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<S2第2部・人間の外へ開かれる> 第5回 世界は 意味より先に流れている(8/19改稿)

――宮沢賢治『やまなし』を読む

Season2第2部の主題は、「人間の外へ開かれる」です。

第4回『鹿踊りのはじまり』では、嘉十が鹿の声や踊りに触れ、自分から視点を変えようとするより先に、世界の側から見方を動かされる経験を読みました。嘉十は鹿の世界へ深く引き込まれます。しかし、自分の大きな手を見て、そこに越えられない違いがあることにも気づきます。近づける。けれども、同じにはなれない。

第2部は、その境界から始まりました。第5回『やまなし』では、さらに人間が後ろへ退きます。

舞台は、小さな谷川の底です。人間の主人公はいません。二匹の蟹の子どもたち、魚、かわせみ、泡、光、影、水、そして、やまなし。

ここでは、何かが「何であるか」が決まるより先に、出来事が起こります。光が変わり、魚が過ぎる。青く光るものが飛び込み、蟹の身体がすくむ。黒いものが落ちてきて、匂いが水へ広がる。そのあとで、「あれは何だったのか」が少しずつ確かめられます。

だから、今回の題名にある「意味より先に」という言葉には、注意が必要です。世界には意味がない、という意味ではありません。人間や生きものが意味を与える以前の、純粋な世界がどこかにある、と言いたいのでもありません。ここで言いたいのは、もっと単純なことです。

出来事の意味や正体が確定するより先に、世界はすでに動き、身体はすでにその影響を受けている。『やまなし』から受け取りたいのは、まずその順序です。

第4回では、異なる生きものとの出会いによって、人間の見方が動きました。第5回では、光、水、影、音、匂いといった環境の変化そのものが、意味づけより先に身体へ届きます。そして次の第6回では、その「先に働いているもの」が、労働を取り囲む条件や構造の問題へ移っていきます。第5回は、その真ん中にあります。

(Season2では、文末に「今回の要点」を置きました。全文を読む時間のない方は、これを読むだけでも理解していただけると思います)

1 作品の場面

谷川の底では、説明される前に出来事が起こります

『やまなし』は、小さな谷川の底を映した二枚の「青い幻燈」として始まります。

一枚目は五月です。青じろい水の底で、二匹の蟹の子どもたちが、クラムボンについて話しています。クラムボンは笑った。なぜ笑ったのか。わからない。クラムボンは死んだ。殺された。では、なぜ殺されたのか。それも、わからない。

作品の冒頭から、わからないものが置かれています。しかも、わからないから世界が止まるわけではありません。

暗い泡が流れ、蟹たちは泡を吐きます。その泡は、水銀のように光りながら上へのぼります。銀色の腹をひるがえして、魚が通ります。突然、日光が水中へ降り、光の網が底の岩の上で伸びたり縮んだりします。蟹の子どもたちは、すべての意味を知ってから世界を経験しているわけではありません。世界の変化の中にいて、そのつど見て、驚き、話しています。

やがて、その魚の近くへ、青く光るものが激しく飛び込んできます。魚は消え、蟹の子どもたちは、声も出せず居すくみます。そのあとで、父親が出てきます。子どもたちの説明を聞き、それが鳥であり、かわせみなのだと教えます。

出来事が起こり、身体が反応する。あとから名前が与えられる。この順番が、五月の場面にはあります。

そして、名前を知れば、恐怖が全部消えるわけでもありません。父親が大丈夫だと言い、流れてきた白い樺の花を見せても、子どもの蟹はなお怖がっています。説明は世界を整理しますが、説明された瞬間に、身体に起きたことまで消えるわけではありません。

二枚目は十二月です。同じ谷川の底ですが、季節が変わり、蟹の子どもたちも大きくなっています。月光が冷たい水の底まで透き通り、水面は青じろい火を燃やしたり消したりするように揺れています。

その静かな水へ、突然、大きな黒いものが落ちてきます。子どもたちは、まず「かわせみだ」と思います。五月にかわせみを経験した子どもたちが、新しい出来事を、すでに知っているものとして受け取ったと読むことはできます。ただし、作品はその理由を説明していません。重要なのは、その次です。

