり取りが繰り返されます。

一度「住んでもよい」と答えを得たから、その後は人間だけで暮らしを運営できる、という形にはならないのです。関係はその都度、出来事によって開き直されます。

この反復を、現代の手続きの原型と呼ぶ必要はありません。ただ、人間の一度の決定で土地との関係が終わらないという物語のリズムは、確かに残ります。

ここに、この回の主体の変化があります。

土地を使わない者になるのでも、森の側へ完全に移るのでもありません。自分は土地を見て判断する側にいるという位置を少しずらす。自分の判断は、土地との関係の外から下されているのではない。自分自身も、その関係の中にいる。そう気づく位置へ動きます。

だから、第1回でまず問われる自由は大きな制度の自由ではありません。もっと手前にある、自分の判断を問い返せる自由です。

7 デクノボウのiによる観測位置の回転

森の側へ移るのではなく、自分の立ち位置をずらします

Season1で置いた「デクノボウのi」は、世界の見方を少しずらす小さな主体の象徴でした。Season2では、そのiが、作品を読むたびに少しずつ位置を変えていきます。

第1回でiが起動するのは、人間が「森の立場になれた」ときではありません。むしろ逆です。

森の立場には完全には立てない。狼の本当の考えも、山男の欲望も、盗森の怒りも、私たちは作品に書かれた以上には知りません。その限界を残したまま、自分の側を見直すときに、iは動きます。

土地を見て、ここは使える、ここなら暮らせる、ここをこうしたいと判断する視点から
 ➡️
その判断は何を前提にしているのか、自分は何を見て何を見ていないのか、と問い返す視点へ

デクノボウのiによる観測位置の回転

これが第1回のiの回転です。

iは森の声を代弁する記号ではありません。森と人間の間に「正しい答え」を出す記号でもありません。

まず、自分の場所を固定しないための、小さな回転です。

8 「未完成な自由」との接続

自由とは、自分の判断を完成させないことです

『狼森と笊森、盗森』の百姓たちは、何も決めない人びとではありません。住む場所を決め、畑を作り、家を建て、木を使い、作物を育てます。

未完成な自由は、決断を避けることではありません。また、所有や利用そのものを否定することでもありません。

この作品から、まず受け取れるのは、一度決めた自分の位置を絶対にしないことです。

人びとは場所を選んだあとも森へ問いかけます。生活が始まったあとも、出来事が起きれば森へ入り直します。

決めるが、それで関係が終わったとは考えない。使うが、使う側だけが世界を説明できるとは考えない。

問題が起きれば、もう一度、自分の判断の前提を見る。

ここで「未完成」とは、答えを出さないことではありません。出した答えを、世界のすべてだと思わないことです。第1回でたどり着くのは、まずその地点です。

けれども、Season2全体は、この小さな修正可能性から始まります。

9 次の思想への問い

人間以外を含む「私たち」を、どう考えられるでしょうか

ここに、解けずに残る問いがあります。

物語の中では、森が答えます。狼も、山男も、盗森も、岩手山も語ります。けれども、現実の森は、人間の会議で言葉を話しません。川も、土も、動物も、人間と同じ仕方では意見を述べません。だから、人間がそれらの「本当の声」を語ったつもりになることには危うさがあります。

しかし、語れないから無関係だ、とすることもできません。森の伐採は水や土へ、土地の使い方は動植物や周囲の暮らしへ影響します。過去から続く土地の条件は、現在の人間の判断だけでつくられたものではありません。

では、人間は、自分では語らない存在と共にある世界を、どう考えればよいのでしょうか。

理解できないものを、理解したことにせず。それでも、無視もしない。

「私たち」を人間だけで閉じないとは、具体的に何を意味するのでしょうか。ここでは、まだ答えを出しません。

この問いを、この作品から持ち出します。Season3では、主体、他者、社会、自然について考えるとき、この問いにもう一度戻ることになります。

10 花巻で問われること

土地を使う前に、何を見ているでしょうか

この問いを花巻へ持ち帰るときも、作品をそのまま制度へ置き換えるべきではありません。

現実の森は「いいぞお」と答えてはくれません。だからこそ、人間が森の代弁者を名乗るだけでは足りません。

まず問えるのは、もっと基本的なことです。

ある土地を、農地として使う、観光に利用する、道路や施設をつくる、森林を整備する。

そのとき私たちは、何を見て判断しているでしょうか。

所有者は誰か、採算が取れるか、法律上できるか。もちろん、どれも必要です。

しかし、その土地には、水の流れがあり、土があり、農業の履歴があり、周囲の暮らしがあり、動植物があり、過去の災害や土地利用の記憶もあります。

私たちは、それらを最初から「条件」や「制約」とだけ呼んでいないでしょうか。そして、一度決めたあとに予想していなかった変化が起きたとき、その場所へもう一度入り直し、何が起きているのかを確かめられるでしょうか。

『狼森と笊森、盗森』から、今の段階で持ち帰りたいのは制度の完成案ではありません。

土地を利用する判断の前に、その土地との関係がすでにあること。そして、自分の判断もまた問い直されうること。

まずは、この二つです。花巻で問うべきことも、ここから始めたいと思います。

11 次回へ

正体のわからない他者と、どう出会うか

第1回では、土地を選び、利用する側に立っていた人間の位置を少しずらしました。

人びとは森へ問いかけます。出来事が起きれば森へ入り直します。それでも、森を理解し尽くしたわけではありません。

第2回『風の又三郎』では、この「わからなさ」が、もっと人間に近いところへやって来ます。

共同体の外から、一人の少年が現れます。子どもたちは、その少年に名前を与え、何者なのかを決めようとします。しかし、他者を理解することと、他者を自分たちの分類へ収めることは同じなのでしょうか。

Season2第1部は、まだ「正しい位置」を探しません。まず、自分が立っている場所をずらしてみます。次回は、そのずれを、共同体と他者のあいだで考えます。

今回の要点

  • 今回の転倒
    『狼森と笊森、盗森』では、人間が土地を観察して利用を決める側から、自分の判断の前提そのものを問い返す側へ位置をずらします。

  • 通常の読解では見落とされる点
    この作品は、単純な「自然との共生」の物語ではありません。森は人間の生活を支えるだけの背景ではなく、子どもの不在、農具の消失、粟をめぐる出来事を通して、人間の予定や理解の外側を示します。

  • 主体はどう変わるか
    土地を使わない主体になるのではありません。土地を選び、使いながらも、自分の判断が関係の外から下されるものではないと知る主体へ変わります。

  • デクノボウのiとは
    第1回のiは、森の立場を代弁する記号ではありません。自分の位置を固定せず、自分が何を見て何を見落としているかを問い返すための小さな主体です。

  • 今回のiによる回転
    「私は土地を見て、使う側にいる」から、「私の判断は、どの位置からなされているのか」へ。Season2最初の回転は、自分の観測位置をずらすところから始まります。

  • 未完成な自由との接続
    未完成な自由とは、何も決めないことではありません。決めて行為しながら、その判断を世界のすべてだと思わず、必要なら問い直せる状態を残すことです。

  • 次の思想への問い
    人間以外の存在を代弁したつもりにならず、それでも人間だけで「私たち」を閉じないためには、どのように考えればよいのでしょうか。

  • 花巻で問われること
    土地利用を、所有・採算・法的可能性だけで判断していないでしょうか。その土地にすでにある水、土、農業、暮らし、動植物、記憶との関係を見たうえで、自分たちの判断を問い直せるでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!