S1第6回 世界は私たちの身体を変える(7/4改稿)
『セロ弾きのゴーシュ』から考える 世界に触れられ 身体が変わるということ
第1回では、宮沢賢治を、世界の感じ方そのものを変えてしまう人として考えました。
第2回では、その感受性を「未完成な自由」という言葉で考えました。未完成な自由とは、何も決めないことではありません。暫定的に決め、実行する。結果を引き受け、必要なら批判を受け、修正し、また始める。完成された正解に自分を閉じ込めず、他者や世界との関係の中で、変わりうる余白を失わないことです。
第3回では、そのような自由を生きる主体を、「デクノボウのi」として考えました。デクノボウのiとは、他者や自然や土地や死者や技術との出会いによって、自分の見方を少しずつ変えられる未完成な主体です。
第4回では、その小さな回転を、賢治の共感力として考えました。共感とは、他者の世界を完全に理解することではありません。自分とは異なる存在に触れたとき、自分の見方が不十分だったことに気づいてしまうことです。
第5回では、AI/DX時代に、技術を何のために使い、誰が目的を決め、誰が異議を述べ、必要なら誰が修正し停止できるのかを問いました。
今回の中心は、さらに手前にある問題です。
私たちの身体は、そもそも、どのように世界によって変えられているのでしょうか。
音、光、場所、道具、動物、反復、誰かの求め。
私たちは、それらをただ外側から見ているだけではありません。それらに触れられ、促され、習慣を変え、身体の動きを変え、世界への向きを変えています。
この第6回では、『セロ弾きのゴーシュ』から、そのことを考えます。
1 世界は ただ見られるものではない
私たちは、世界を見て、考え、判断し、自分の意思で行動していると思いがちです。
椅子を見て、座る。道を見て、歩く。川を見て、近づくか、避けるかを決める。スマートフォンに通知が出て、画面を開く。
このとき、私たちは自分の意思だけで動いているのでしょうか。
もちろん、私たちは判断しています。しかし同時に、世界の側もまた、私たちに何かを促しています。
椅子は、座ることを促す。道は、歩くことを促す。川は、渡ること、眺めること、近づかないことを促す。通知は、反応することを促す。
世界は、ただそこにあるだけではありません。世界は、私たちの行為の可能性を差し出しています。
難しい言葉では、こうした関係を「アフォーダンス」と呼ぶことがあります。けれど、ここでは専門用語よりも、もっと素朴に言いたいと思います。
世界は、私たちの身体を変える。
賢治作品の中で、人間は世界の外側に立つ観察者ではありません。自然、動物、音、光、風、道具、場所、労働、他者の声。それらに触れられながら、人間は少しずつ変えられていく存在です。
『セロ弾きのゴーシュ』は、そのことを、とても鮮やかに描いた作品です。
2 第4回の「共感」と 第6回の「身体」の違い
ここで、第4回との違いを確認しておきます。
第4回では、「賢治の共感力は、やさしさではない」と考えました。共感とは、相手の気持ちを完全に理解することではありません。熊、よだか、烏、豚に触れたとき、人間の側の価値判断や制度の見方が揺らいでしまうことでした。第4回の中心は、「他者に見返されること」です。
一方、第6回の中心は、「環境に身体を変えられること」です。
両者はつながっています。しかし、同じではありません。
第4回では、他者との出会いが、自分の見方を問い返しました。第6回では、音、反復、楽器、場所、動物との関係が、ゴーシュの身体の使い方そのものを変えていきます。
第4回が、価値判断や視点の揺らぎを中心にした回だとすれば、第6回は、習慣や感覚や身体の変化を中心にした回です。
私たちは、何かを理解してから身体を動かすとは限りません。反復する、聞く、待つ、呼吸を合わせる、失敗する、繰り返す。その中で、身体の方が先に変わっていくことがあります。
『セロ弾きのゴーシュ』は、世界に閉じていた一人の人間が、動物、音、反復、場所との関係によって、少しずつ変えられていく物語です。
3 ゴーシュは 意志だけで変わったのではない
ゴーシュは、町の活動写真館でセロを弾く楽手です。しかし、彼はうまくありません。楽団の中でも下手とされ、楽長から厳しく叱られます。
