S1第4回 賢治の共感力はやさしさではない(7/2改稿)
共感とは 他者に見返され 自分の見方が揺らぐことである
第1回では、宮沢賢治を、世界の感じ方そのものを変えてしまう人として考えました。
第2回では、その感受性を「未完成な自由」という言葉で考えました。
未完成な自由とは、何も決めないことではありません。暫定的に決め、実行する。結果を引き受け、必要なら批判を受け、修正し、また始める。完成された正解に自分を閉じ込めず、他者や世界との関係の中で、変わりうる余白を失わないことです。
第3回では、そのような自由を生きる主体を、「デクノボウのi」として考えました。
デクノボウのiとは、自分の立場を絶対化せず、他者や自然や土地や死者や技術との出会いによって、自分の見方を少しずつ変えられる未完成な主体です。

今回のテーマは、共感です。
ただし、ここでいう共感は、単なるやさしさではありません。「かわいそう」と思うことでもありません。相手の気持ちを完全に理解することでもありません。まして、熊やよだかや豚の世界を、人間が完全に語り切れるということでもありません。
賢治の共感とは、自分とは異なる存在に触れたとき、自分の見方が不十分だったことに気づいてしまう力です。
人間の側から動物を見ているつもりだったけれど、動物をただの対象として見ていた自分の視線が問われる。人間の側から自然を利用しているつもりだったけれど、自然を利用可能な資源としてだけ見ていた自分の見方が揺らぐ。制度を運営しているつもりだったけれど、制度の中で管理され、分類され、評価される存在の恐れに触れてしまう。
この揺らぎ、この問い返し、この小さな向きの変化。それが、賢治の共感力です。
1 共感は やさしい気持ちではない
私たちは、共感という言葉を、しばしば「やさしさ」と結びつけます。相手の気持ちを考え、相手の痛みに寄り添い、相手を傷つけないようにし、相手を助けたいと思う。もちろん、それは大切なことです。
しかし、賢治の作品にある共感は、それだけではありません。むしろ、もっと不安定で、もっと危うく、もっと根源的なものです。なぜなら、賢治の共感は、自分の世界を安全なまま保つことを許さないからです。
普通、私たちは人間の立場から世界を見ています。これは役に立つか、美しいか、価値があるか、食べられるか、利用できるか、管理できるか、評価できるか。
人間は、世界を人間の物差しで測ります。そのこと自体を、すべて悪いと言うことはできません。
私たちは食べなければならないし、働かなければならない。土地を使い、技術を使い、制度をつくらなければならない。しかし、賢治の作品では、その人間中心の物差しが、しばしば揺らぎます。
熊には熊の生があり、よだかにはよだかが受けている排除があり、烏には戦争と命令と祈りの中で生きる世界があり、豚には教材や食肉や管理対象として見られることへの恐れがある。それらは、人間が勝手に意味づけるだけの対象ではありません。しかし同時に、人間が完全に理解し、代弁できる対象でもありません。
賢治の作品は、その届かなさを残したまま、私たちの側の見方を揺らします。
共感とは、相手を理解済みの対象にすることではありません。相手に触れたとき、自分が世界を理解したつもりでいたことに気づくことです。
自分の正しさや価値観、立ち位置が揺らぐ。
第3回で考えたデクノボウのiは、ここで作品の内部に入っていきます。
2 『なめとこ山の熊』――共感は 殺生を消さない
まず、『なめとこ山の熊』を見ます。
この作品には、熊捕りの淵沢小十郎が出てきます。小十郎は、熊を殺します。熊の胆や毛皮を得るために、熊を捕ります。その意味では、小十郎は明らかに、殺す側の人間です。
しかし、この作品を読むと、小十郎を単純な加害者としてだけ読むこともできません。
賢治は書きます。
そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれども
なめとこ山あたりの熊は 小十郎をすきなのだ
そこには、熊を殺す人間と、殺される熊とのあいだにある、不思議で苦しい関係があります。小十郎は熊を憎んでいるわけではありません。熊を、完全に無感覚な商品として見ているだけでもありません。けれど、そのことは、殺生を正当化しません。
ここに、この作品の難しさがあります。
共感があるからといって、殺生が消えるわけではない。相手を知っているからといって、矛盾がなくなるわけではない。生活のために働くことが、他の命を奪うことと切り離せない場合がある。
賢治は、その矛盾から目をそらしません。
小十郎は、熊に向かって、次の様に語りかけます。
熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射うたなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
この言葉は、小十郎を無罪にするための言葉ではありません。むしろ、小十郎自身が、自分の行為を完全に正しいものとして引き受け切れていないことを示しています。
熊も、小十郎も、生活の条件の中に置かれている。しかし、だからといって、熊が殺される痛みは消えません。
ここにあるのは、美しい共存ではありません。殺す者と殺される者が、それでも完全に無関係ではいられない、苦しい関係です。
共感とは、罪を消すことではありません。共感とは、矛盾をなかったことにすることでもありません。共感とは、自分の生活が、どのような命や土地や制度の上に成り立っているかを、見ないままではいられなくなることです。
小十郎は、熊の世界を完全に理解したわけではありません。しかし熊を、単なる資源としてだけ見ることもできなくなっている。
この「理解し切れなさ」と「見過ごせなさ」のあいだに、賢治の共感があります。
第2回で考えた未完成な自由も、ここにつながります。
未完成な自由とは、完成された正解を持つことではありません。正解を持てないまま、矛盾や負担や損害を見えないものにせず、応答し続けることです。
『なめとこ山の熊』は、その困難を私たちに引き受けさせる作品です。
3 『よだかの星』――共感は 価値秩序を問い返す
次に、『よだかの星』を見ます。
よだかは、醜い鳥として描かれます。ほかの鳥たちから嫌われ、馬鹿にされ、名前まで変えろと言われます。よだかは、存在そのものを否定される側に置かれています。
この作品を、単に「かわいそうな鳥の話」と読むこともできます。しかし、それだけでは足りません。
重要なのは、よだかが、かわいそうだから価値があるのではない、ということです。この作品では、美しい/醜い、強い/弱い、上等/下等という価値の秩序そのものが問われます。
よだかは、醜い、弱いと見なされ、嫌われ、居場所を失う。しかし、そのよだかが、最後には星として燃えます。
ここで起こっているのは、単純な救済ではありません。また、「弱者にも価値がある」という道徳の確認だけでもありません。むしろ、私たちが当然だと思っている価値判断の方が、問われているのです。
よだかはすぐそれを呑のみこみましたが、
その時何だかせなかがぞっとしたように思いました
美しい、役に立つ、強い、認められる、成功している。こうした基準の外に、別の輝きがあるのではないか。
『よだかの星』は、その問いを突きつけています。
ここでも、共感はやさしさではありません。
よだかをかわいそうだと思ったり、同情したり、助けてあげたいと思う。それだけなら、私たちはまだ、価値を判断する側に立っています。しかし、作品を読み進めると、よだかを見下していた側の価値判断が、少しずつ揺らぎます。
醜いと呼ばれる側、名前を奪われる側、居場所を失う側、他者の価値秩序によって自分の存在を否定される側。
その存在に触れたとき、私たちはよだかになれるわけではありません。よだかの苦しみを完全に理解できるわけでもありません。けれど、よだかを排除していた世界の見方に、自分自身も加わっていないかと問われます。
これが、デクノボウのiの回転です。懐疑、無知、偏見、思いなしなど、自己批判の言葉が立ち上がってきます。
よだかは、社会的な価値秩序から外れた存在です。しかし、その外れた位置から、世界の別の輝きを開く。
賢治の共感は、弱者を保護する側に立つことではありません。弱いとされる存在を通して、私たち自身の価値秩序を問い直すことです。
4 『烏の北斗七星』――共感は戦争を外側から眺めない
ここまで、『なめとこ山の熊』と『よだかの星』を見てきました。この二つの作品だけでも、賢治の共感が単なるやさしさではないことは見えてきます。しかし、この問題はさらに広がります。
たとえば、『烏の北斗七星』があります。
この作品では、烏たちが軍隊のように描かれます。そこには、隊列があり、命令があり、点呼がある。戦闘があり、祈りがある。
賢治は、戦争を外側から「悪いもの」として片づけているだけではありません。軍隊の内部にある秩序、緊張、恐れ、服従、祈りを描いています。
ここで大切なのは、賢治が烏になって戦争を理解した、ということではありません。烏の軍隊を描くことによって、人間の戦争を外側から安全に批判していた私たちの位置が、揺らぐのです。
戦争は、抽象的な「悪」ではありません。命令する人がいて、命令される人がいる。恐れる人がいて、敵を殺さなければならないと感じる人がいる。祈る人がいる。