父親は、すぐに同意しません。両方の眼を伸ばし、よく見ます。そして、それはやまなしだと確かめます。そのあとで、匂いが水の中いっぱいに広がります。三匹は、流れていくやまなしを追います。枝に引っかかった実を見ます。父親は、それが熟していることを確かめ、もう二日ほど待てば沈んできて、酒になると話します。

ここでは、落ちる、驚く、知っているものとして受け取る、よく見る、見直す、匂いを感じる、追う、そして、待つ、という時間があります。

『やまなし』の世界は、意味が最初から貼り付けられている世界ではありません。出来事の中で、意味が確かめ直されていく世界です。

2 通常の読解では見落とされる転倒

問われているのは、クラムボンの正体だけではありません

『やまなし』を読むと、どうしても知りたくなります。

クラムボンとは何なのか。泡なのか、光なのか。小さな生きものなのか。蟹の子どもたちだけが知っている何かなのか。また、五月と十二月は何を表しているのでしょうか。五月は死、十二月は再生。かわせみは恐怖、やまなしは救い。

そのように読むこともできます。けれども、その意味を一つに決めた瞬間、作品そのものが持っている動きは少し薄くなります。

『やまなし』は、読者へ答えを先に渡しません。

私たちはまず、水の底へ入れられます。青じろい水、鋼のような天井、流れる泡、水銀のような光、魚の銀色の腹、突然降ってくる黄金の日光、底へ伸びる影、水を破る青いもの、月光、やまなしの匂い。

読む人は、「これは何を象徴しているのか」と考えることができます。しかし、その前に、作品は光や音や動きや匂いを次々に置きます。

ここで、読者の位置にも小さな転倒が起きます。私たちは、作品の外から意味を取り出すつもりで読み始めます。けれども『やまなし』は、すぐには意味を取り出させず、まず川底の変化の中へ私たちを置きます。

だから、「わからない」は、ただの読解の失敗ではありません。クラムボンについて、作品の中の蟹自身が、知らない、わからない、と言っています。読者まで、すぐにその空欄を埋めなければならない理由はありません。

意味を求めることをやめる必要はありません。ただ、意味を決める前に残っているものを、消さない。『やまなし』を読む第一歩は、そこにあります。

3 もう一つの転倒

身体は、正体がわかる前から反応しています

第5回で特に大切にしたいのは、五月と十二月に共通する順番です。

五月。青く光るものが飛び込みます。蟹の子どもたちは、その正体を知りません。けれども、知る前に居すくみ、震えます。父親があとから、それをかわせみと名づけます。

十二月。大きなものが落ちてきます。子どもたちは、今度は知っているものとして「かわせみ」と判断します。しかし、父親がよく見ると、やまなしでした。そのあとで、匂いが広がり、蟹たちはそれを追います。

ここで描かれているのは、「身体の方がいつも正しい」ということではありません。身体は間違えることもあります。十二月の子どもたちは、落ちてきたものを最初はかわせみだと思います。けれども、その反応が間違っていたからといって、何も起きていなかったわけではありません。

水面から何かが落ちる。身体がすくむ。そのあとで、観察が続き、判断が変わります。つまり、身体の反応と意味づけは、きれいに別々ではありません。

出来事に触れ、反応し、見直し、名前を与え、また世界を見る。『やまなし』では、その往復が水の中で起きています。

ここで「意味以前の世界」という言葉を使うなら、慎重でありたいと思います。意味のまったく存在しない世界を、賢治が描いたと言いたいのではありません。

そうではなく、私たちが「これはこういうものだ」と確定するより先に、光は変わり、水は動き、音は響き、匂いは広がり、身体は反応している。その先行する出来事を、あとからの意味づけによって消してしまわないことです。

第4回では、鹿との遭遇によって嘉十の見方が動かされました。第5回では、人間は中心から退き、もっと広い環境の変化が前に出てきます。「世界の側からiが動く」という第2部の動きが、ここでもう一段深くなります。

4 理解や制度の外に残るもの

五月と十二月を、一つの答えにしません

五月と十二月には、たしかに強い対照があります。五月には、魚がかわせみにさらわれる出来事があります。十二月には、やまなしが落ちてきて、よい匂いが水いっぱいに広がります。だから、五月=死、十二月=再生と読みたくなります。けれども、物語はそれほど単純ではありません。