ゴーシュは、努力していないわけではありません。楽譜を見て、一生懸命に弾き、汗をかいて練習している、それでも、音楽にならない。
ここが重要です。
ゴーシュの問題は、単なる努力不足ではありません。「もっと頑張ればよい」という話でもありません。
彼は、自分の中だけで完結したまま弾いています。楽長から評価されるために、失敗しないために、下手だと言われないために弾く。
しかし、音を聴く他者や、音が響く場所や、音に反応する身体との関係が、まだ十分に開かれていない。
ゴーシュは、セロを抱え、壁の方を向いて、一人で弾き直します。その姿には、強い孤独があります。けれど、その夜から、動物たちが次々に訪れます。
猫が来る、かっこうが来る、狸の子が来る、野ねずみの親子が来る。動物たちは、ゴーシュを上達させるために現れたわけではありません。彼らには、それぞれの事情があり、それぞれの要求があり、それぞれの身体のリズムがあります。
その出会いの結果として、ゴーシュの演奏と身体が変わっていくのです。
4 猫 音は人間の評価だけに属さない
最初に訪れるのは、猫です。
猫は、ゴーシュに「印度の虎狩り」を弾くように求めます。ゴーシュにとってセロは、それまで、うまく弾けない楽器でした。楽長に叱られる原因であり、自分の劣等感を突きつける道具でした。しかし猫にとって、その音は別の仕方で届いています。
猫は、人間の音楽会の評価基準で音を聞いていません。
上手か、下手か。楽団に合っているか、観客に受けるか。そうした基準とは別のところで、音に反応しています。
ここで、ゴーシュは、自分の音が人間の評価だけに属していないことを知ります。
同じ音でも、聞く身体が違えば、届き方も違う。音は、演奏者が意図した意味だけを運ぶわけではない。音は、別の身体に触れ、別の反応を引き起こす。
もちろん、ゴーシュは猫の世界を完全に理解しているわけではありません。猫が何を聞き、どう感じているのかを、人間の言葉で説明しきることもできません。しかし、猫との出会いによって、ゴーシュは、自分の音を「失敗した音」とだけ見ることができなくなる。
ここに、最初の小さな変化があります。
世界は、ゴーシュに理論を教えたのではありません。猫という別の身体を通して、自分の音の意味が一つではないことを知らせたのです。
5 かっこう 反復は身体の聴き方を変える
次に、かっこうが来ます。
かっこうは、ゴーシュに同じ音の反復を求めます。ゴーシュからすれば、面倒で、腹立たしい訪問です。しかし、この反復が重要です。
音楽は、頭で理解するだけでは身につきません。身体が変わらなければ、音は変わりません。
指や腕の動き、弓の速さ、呼吸や間合い、耳の使い方、自分の音を聞く力。それらは、何度も繰り返される中で、少しずつ変わっていきます。
かっこうは、ゴーシュに音楽理論を説明しません。正しい方法を講義することもありません。ただ、もう一度、と求めます。
もう一度、もう一度。
その繰り返しの中で、ゴーシュは、かっこうの音の方が本当の音階に合っているのではないか、と感じ始めます。
これは、かっこうがゴーシュを教えたというよりも、反復の場がゴーシュの身体を変えたと考える方がよいと思います。
ゴーシュは、かっこうに付き合わされます。いらだちながら弾く。弾き続け、聞き直し、また弾く。そのうち、自分が正しいと思っていた音の聞き方が揺らいでいく。
反復は、単なる訓練ではありません。自分の身体の癖に気づき、別のリズムを受け入れるための時間です。
世界は、ゴーシュに考えを与えたのではありません。世界は、ゴーシュの身体に、聞き直すことを覚えさせたのです。
6 狸の子 音楽は一人で完成しない
次に、狸の子が来ます。
狸の子は、小太鼓の練習をするために、ゴーシュのセロに合わせて叩かせてほしいと頼みます。ここでゴーシュに求められるのは、一人で正しく弾くことではありません。
相手のリズムを聴き、自分の音を相手の動きへ合わせること、待つことです。少し遅れることが、相手をつまずかせると知ることです。
ゴーシュは、狸の子から、自分の演奏の遅れを指摘されます。その指摘は、楽長の叱責とは違います。楽長の言葉が、ゴーシュを評価する言葉だったとすれば、狸の子の言葉は、共に演奏するための言葉です。