その内部には、単純な善悪だけでは片づかない感情と制度があります。もちろん、これを戦争の肯定として読んではいけません。むしろ逆です。
戦争を単なる悪として遠ざけるだけでは、なぜ人が戦争へ組み込まれ、なぜ命令に従い、なぜ敵を殺す仕組みが続くのかを十分に考えられない。
ここで一度、戦争を、学校や会社、家族や組織、日常の社会全般に置き換えてみてください。
『烏の北斗七星』は、戦争の内部にある苦しさと祈りを描くことで、戦争を可能にする制度や感情へ、私たちの視線を向けさせます。
(あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)
共感とは、よいものや守るべきものにだけ向かう力ではありません。不穏なもの、暴力的なもの、理解したくないもの、自分が無関係だと思いたいもの。そうしたものの内部にも、私たちを問い返す関係があると知ることです。
そこに、賢治の共感の怖さがあります。
5 『フランドン農学校の豚』――共感は 制度を問い返す
『フランドン農学校の豚』では、別の形で共感が働きます。
ここでは、豚が、教育や畜産や制度の中で扱われます。豚は生きている存在です。けれど制度の中では、教材であり、研究対象であり、食肉であり、管理されるものでもあります。
豚は、人間たちが自分の身体をじっと見ていることを恐れます。それは、単に誰かが冷酷だからではありません。
教育、研究、畜産、管理という仕組みの中で、生命が「処理可能な対象」へ変わっていく恐れです。
(とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、おれのことを考えている、そのことは恐い、ああ、恐い。)
この作品は、豚を人間と同じような主体として扱えばよい、と言っているのではありません。また、人間が豚の気持ちを完全に分かる、と言っているのでもありません。むしろ、豚の恐れを通して、人間の制度が生命をどのように見ているかが問われます。
教材として、研究対象として、収益として、食料として、管理すべき数として見る。その見方は必要な場合もあります。しかし、それだけで生命を見終えるとき、何が失われるのか。
『フランドン農学校の豚』は、その問いを残します。
共感は、かわいそうな豚に同情するだけでは足りません。問題は、生命を処理可能な対象に変えていく仕組みそのものです。
これは、AI/DX時代にもつながります。
人を属性に分け、行動を予測し、能力を評価した上で、リスクを数値化し、効率のために分類する。こうしたことには、必要な面があります。しかし、分類や評価が、その人やその存在のすべてだと考えられたとき、制度は危うくなります。
豚を通して私たちが問われるのは、「豚の側に完全に立てるか」ではありません。生命を管理し、評価し、利用する側にいる自分たちが、何を見落としているのかです。
そこに、共感と制度批判がつながります。
6 共感は 人間でなくなることではない
少し強く言えば、賢治の共感は、人間中心の見方を問い直す訓練です。
ただし、それは、人間でなくなることではありません。人間としての責任を放棄することでもありません。熊になりきることでもなければ、よだかの苦しみを完全に自分のものにすることでもない。烏の軍隊の感情を人間がすべて説明し切ることでもないし、豚の世界を、人間が代弁して終えることでもない。
むしろ逆です。
人間であることの責任を引き受けるために、人間中心の見方の限界を知る。人間の価値判断は、絶対ではない。人間の制度は、すべてを正しく扱えるわけではない。人間の技術は、目的を自動的に決めてくれるわけではない。
このことを知るために、賢治の作品は、私たちを人間以外の存在との出会いへ連れていきます。
そこで私たちの主体は、少し揺らぎます。人間の物差しで世界を測っていた私が、熊やよだかや烏や豚を前にして、その物差しの不十分さに気づく。
この瞬間、私たちは他者そのものになるのではありません。しかし、他者を前にした自分の位置を問い直さざるを得なくなる。
これが、未完成な自由の具体的な経験です。
自由とは、自分の好きなように世界を選ぶことだけではありません。世界から呼びかけられて、自分の見方が変わりうることでもあります。
賢治の共感力は、その変化を起こす力です。
7 AI/DX時代に なぜこの共感が必要なのか
AI/DX時代に必要なのは、単なる同情ではありません。
「かわいそうですね」と言うだけでは、制度は変わりません。「多様性が大切です」と言うだけでは、世界の見方は変わりません。
必要なのは、自分がどの位置から世界を見ているのかを問い直すことです。
