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S1第9回 花巻を未来の公共財を育てる場所へ(7/7改稿)

過去から受け取り 未来へ手渡すために

第1回では、宮沢賢治を、世界の感じ方そのものを変えてしまう人として考えました。

第2回では、その感受性を「未完成な自由」という言葉で考えました。未完成な自由とは、完成された正解に自分を閉じ込めず、他者や世界との関係の中で、変わりうる余白を失わないことです。

第3回では、そのような自由を生きる主体を、「デクノボウのi」として考えました。

第4回では、共感とは他者を理解し尽くすことではなく、他者に見返され、自分の見方が揺らぐことだと考えました。

第5回では、AI/DX時代に、技術を何のために使い、誰が目的を決め、誰が異議を述べ、誰が修正や停止を求められるのかを考えました。

第6回では、世界が私たちの身体を変えることを、『セロ弾きのゴーシュ』から考えました。

第7回では、科学と仏教を同じものにせず、しかし賢治の中で切り離しがたく交差する問いとして考えました。

第8回では、文語詩を、言葉を土地、労働、死者、共同体の時間へ返そうとする試みとして考えました。

第9回では、その問いを花巻へ返します。

ただし、花巻を理想郷として語るためではありません。花巻を、賢治を記念するだけの場所にしないためです。

土地、農、自然、教育、観光、文化、行政、AI/DX、記録、世代間の継承。

それらが交わる場所で、私たちは何を守り、何を問い直し、何を未来へ渡せるのか。その問いを、花巻という具体的な土地から考えたいと思います。

1 花巻を 賢治からもう一度始める

宮沢賢治を読むことは、過去の文学を懐かしむことではありません。世界の感じ方を変えることです。

空を見て、風を感じ、土を踏む。動物のまなざしに気づき、子どもの声を聞く。農の時間を考える。科学と祈りを安易に切り離さない。これらは、単なる感傷ではありません。

AIやDXが社会を高速に整理し、分類し、予測し、最適化していく時代にこそ、必要になる感受性です。

なぜなら、効率だけでは世界を受け取れないし、数値だけでも土地の記憶を残せない。さらに、制度だけでは子どもたちに未来を渡せないからです。

このSeason1では、宮沢賢治を通して「未完成な自由」を考えてきました。

自由とは、自分の好きなように振る舞うことだけではありません。土地、動物、植物、水、風、星、子ども、死者、共同体、技術との関係の中で、自分の見方を問い直し、必要なら変え、未来へ応答することです。

では、この考えをどこで始めるのか。私は、それを花巻から始めたいと思います。

花巻を、賢治を記念するだけの場所ではなく、未来の公共財を育てる場所として考えたいのです。

2 未来の公共財とは 皆が同じ考えになることではない

ここでいう公共財は、経済学上の厳密な意味だけを指すものではありません。

誰か一人の利益に閉じず、次の世代が意味を受け取り直せるもの。すぐには役に立たないかもしれない。すぐには評価されないかもしれない。すぐには商品にならないかもしれない。しかし時間をかけて、人々が受け取り、問い直し、使い直し、未来へ渡していけるもの。

私は、そのような未来への共有資源を、ここでは公共財と呼びたいと思います。

ただし、公共財とは、皆が同じ考えになることではありません。

異なる経験や記憶、異なる利害や土地への関わり方、異なる世代の不安。これらを消して、一つの正しい花巻像をつくることではありません。

公共財とは、異議を述べられる場であり、いったん離れた人が再び参加できる場でもあります。失敗や損害を隠さず、方針を修正できる場でもあります。古くからいる人だけが決めるのではなく、新しく来た人だけが刷新するのでもない。行政だけが決めるのでもなく、市場だけが決めるのでもない。異なる人々が、異なる立場のまま関わり、必要なら問い直し、修正し、再び始められる。

そのような未完成の共同世界を育てること。それが、花巻を未来の公共財を育てる場所にするということです。

(難しいです。絵ぞら事の様です。書いている私も、そう思います。しかし、こんな事しか書けないのが事実です。なぜなら、人間として、やれるのにやれていない。そう思えるからです。また、時にやれた事実を見ているからです、知っているからです)

3 これは これまでの花巻の取り組みを否定するものではない

最初に、はっきり書いておきたいことがあります。

花巻では、長い時間をかけて、多くの人々が宮沢賢治を研究し、伝え、守り、活用してきました。資料を保存してきた人、作品を読み継いできた人、詩碑やゆかりの場所を守ってきた人がいます。学校教育、文化事業、観光、地域活動の中で、賢治を伝えてきた人がいます。地元の暮らしの中で、賢治を自然に受け継いできた人がいます。