狸の子は、「あなたは下手だ」と言うのではありません。あなたの音が遅れると、自分がつまずく、と言います。
ここには、音楽が一人の技量を示すものではなく、複数の身体の時間を調整する関係であることが示されています。
ゴーシュは、狸の子になりきることはできません。狸の子の身体感覚を完全に理解することもできません。しかし、自分の音が、他の身体の動きに影響していることには気づきます。
この気づきによって、ゴーシュの演奏は、一人で完結する演奏ではなくなります。
音楽は、自分の音を押し出すことではない。相手の音を待ち、相手の時間に応答し、互いにずれを調整することでもある。
狸の子との出会いは、ゴーシュの身体に、共に演奏するための呼吸を覚えさせます。
7 野ねずみの親子 音は弱った身体へ届く
最後に、野ねずみの親子がやって来ます。
母親の野ねずみは、病気になった子どもを連れ、ゴーシュに助けを求めます。ゴーシュのセロを聴いた動物たちの病気がよくなった、と聞いたからです。
ここは、現実の音楽療法の効果を説明する場面ではありません。童話の中で、野ねずみの親子が、ゴーシュの音に助けを求める場面です。
この場面で重要なのは、ゴーシュにとって音楽の意味が変わることです。それまでゴーシュの演奏は、楽団の中で評価されるためのものでした。上手か、下手か。合っているか、遅れているか。音楽は、人間の評価基準によって測られていました。
少しづつ変わり始めているとはいえ、猫の時からまだ変わらない強い評価基準が、ゴーシュの中に残っています。
しかし、野ねずみ親子の前では、音楽は別の役割を持ちます。猫の時とは別の方向に開き、回転します。
音は、弱った身体に届くものになる。演奏は、自分の上達を示すためだけでなく、目の前の存在の求めに応答する行為になる。
ゴーシュは、子ねずみをセロの中に入れ、音を響かせます。セロの胴は、単なる楽器の箱ではなく、振動と響きに包まれる小さな環境になります。
ここでゴーシュは、自分の音が、誰かの身体と関係していることを知ります。
ただし、ゴーシュが子ねずみの苦しみを完全に理解したわけではありません。彼は、野ねずみ親子の切実な求めに触れ、自分の音が、他者へ届く可能性を持つことに気づきます。
この出会いは、ゴーシュの音楽を、評価や競争の外へ少し開きます。
猫は、音が人間以外の身体にも届くことを示しました。かっこうは、反復によってゴーシュの聴き方を変えました。狸の子は、他の身体とリズムを合わせることを求めました。野ねずみ親子は、音楽を、目の前の存在への応答へ変えました。
動物たちは、ゴーシュを教育するために現れたのではありません。それぞれの事情と切実さを持って現れ、その結果として、ゴーシュの身体と演奏が変わってしまうのです。
8 学びとは 環境に身体を変えられること
私たちは、学びを、知識を得ることだと考えがちです。正しい説明を聞く、正しい答えを覚える、正しい方法を理解する。もちろん、それも大切です。
しかし、『セロ弾きのゴーシュ』で起きているのは、それだけではありません。
ゴーシュは、動物たちから体系的な知識を教えられません。講義を受けるわけでも、手本を見せられるわけでもありません。それでも、彼は変わります。
猫の身体に届く音、かっこうとの反復、狸の子とのリズム、野ねずみ親子の切実な求め。
それぞれの出会いが、ゴーシュに別の弾き方を要求します。つまり、動物たちは、ゴーシュの身体へ働きかける環境でもあります。
しかし、ここで動物を、ゴーシュのための環境や教材へ還元してはいけません。動物たちは、それぞれの側の事情からやって来ます。ゴーシュの成長を目的にしているわけではありません。
ゴーシュは、その出会いの中で、自分の身体を変えざるを得なくなるのです。
学びとは、知識を自分の中に蓄えることだけではありません。世界との関係の中で、自分の身体の使い方、注意の向け方、聞き方、応答の仕方が変わることです。
ゴーシュは、自分の中だけで上達したのではありません。世界に触れられ、その呼びかけに応答する中で、少しずつ変わったのです。
9 「未完成な自由」としてのゴーシュ
ここで、第2回の「未完成な自由」に戻ります。
