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<S2第1部・私の位置が揺らぐ> 第2回 他者は 共同体の外から風のように来る(8/16改稿)

――宮沢賢治『風の又三郎』を読む

Season2第1部では、賢治作品を通して、「私」が当然だと思っている位置がどのように揺らぐのかを読んでいます。

第1回『狼森と笊森、盗森』で揺らいだのは、土地を見て、選び、利用を決める人間の位置でした。人びとは畑を起こし、家を建てます。けれども、利用を始める前に森へ呼びかけ、出来事が起きれば何度も森へ入り直します。そこで動いたのは、「私は土地を見る側にいる」という位置でした。

第2回では、その揺らぎが人間同士のあいだへ移ります。

九月一日、小さな学校へ、一人の少年がやって来ます。高田三郎です。三郎には、名前があります。父親の仕事の都合で北海道から来た転校生だという説明もあります。先生は彼を学校の仲間として紹介します。

それでも子どもたちは、三郎を見た瞬間から、別の名前で呼び始めます。「風の又三郎」。

ここで問いたいのは、三郎の本当の正体ではありません。むしろ、よく知らない者が目の前に現れたとき、私たちは何を手がかりに、その人を「こういう人だ」と決めるのかということです。

ただし、この作品を「閉鎖的な共同体が、よそ者を排除する物語」として読むのも急ぎすぎです。

子どもたちは三郎を警戒します。からかいます。一方で、彼が来るのを待ち、一緒に遊び、山や野原や川へ出かけます。三郎もまた、子どもたちの中へ入っていきます。受け入れたとも、排除したとも、一言では言えません。

『風の又三郎』が描くのは、相手の正体を決めきれないまま、関係だけが先に始まり、揺れながら続いていく時間です。

Season2第1部の二つ目の回転は、そこから始まります。

(Season2では、文末に「今回の要点」を置きました。全文を読む時間のない方は、これを読むだけでも理解していただけると思います)

1 作品の場面

三郎は学校へ来ます しかし「高田三郎」だけでは終わりません

九月一日の朝、谷川の岸の小さな学校に、見知らぬ赤毛の子どもが座っています。子どもたちは驚きます。服装が違い、髪の色も見慣れず、言葉もすぐには通じない。一郎たちは、まず、その子が何者なのかを考えます。「外国人」ではないか、学校へ入る子なのか、何年生なのか。まだ名前も事情も知らないうちから、目の前の違いを、知っている分類へ入れようとします。

そのとき、風が吹きます。窓ガラスが鳴り、学校のうしろの萱や栗の木が揺れます。そして嘉助が叫びます。「あいつは風の又三郎だぞ。」ここで、見知らぬ少年には一つの名前が与えられます。

ところが、その直後、三郎はいったん姿を消し、先生と一緒に現れます。先生は彼を「高田さん」と呼び、五年生の列へ入れます。そして教室で、高田三郎という名前と、父親の仕事の都合で北海道から来たことを説明し、「きょうからみなさんのお友だちになる」と話します。

学校にとっては、これで三郎の位置ははっきりします。名前も、席も、学年もある。先生が紹介し、一緒に勉強する。けれども、子どもたちはそれで「風の又三郎」という呼び名を捨てません。高田三郎であることと、風の又三郎と呼ばれることが、作品の中で重なったまま進んでいきます。

ここで注意したいのは、どちらか一方を「本当」と決めないことです。先生の説明は、現実の事情として筋が通っています。三郎の父は、上の野原の入口でモリブデンを掘る仕事のために来ています。一方で、三郎が現れるとき、去るとき、そして子どもたちが彼を意識するとき、風は何度も物語へ入り込みます。

作品は、その二つを並べたまま進みます。

2 通常の読解では見落とされる転倒

問われているのは、三郎の正体だけではありません

『風の又三郎』を読むと、どうしても考えたくなります。三郎は、本当に風の又三郎だったのでしょうか。それとも、北海道から来た一人の転校生だったのでしょうか。

作品は、その問いを誘います。題名そのものが『風の又三郎』ですし、風と三郎の現れ方は何度も重なります。だから、正体を考えること自体が間違いなのではありません。ただ、それだけを追うと、もう一つの動きを見落とします。