その蓄積なしに、現在の花巻の賢治文化はありません。

また、賢治は花巻だけに閉じた存在でもありません。日本各地、そして世界各地に、賢治を翻訳し、研究し、読み、演じ、歌い、教育や地域活動へ生かしてきた人々がいます。その広がりにも、深い敬意を払う必要があります。
私がここで考えたいのは、既存の取り組みを置き換えることではありません。

継承し、再起動することです。

ただし、継承とは、同じ形を保存し続けることだけではありません。次の世代が問い直せる形で残すことです。異なる人々が、別の仕方で参加できるようにすることです。

賢治を守るとは、賢治を固定することではありません。賢治を、未来の人々が読み直せるように開いておくことです。

(実際、花巻でも、多くの試みがなされてきました。そして、現在も実行されています。また、この問題は、花巻に限ったことではありません。それらを知っています。その上で、書いています)

4 AI/DX時代に なぜ賢治を再起動するのか

賢治が生きた時代から、百年以上が過ぎました。

農業や地域社会のあり方は変わりました。教育も、観光も、交通も、情報も、都市と地方の関係も変わりました。

そして今、AI/DXの時代が本格的に始まっています。

人間の判断、創作、労働、学習、観光、行政、農業、記録。これらが、データとアルゴリズムによって組み替えられつつあります。

この変化は、単なる技術変化ではありません。

私たちが何を見て、何を見落とすか。何を価値あるものとし、何を効率が悪いものとして切り捨てるか。誰がその基準を決めるのか。そうした感受性そのものを変える変化です。

第6回で考えたように、環境は私たちの身体や注意の向け方を変えます。

AI/DXもまた、私たちの新しい環境です。だから、賢治を古典として保存するだけでは足りません。賢治を、AI/DX時代の新しい環境の中で、もう一度作動させる必要があります。

ただし、これはAIやDXから逃げることではありません。花巻を、AI/DXの外側にある懐かしい避難所にすることでもありません。

花巻を、AI/DXによって変わる私たちが、土地、身体、他者、時間との関係を問い直し、技術の使い方を選び直せる場所にすることです。

何を記録し、誰のデータを使い、誰が評価するのか。誰が利益を受け、誰が負担を引き受けるのか。誰が異議を述べられ、誰が必要なとき、立ち止まり、修正し、停止を求められるのか。

賢治を再起動するとは、こうした問いを、花巻の土地と暮らしの中で引き受け直すことです。

5 『虔十公園林』 杉苗は 未来への贈与である

『虔十公園林』の虔十は、周囲から十分に理解されない人物です。

彼は、畑や杜のあいだを歩きます。雨の中の青い藪を見ます。空を飛ぶ鷹を見ます。風に光る木の葉を見ます。そして、うれしくなり、笑いをこらえきれなくなります。

しかし、周囲の人々は虔十を理解しません。子どもたちは笑います。大人たちも、彼を十分には評価しません。

虔十が杉を植えることも笑われます。土地が硬い、杉は育たない、役に立たない、馬鹿げている。そう言われます。

ここで、虔十を純粋な聖人として美化してはいけません。虔十は、単なる無垢な人ではありません。

彼は、他の人が見過ごしてしまう世界の呼びかけを、強く受け取ってしまう人です。青い藪、風、木の葉、鷹、畑、杜、空。これらは、虔十にとって背景ではありません。世界は、虔十に何かを促し、虔十はそれに応答してしまう。

第3回の言葉でいえば、虔十はデクノボウのiに近い存在です。ただし、虔十を現代社会の理想的人間として扱うべきではありません。

重要なのは、虔十の行為が、当時の評価を超えて、後の世代に意味を受け取り直されることです。

虔十は、自分の名を残すために杉を植えたわけではありません。地域振興のためでも、観光資源をつくるためでもありません。未来の公共財を設計したわけでもありません。

しかし、その行為は、未来に開かれていました。杉苗は、すぐに利益を返さない贈与です。未来の誰かが、いつか受け取るかもしれない贈与です。

『虔十公園林』は、公共財が最初から設計されるだけではないことを示します。誰かの小さな行為が、時間を経て、他者に開かれ、共同体に受け取り直されたとき、公共財になることがある。