管理する側から制度を見るだけでなく、管理される側の不安に触れる。評価する側から人を見るだけでなく、評価される側が何を失うかを考える。開発する側から技術を見るだけでなく、その技術によって負担を受ける人や地域を確かめる。観光を増やす側から地域を見るだけでなく、生活を続ける住民の時間や静けさを考える。農地を生産性だけで見るのではなく、水、土壌、生き物、労働、継承の関係を考える。
ここでも、相手の立場に完全になりきることはできません。しかし、相手の側から自分たちがどう見えているかを、問い続けることはできます。
AIは、見えるもの、データ化できるもの、分類できるもの、予測できるものを扱います。それは非常に有効です。行政にも、農業にも、観光にも、教育にも、医療にも、地域づくりにも、AI/DXは必要です。
私は、AI/DXを否定したいわけではありません。むしろ、使うべきだと思います。しかし、問題があります。
測定できるものだけが重要になると、測定できないものが見えなくなる。分類できるものだけが扱われると、分類できない存在がこぼれ落ちる。効率化できるものだけが評価されると、非効率だが大切なものが消えていく。最適化できるものだけが残ると、未完成なものが排除されていく。
そのとき必要なのが、賢治の共感力です。
熊の側へ完全に移ることではありません。よだかの苦しみを自分の所有物にすることでもありません。烏や豚を、人間の道徳の道具として使うことでもありません。
そうではなく、熊、よだか、烏、豚を前にして、自分たちの制度や価値判断や技術の使い方を問い直すことです。
共感とは、デクノボウのiが働く、小さな回転です。
8 作品論への入口として
今回から、少しずつ作品の中へ入っていきます。
第1回では、賢治が世界の感じ方を変える人であることを考えました。第2回では、それを未完成な自由として考えました。第3回では、その自由を生きる主体を、デクノボウのiとして考えました。
そして第4回では、その主体が、賢治の作品を読む中で、どのように揺らぎ、どのように問い返されるのかを見ました。
『なめとこ山の熊』では、共感は殺生を消しませんでした。『よだかの星』では、共感は価値秩序を問い返しました。『烏の北斗七星』では、共感は戦争の内部にある祈りと恐れに触れました。『フランドン農学校の豚』では、共感は制度が生命をどう扱うのかという問いにつながりました。
ここから見えてくるのは、賢治の共感力が、やさしい人間性の問題ではないということです。
賢治の動物たちは、単なる人間社会のたとえではありません。もちろん、そこには擬人化があります。しかし、賢治は動物を通して、人間の社会だけを説明しているわけではありません。
人間の世界を、人間以外の存在との関係の中で揺るがしている。そのための動物たちの登場であり、擬人化です。だから、賢治作品は、大人にも強く問いかけます。
私たちは何を美しいと呼び、何を役に立つものとして見ているのか。誰を管理し、誰を評価し、誰の声を聞き落としているのか。自分の生活は、どのような土地、生命、労働、制度の上に成り立っているのか。
賢治の作品を読むことは、単に美しい文学を味わうことではありません。
自分の視点を問い直す訓練であり、自分の価値観を揺らす訓練であり、自分がまだ変わりうることを思い出す訓練です。
9 次回へ――AI時代に、なぜ賢治なのか
次回は、この問題をさらに現代へ引き寄せます。
AI時代に、なぜ賢治なのか。それは、賢治が古い文学者だからではありません。素朴な自然賛美の人だからでもありません。やさしい聖人だったからでもありません。
賢治は、科学、農業、宗教、芸術、地域、宇宙を、簡単に一つへまとめることなく、複雑に響き合わせようとした人でした。
そして、その感受性は、AI/DX時代にこそ必要になると思います。
すべてがデータ化され、最適化され、管理され、評価され、予測される時代。
その中で、私たちは問わなければなりません。
その最適化は、誰の幸福へ向かっているのか。その効率化は、何を見えなくしているのか。その管理は、どの存在の声を消しているのか。その便利さは、どんな未完成を排除しているのか。その技術は、誰が目的を決め、誰が異議を述べ、誰が修正し、誰が停止できるのか。
この問いを持ち続けるために、賢治が必要になる。
賢治の共感力は、やさしさではありません。それは、他者や自然や制度に触れ、自分の見方を閉じないための力です。完成された主体として世界を支配するのではなく、小さなiとして、熊に、よだかに、烏に、豚に、土地に、死者に、未来、そして世界に見返されることです。
その出会いの中で、私たちはもう一度、世界の感じ方を変えることができるのだと思います。