三郎が何者なのかを見定めようとしている子どもたち自身が、三郎との出会いによって浮かび上がってくることです。

初対面の三郎を見て、外国人かもしれない、学校へ入る子かもしれない、風の又三郎かもしれない。子どもたちは、目の前の存在を、自分たちが知っている言葉へ置こうとします。それは特別に悪いことではありません。私たちは、知らないものに出会えば、知っているものと比べます。名前を、そしてどこから来たのかを知ろうとします。自分との関係を確かめようとします。

問題は、名前をつけることそのものではありません。名前をつけたことで、相手をわかったと思ってしまうことです。

三郎は「高田三郎」と紹介されても、子どもたちにとってそれだけの存在にはなりません。「風の又三郎」と呼ばれても、本当に風そのものだと確定するわけでもありません。二つの名前のあいだで揺れる三郎を見ていると、こちら側にも問いが返ってきます。

私たちは、何をもって仲間だと判断しているのでしょうか。同じ土地で育ち、同じ言葉を使い、同じ習慣を知り、自分たちに理解できること。

三郎を見ていたはずが、三郎によって、自分たちの「私たち」の輪郭が見えてくる。

第1部で起きるのは、この位置の反転です。

3 もう一つの転倒

理解する前に、関係は始まっています

三郎が学校へ来た翌朝、一郎と嘉助は、いつもより早く学校へ向かいます。昨日の見知らぬ子が、本当に今日も来るのかを確かめたいのです。やがて三郎は現れ、「お早う」と声をかけます。ところが、子どもたちはうまく返事ができません。嫌っているからではありません。子ども同士でそのような挨拶をする習慣がなく、不意を突かれてしまうのです。

この小さな場面は、とても面白いと思います。

違うのは、三郎の外見だけではありません。挨拶の仕方一つでも、子どもたちの側にある「いつものやり方」が見えてきます。そして、その後の物語で、三郎はしだいにみんなの遊びへ入っていきます。

上の野原へ行き、馬を追います。三郎は馬を怖がってからかわれ、負けまいとして競馬を提案します。馬が柵の外へ出てしまい、みんなで大騒ぎになります。別の日には、三郎はたばこの葉を知らずに取ってしまいます。土地の子どもたちは、それが厳しく管理されていることを知っています。三郎は、知らなかったのだと言い、葉をその場へ置きます。

ここでは、三郎だけが不思議な存在なのではありません。馬に慣れ、たばこ畑の決まりを知っている子どもたち、北海道から来て、それを知らない三郎。場所が変われば、「知っている側」と「知らない側」も変わります。

さらに、三郎は耕助へいたずらをします。木を揺らして水滴を落とし、「風が吹いたんだい」と笑います。耕助は怒ります。三郎のような風など世界になくてもいい、とまで言います。三郎は謝りますが、耕助の怒りはすぐには消えません。

ここにも、きれいな「受容」の物語はありません。三郎は、ただ傷つけられるよそ者ではありません。いたずらをし、言い返し、時に相手を怒らせる一人の子どもです。子どもたちも、ただ三郎を排除する共同体ではありません。警戒しながら、一緒に遊び、笑い、喧嘩もします。相手を十分に理解してから、関係が始まったのではないのです。

よくわからないまま、関係が先に動き出しています。

4 理解や制度の外に残るもの

名前は、関係を一つに決めません

学校は三郎を受け入れます。先生は事情を説明し、席を与え、みんなへ友だちとして紹介します。ここは重要です。『風の又三郎』で学校制度が三郎を排除している、と読むことはできません。むしろ、制度上はかなり早い段階で、三郎の居場所が用意されています。

それでも、作品はそれだけでは終わりません。「高田三郎」という名前がわかっても、子どもたちの「又三郎」という呼び名は残ります。だからといって、学校の説明が間違っているわけではありません。逆に、子どもたちの感覚だけが真実だと言うこともできません。同じ一人の少年が、複数の仕方で現れているのです。