ただし、その受け取り直しを、誰が行うのか。誰がその場所に参加でき、誰が別の使い方や別の記憶を語れるのか。

そこまで含めて問い続けなければなりません。

6 『狼森と笊森、盗森』 土地の時間を受け取る

未来へ杉苗を植えるためには、過去を忘れてはいけません。

『虔十公園林』が、未来へ手渡される贈与を描く作品だとすれば、『狼森と笊森、盗森』は、人間がすでに受け取ってきた土地の時間を思い出させる作品です。

この作品で、森は単なる背景ではありません。狼森、笊森、盗森。森には名前があります。

そして、森がどのように生まれたのかが語られます。岩手山の噴火、灰、草、木。長い時間、人間の歴史よりも長い土地の生成。

ここで示されるのは、人間が土地の所有者として先にいるのではないということです。

人間が住む前から、土地には時間があり、森には歴史がある。水には流れがあり、土には層があり、動物には生活がある。

人間の計画は、その長い時間の途中に置かれています。

この第9回では、『狼森と笊森、盗森』を、土地の時間を受け取り、未来へ返す作品として置きます。ただし、次のSeason2では、この作品を別の角度から精読します。Season2では、人間が土地を所有する者という意識を、森との交渉の中でどのように崩されるのかを考えます。

つまり、Season1では土地の時間を受け取る。Season2では人間の所有者意識が土地との関係によって変えられる。同じ作品を繰り返すのではありません。異なる問いによって、もう一度読むのです。

花巻を考えるときも同じです。土地を観光資源として、農地を生産性だけで、川を水量だけで、森を景観だけで見る。それでは、土地の時間が消えてしまいます。

土地は、人間のためにある資源だけではありません。私たちが、その上に住まわせてもらっている場でもあります。

7 『ポラーノの広場』 公共性は 広場から始まる

花巻に必要なのは、賢治を語る場所だけではありません。異なる人々が出会い、話し、聴き、失敗し、問い直し、また参加できる広場です。

そのことを考えるために、『ポラーノの広場』を置きます。

『ポラーノの広場』には、人々が集い、歌い、語り、働き、学び、共同の世界をつくろうとする運動があります。しかし、広場は、初めから完成された共同体ではありません。

誰が参加し、誰が決め、誰が代表するのか。誰が排除され、誰の声が大きくなるのか。何かが失敗したとき、誰が責任を持つのか。こうした問題を抱えています。

だから、広場とは、皆が仲良くするための空間ではありません。異なる意見や利害を消さずに、共同世界を作り直すための空間です。

Season1第9回では、『ポラーノの広場』を、花巻に必要な公共性の予告として置きます。Season2では、この作品をさらに精読します。そのときの問いは、より厳しくなります。

壊れた共同世界を、誰が、どの手続きで作り直すのか。広場の所有や支配をどう考えるのか。排除された人は、再び参加できるのか。失敗したあとも、共同体は続けられるのか。

これは、Season3の共同性の理論、Season4の制度設計へつながる問いです。

8 『イーハトーボ農学校の春』 教育は 土地へ出ることから始まる

『イーハトーボ農学校の春』には、学ぶことと働くこと、学校と土地、若者と共同体が交わる場面があります。

教育とは、知識を一方的に与えることではありません。土地へ出て、農を知り、自然に触れること。自分の身体で確かめ、失敗すること。人の仕事を見て、他者と協働すること。

そこから学びが始まります。

第6回で考えたように、身体は環境によって変えられます。

第8回で考えたように、言葉は土地の時間と結びつきます。

教育もまた、教室の中だけで完結しません。ただし、土地へ出る教育を、地域への同調や、郷土愛の強制にしてはいけません。子どもたちに、花巻を愛しなさいと命じることではありません。花巻を問い直せるようにすることです。

土地の良さを、土地の傷を、農の可能性を見る。環境の困難さや過去の努力を見る。今の不均衡を見て、未来の選択肢を考える。

教育とは、地域を美化することではありません。地域を、次の世代が問い直し、作り直せるものとして手渡すことです。

9 『台川』と『耕耘部の時計』 未来は 生活の時間から始まる

花巻の未来を考えるとき、大きな理念だけでは足りません。川を、畑を、時計を、労働の時間を、季節の変化を見る。そこから始める必要があります。

『台川』には、水、土地、身体、生活の時間が重なっています。川は、単なる風景ではありません。農に、暮らしに、災害に、記憶に、人の移動や、土地の歴史に関わる。

『耕耘部の時計』では、時計が単なる道具ではなく、労働、時間、教育、近代化の気配と結びついています。時計は、人を働かせ、急がせ、時間を揃え、遅れを意識させます。

しかし、土地の時間は、時計だけでは測れません。季節の変化、土の湿り、風の匂い、作物の育ち方、身体の疲れ、人の暮らし。こうした時間は、均一ではありません。

AI/DX時代には、私たちはますます時計の時間、データの時間、効率の時間の中で生きるようになります。だからこそ、土地の時間、身体の時間、労働の時間を忘れないことが必要です。