未完成な自由とは、完成された正解を持つことではありません。自分だけの幸福を確定することでもありません。世界との関係の中で、変わり続ける余白を失わないことです。
ゴーシュは、最初から完成された演奏家ではありません。下手で、不器用で、怒りっぽく、孤独です。しかし、その未完成さが、彼を世界に開きます。
もしゴーシュが最初から完璧な演奏家だったなら、動物たちの訪問を受け入れなかったかもしれません。もしゴーシュが、自分の音に満足していたなら、かっこうの反復を聞き流したかもしれません。もしゴーシュが、音楽を評価や成功のためだけのものと決めていたなら、野ねずみ親子の求めに応答しなかったかもしれません。
未完成であるからこそ、世界に変えられる余地があり、他者の声が入り込み、身体はまだ別の習慣を覚えられる。
ただし、未完成とは、何でも受け入れることではありません。ゴーシュは、動物たちに最初から素直ではありません。怒る、困る、抵抗する。それでも、関係を完全に断ち切らない。
この、抵抗しながらも閉じないことが、未完成な自由の重要な形です。
世界に変えられるとは、自分を失うことではありません。自分の立場を持ちながら、その立場を絶対化しないことです。
ゴーシュは、世界との関係の中で、少しずつ別の演奏者になっていきます。
10 AI/DX時代の環境は 私たちに何をさせているのか
ここで、第5回のAI/DX時代へ戻ります。
現代の私たちもまた、環境によって身体を変えられています。スマートフォンの通知は反応することを、SNSのタイムラインは比較することを、検索エンジンは答えを急ぐことを、そして動画プラットフォームは次の動画を見ることを、AIはすぐに答えを受け取ることを促します。これらもまた、現代の環境です。
問題は、それらを単なる道具だと思い込むことです。道具は、ただ使われるだけではありません。道具は、使う人間の身体、注意の向け方、時間の感じ方を変えます。待つことへの耐性や怒り方を変え、欲望の形を変えます。他者との距離感を変えます。
だから、AI/DX時代に必要なのは、単に新しい技術を使いこなす力ではありません。自分がどのような環境によって習慣を作られているのか、どのような通知や評価や画面に反応させられているのか、どのような行為を技術によって促されているのか。それらに気づく力が必要です。
ただし、AIやスマートフォンが一方的に私たちを支配している、と言いたいわけではありません。私たちにも、使い方を選び直す余地があります。
通知を切り、使う時間を決め、一度立ち止まること。別の情報源に触れたり、他者と話すこと。技術の目的や評価を問い直すこと。そして、技術の設計や運用に対して、異議を述べ、修正を求めること。
第5回で見たように、問題は技術を使うか、使わないかだけではありません。何のために使うのか、誰が目的を決めるのか、誰の経験が見えにくくなるのか、誰が異議を述べ、必要なら停止できるのか。
『セロ弾きのゴーシュ』は、世界が身体を変えることを描きます。
AI/DX時代の私たちもまた、同じ問いの前に立っています。この環境は、私たちに何をさせようとしているのか。この技術は、私たちの注意や身体をどのように変えているのか。そして、その中で、私たちはどのように応答し直せるのか。
11 次回へ――科学と仏教は 賢治の中で切り離しがたい
『セロ弾きのゴーシュ』で見たのは、身体が、音や動物や反復や場所との関係の中で変わっていくということでした。
ここから、次の問いが生まれます。
賢治は、世界を科学的に観察しました。鉱物を学び、気象や農業、そして技術を考えました。しかし同時に、祈り、死者、宇宙、苦しみ、救済についても書き続けました。
科学と仏教は、賢治の中で、同じものではありません。科学には、観察、検証、反証が必要です。宗教には、救済、実践、倫理、世界への畏れがあります。
けれど賢治は、その違いを消すのではなく、土、労働、生命、宇宙、苦しみを前にして、両方の問いを生きたように見えます。
次回は、賢治において科学と仏教が、どのように切り離しがたく交差しているのかを考えます。
世界を知ること、世界に触れられること、世界への責任を引き受けること。この三つは、賢治の中で、簡単には分かれていないのです。