そして、三郎自身も、そのどちらか一方へ自分を固定しようとはしません。
「ぼくはただの高田三郎だ」と子どもたちの呼び名を訂正し続けるわけでもない。「ぼくこそ風の又三郎だ」と正体を明かすわけでもない。子どもたちから又三郎と呼ばれ、その呼び名の中で遊びながら、ときには「風が吹いたんだい」と自分でもその曖昧さに乗ります。

ここで残るものを、「制度では他者を理解できない」という大きな命題に急いで変える必要はありません。学校は、三郎を学校生活へ迎えるという役割を果たしています。ただ、名前や所属を定めることと、その人との関係の意味がすべて決まることとは違う。この差だけは残ります。

三郎は学校へ入っています。みんなと遊んでもいます。それでも、「三郎とは何者だったのか」という問いは、最後まで一つにはなりません。

5 主体は、どのように変化するか

他者を決める者から、自分の判断の根拠を問い返す者へ

第1回『狼森と笊森、盗森』では、土地を見て判断していた人間が、自分の位置を問い返されました。

第2回では、見る対象が人間へ近づきます。子どもたちは三郎を見ます。見慣れない、知らない、少し怖い、おもしろい、一緒に遊べる、腹が立つこともある。そのつど、三郎の見え方は変わります。

ここで大切なのは、子どもたちが「正しく他者を受容できる主体」へ成長した、とまとめないことです。作品には、そのような完成はありません。三郎を又三郎と呼び続け、からかい、怒り、一緒に遊び、来るのを待ちます。つまり、分類することをやめたわけではありません。

それでも、最初の朝とは違います。教室の中の「変な子」を遠くから見ていた子どもたちは、その後、三郎と同じ野原を走り、同じ川で遊び、同じ風雨の中に身を置きます。相手についての判断が、一度の印象だけでは済まなくなります。「又三郎」という名前も、初対面の恐れだけを表す言葉ではなくなっていきます。

他者を知り尽くすことではなく、相手との出来事によって、自分の最初の見方がそのままではいられなくなる。

第2回の主体の変化は、そこまでです。

6 デクノボウのiによる観測位置の回転

「三郎は何者か」から、「私は何を根拠にそう見ているか」へ

第1回でデクノボウのiは、「私は土地を見て、使う側にいる」という位置から、「私の判断は、どの位置からなされているのか」という問いへ回転しました。

第2回では、iはもう一度だけ動きます。今度は、

「三郎は何者なのか」と相手の正体を確定しようとする位置
 ➡️
「私は、何を根拠に三郎をそう見ているのか」と自分の判断の側へ戻ってくる回転

デクノボウのiによる観測位置の回転

外国人に見えたのは、又三郎だと思ったのは、馬を怖がる三郎を笑えるのは、たばこの決まりを知らない三郎を責められるのは、なぜでしょうか。そこには、三郎の性質だけではなく、子どもたち自身が暮らしてきた土地、習慣、言葉、知識があります。

iは、三郎の本当の内面へ移動するための記号ではありません。他者の場所へ立ったつもりになるのではなく、自分が相手を見ている場所を少しずらす。

「わからない人」をすぐ外へ置くのでも、「わからなくても全部受け入れよう」と決めるのでもありません。まず、自分は何を知り、何を知らず、何を手がかりに相手へ名前を与えているのかを見る。

第1部の二つ目の回転は、そこにあります。

7 共同世界は再開できるのか

三郎は、理解されたから仲間になったのではありません

三郎が学校にいた時間は長くありません。それでも、その短い時間に、子どもたちと三郎は多くの出来事を共有します。学校で学び、野原へ行き、馬を追う。栗や葡萄をとり、川で遊ぶ。いたずらをして怒られ、笑う。ここには、一つの共同世界が確かに開いています。

しかし、それは、全員が三郎を理解し、同じ見方を持つことで成立した世界ではありません。三郎を「又三郎」と思う感覚も、高田三郎という日常的な説明も残ります。親しさも、警戒も、喧嘩もあります。