ただし、それは近代的な時間や技術を拒否することではありません。データの時間と土地の時間、行政の時間と生活の時間、観光の時間と住民の時間、教育の時間と子どもの成長の時間。

それらがぶつかるとき、何を優先し、誰が決め、誰が異議を述べられるのかを問い続けることです。

10 花巻で 今すぐ始めるべきことは何か

ここまで、未来の公共財について考えてきました。しかし、公共財をつくるために、最初から大きな制度や大きな予算が必要とは限りません。

まず必要なのは、花巻をもう一度読むことです。

歩き、川や農地、森や学校を見る、詩碑を読み、地域の言葉を聞く。若い人の不安や高齢者の経験を聞く。移住者の違和感や観光に関わる人の困難を聞く。行政に関わる人の制約や農業に関わる人の時間を聞く。そして、それぞれの意見を、すぐに一つへまとめない。

この段階では、正しい答えを出すことよりも、異なる立場を見えるようにすることが重要です。

誰が何を見、誰が何を恐れ、誰が何を守ろうとし、誰が何を失っているのか。土地、川、森、農地、動物、未来の世代は、どのような影響を受けるのか。

それらを、すぐに統合せず、まず記録し、対話する、現地を見て、小さく試す。結果を共有し、批判を受ける。必要ならやめ、必要ならやり直す。

ここで大切なのは、実装を急ぎすぎないことです。

Season4では、教育、農業、観光、行政などの領域で、より具体的な制度や小規模実験を考える必要があります。

しかし、Season1の終点で必要なのは、完成した制度設計ではありません。

何を守り、誰が参加でき、誰が異議を述べられるのか。何を記録し、何を残し、何を修正できるようにするのか。

その問いを、花巻の未来に向けて共有することです。

11 Season2へーー 作品を もう一度読む

Season1では、宮沢賢治を通して、世界の感じ方を変えるための見取り図を描いてきました。

未完成な自由、デクノボウのi、共感、技術と責任、身体と環境、科学と仏教、言葉と土地、公共性と未来。

しかし、ここまでの議論は、まだ入口です。

Season2では、賢治作品を一作ずつ読みます。ただし、作品紹介をするためではありません。

作品の中で、主体が土地、他者、動物、労働、死者、共同世界との出会いによって、どのように変わるのかを読むためです。

『狼森と笊森、盗森』を、土地の時間の象徴としてだけでなく、人間の所有者意識が崩れる物語として読む。『ポラーノの広場』を、花巻に必要な広場としてだけでなく、壊れた共同世界を誰がどう作り直すのかという問いとして読む。『風の又三郎』を、異質な他者を安易に正体へ固定しない物語として読む。『注文の多い料理店』を、利用する者が利用される側へ反転する物語として読む。『鹿踊りのはじまり』を、異種の世界との出会いが人間の見方を変える物語として読む。

Season2では、賢治の作品を通じて、私たち自身の観測位置が変わる経験を積み重ねていきます。その後で、Season3では、なぜ主体と共同体を完成させてはならないのかを、思想、数理、AI/DX、制度の問題として考えます。そして、Season4では、修正、異議、再参加、修復が可能な地域を、花巻でどう育てられるかを考えます。

結び 未来へ返すとは 完成させないこと

『虔十公園林』の杉苗は、未来へ向けて植えられました。『狼森と笊森、盗森』の森は、人間より長い時間を抱えています。『ポラーノの広場』は、共同世界が簡単には完成しないことを示しています。『イーハトーボ農学校の春』は、教育が土地と身体から始まることを示しています。『台川』『耕耘部の時計』は、未来が生活の時間の中にあることを示しています。

花巻を未来の公共財を育てる場所にするとは、完成された地域像をつくることではありません。賢治の名を使って、一つの正しい答えをつくることでもありません。

土地の時間を受け取り、他者の声を聞き、異なる経験を消さない。技術の目的を問い直し、失敗を隠さず、異議を受け取る。必要なら方針を変え、途中で離れた人がまた参加できるようにする。そして、次の世代が、私たちとは違う仕方で花巻を読み直せる余白を残す。

未来へ返すとは、未来を完成させないことです。賢治を受け継ぐとは、賢治を固定しないことです。花巻を育てるとは、花巻を一つの物語に閉じ込めないことです。未完成な自由とは、未来を誰か一人のものにしないための自由です。

このSeason1は、ここで終わります。しかし、終わりは完成ではありません。次の問いへ向かうための、ひとつの出発点です。

(繰り返します。難しいです。でも、皆さんの中にもあるものと信じています)

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