そして、その関係は突然終わります。激しい風雨の朝、一郎と嘉助は早く学校へ行きます。先生に三郎は来るのかと尋ねると、前の日、父親と一緒にすでに別の土地へ行ったと知らされます。モリブデンの鉱脈に当分手をつけないことになり、父親の仕事の事情が変わったからです。先生の説明は明快です。三郎は父の仕事の都合で来て、父の仕事の都合で去った。

ところが嘉助は、その説明を聞いたあとでも、やはりあいつは風の又三郎だった、と言います。

作品は、ここでも二つの説明のどちらかを消しません。さらに印象的なのは、その後です。一郎と嘉助は、しばらく黙って顔を見合わせます。相手が本当はどう思っているのかを探るように。三郎だけが説明しきれないのではありません。三郎が去ったあとでは、三郎について考える子どもたち同士でさえ、互いが何を思っているのか確かではありません。そして風は、窓ガラスを鳴らし続けます。

ここで共同世界は、和解して完成したのでも、排除によって壊れたのでもありません。短いあいだ実際に開かれ、そのまま中断されます。別れの挨拶さえ十分にできないまま。

残るのは、三郎を一つの説明へ閉じられない記憶です。

8 「未完成な自由」との接続

自由とは、わからない相手を、わかったことにしないことです

『風の又三郎』では、子どもたちは何も判断しないわけではありません。三郎を見て、名前をつけます。遊びに誘い、からかい、怒ります。

人と人が関われば、判断は避けられません。だから、「わからないのだから、何も決めない」というのが未完成な自由ではありません。反対に、一度の印象や一つの名前で、相手についての判断を完成させることでもありません。

三郎は、見知らぬ赤毛の子から始まり、高田三郎になります。又三郎と呼ばれ、遊び仲間になります。時には腹の立つ相手にもなり、そして、突然いなくなります。一人の人が、関係の中で違って見えてくる。そのたびに、自分の見方も少し変わる。

第2回で「未完成な自由」と呼びたいのは、まずこの余地です。相手を完全に理解する自由ではありません。相手を好きになる義務でもありません。自分の理解にはまだ続きがあるかもしれない、と残しておけること。そして、自分の判断の方を問い返せること。

第1回では、土地を利用する私の位置が動きました。第2回では、他者を理解し分類する私たちの位置が動きます。

第1部は、まだ世界の外へ出ようとしているのではありません。自分が当然だと思っていた場所を、一つずつずらしている途中です。

9 次の思想への問い

他者を理解できないとき、私たちは何を根拠に判断するのでしょうか

『風の又三郎』から、一つの問いが残ります。人は、他者を完全には理解できません。それでも、私たちは相手について考え、関わり方を決めます。では、その判断は何を根拠にするのでしょうか。

見た目、出身、言葉でしょうか。これまでの行動や自分たちとの違いでしょうか。そして、自分の判断が間違っていたかもしれないと、何によって気づけるのでしょうか。

ここで、「他者は理解できないのだから判断してはいけない」と結論することはできません。三郎と子どもたちも、実際にはそのつど関わり方を決めています。ただ、判断することと、相手を一つの意味へ閉じることは同じではない。この二つをどう分ければよいのでしょうか。

Season3では、この問いをもう一度考えることになります。けれども、今はまだ、思想家の答えを持ち込まないでおきます。

三郎が最後まで、高田三郎であり、又三郎でもありうるように見えたこと、そして、その揺れによって、子どもたち自身の見方が揺れたこと。まず、その経験を残します。

10 花巻で問われること

人を呼ぶ言葉が、その人を決めてしまっていないでしょうか

この問いを花巻へ持ち帰ると、身近な言葉が見えてきます。

若者と高齢者、移住者と観光客、外部人材と昔から暮らす人。こうした言葉が悪いわけではありません。地域で何かを考えようとすれば、状況を整理する言葉は必要です。

ただ、その呼び名が、その人自身についての結論へ変わるときがあります。「移住者だから地域をわかっていない」「昔からいるから変化を嫌う」「若いから新しいことを任せればよい」「外から来た人だから新しい視点を持っている」。どれも、実際の一人の人を知る前に、その人の位置を決めてしまう可能性があります。

『風の又三郎』から花巻へ持ち帰りたいのは、「外から来る人をもっと受け入れよう」という単純な教訓ではありません。三郎は、受け入れられるだけの受動的な存在ではありません。子どもたちと遊び、提案し、失敗し、いたずらをし、相手を怒らせもします。

問いたいのは、こちらです。私たちは、人をどんな名前で見ているでしょうか。その名前と、その人自身を同じものにしていないでしょうか。実際に関わる中で、最初の見方が違っていたと気づいたとき、見方を変えられるでしょうか。

今の段階で、制度の答えまで出す必要はありません。まず、地域の「私たち」が、誰を、どんな根拠で、どこに置いているのか。その自分たちの位置を問い返すこと。

第2回から花巻へ持ち出す問いは、そこまでに留めたいと思います。

11 次回へ

利用する者が、利用される側へ回るとき

第1回では、土地を見る私の位置が揺らぎました。第2回では、他者を見て分類する「私たち」の位置が揺らぎました。それでも、ここまでは、見る側にいる主体そのものが消えたわけではありません。私たちは、自分の見方を問い返すことができます。

次回『注文の多い料理店』では、その位置がさらに大きく反転します。二人の紳士は、自分たちが山や動物を見て、選び、利用する側にいると思っています。ところが、料理店へ入ると、読む側だったはずの彼らが、書かれた「注文」によって動かされていきます。

見る者が、見られる者になる。利用する者が、利用される者になる。第1部の三つ目の回転です。次回は、自分で判断していると思っている「私」そのものが、どのように外から導かれるのかを考えます。

今回の要点

  • 今回の転倒
    『風の又三郎』では、共同体が外から来た三郎を見定める側にいたはずが、三郎との出会いによって、自分たちが誰を「仲間」と見ているのか、その判断の輪郭を問い返されます。

  • 通常の読解では見落とされる点
    三郎が本当に風の又三郎だったのかを一つに決めるだけでは、作品の動きを捉えきれません。「高田三郎」という説明と「風の又三郎」という呼び名は、最後まで重なったまま残ります。

  • もう一つの転倒
    子どもたちは、三郎を理解し終えてから関係を始めるのではありません。よくわからないまま、一緒に学び、遊び、失敗し、怒り、笑います。理解より先に関係が動きます。

  • 理解や制度の外に残るもの
    学校は三郎を転校生として受け入れます。それでも、名前や所属だけで三郎との関係の意味がすべて決まるわけではありません。一人の人は、一つの呼び名へ収まりきりません。

  • 主体はどう変わるか
    主体は、他者を理解し分類する者から、「自分は何を根拠に相手をそう見ているのか」と、自分の判断の側を問い返す者へ少しずつ位置を変えます。ただし、完全な受容や成長には到達しません。

  • デクノボウのiとは
    今回のiは、三郎の内面へ入り込む記号ではありません。相手を見ている自分自身の位置をずらし、自分の理解と判断の限界を見るための小さな主体です。

  • 今回のiによる回転
    「三郎は何者か」から、「私は何を根拠に三郎をそう見ているのか」へ。第1回の土地・所有に続き、第2回では共同体・分類の位置が揺らぎます。

  • 共同世界は再開できるのか
    三郎と子どもたちの共同世界は、完全な理解や同化によって成立したのではありません。短いあいだ実際に開かれ、父親の仕事の事情によって突然中断されます。三郎を一つに説明できない記憶だけが残ります。

  • 未完成な自由との接続
    未完成な自由とは、他者を理解し尽くすことでも、判断を避けることでもありません。一度の印象や呼び名で相手を完成させず、自分の判断の方を問い返せる余地を残すことです。

  • 次の思想への問い
    他者を完全には理解できないまま、それでも関わり方を決めなければならないとき、私たちは何を根拠に判断し、その判断をどう問い直せるのでしょうか。

  • 花巻で問われること
    「移住者」「若者」「外部人材」「昔から暮らす人」といった必要な呼び名が、その人自身についての結論になっていないでしょうか。実際の関係の中で、最初の見方を変えられるでしょうか。

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