五月には、クラムボンの笑いがあり、黄金の日光があり、白い樺の花が流れてきます。十二月にも、最初にはかわせみへの恐れがあり、冷たい水があり、遠くから響いてくる波の音があります。五月が恐怖だけで、十二月が恵みだけではありません。

また、クラムボンの正体は最後まで決まりません。魚がさらわれたあと、その魚がどうなったのかを子どもたちは父親へ尋ねます。父親は、怖いところへ行った、としか答えません。かわせみの側がどのような世界を生きているのかも、作品は語りません。

やまなしについては、父親が名前を知り、熟していることを知り、その後どうなるかも知っています。それでも、やまなしが落ちてきたこと自体を蟹たちが決めたわけではありません。

水の底には、わかるものと、わからないものがあります。名前を得るものと、最後まで名前の定まらないものがあります。怖さと、美しさがあります。捕食と、匂いがあります。

これらを一つの寓意にまとめれば、作品はわかりやすくなります。しかし、わかりやすくすることで失われるものもあります。『やまなし』は、すべての出来事を一つの意味へ回収しないまま、二枚の幻燈を閉じます。第5回では、その残り方を大切にします。

5 主体は、どのように変化するか

意味を与える者から、環境の中で反応し直す者へ

『やまなし』には、人間の主人公がいません。そのこと自体が、この作品を第2部の真ん中に置く意味を持っています。

第4回では、まだ嘉十がいました。鹿を見る人間がいて、その人間の知覚が、鹿との遭遇によって変えられました。第5回では、人間がさらに後ろへ退きます。川底の蟹たちは、世界を外から眺めてはいません。水の中にいます。光が変われば、その中で見え方が変わります。魚が動けば、その影が底を動きます。かわせみが飛び込めば、水面が破られ、魚は消え、蟹の身体がすくみます。やまなしが落ちれば、匂いが同じ水へ広がります。

環境は、蟹を取り囲んでいるだけの背景ではありません。蟹が実際に生きている場所です。ただし、ここからすぐに、「主体は環境によって作られる」と理論化するのは、まだ早いと思います。

作品が確実に見せているのは、身体が環境の変化を受けること。その反応のあとで、判断が確かめられたり、変わったりすること。そこまでです。

第5回で主体の位置を言い換えるなら、世界へ意味を与えて終わる者ではなく、環境の変化を受け、そのたびに意味を確かめ直す者、ということになります。

これは、第4回の嘉十から続いています。嘉十は、鹿の歌によって見方を変えられました。第5回で蟹の子どもたちは、水、光、影、捕食、匂いの中で反応を変えます。

第2部のiは、世界を説明する中心から、世界の中で変えられる小さな位置へ移りつつあります。

6 デクノボウのiによる観測位置の回転

世界から「答え」を取るのではなく、世界の変化を受け取ります

第4回で、iは一つ性格を変えました。「鹿の側から見てみよう」と自分で視点を選ぶのではなく、鹿との出来事によって、自分の見方そのものが動かされる。

第5回では、その動きがさらに進みます。ここでiが向かうのは、「この世界は何を意味しているのか」と、すぐに答えを取りに行く位置から、「意味を決める前に、ここで何が起きているのか」を受け取る位置です。

クラムボンとは何か。その問いを持ってよいのです。けれども、その答えを探している間にも、泡は流れています。五月は何を象徴しているのか。考えてよいのです。けれども、その間にも、光の網は伸び縮みし、魚の影が底を滑ります。やまなしは救済の象徴なのか。そう読むこともできます。けれども、その前に、実が落ち、蟹が首をすくめ、父親がよく見て、匂いが広がり、三匹がそれを追い、最後には待つ時間が始まります。

今回のiの回転は、

世界へ意味を与える
 ➡️
世界の変化を受け、意味を決め直す

デクノボウのiによる観測位置の回転

です。

ここでも、意味づけることをやめるわけではありません。意味をつくる前に起きたことを、あとからの説明で消さない。そして、一度つけた意味を、世界の変化によって修正できるようにしておく。第5回のiは、そこに立ちます。

7 共同世界は、再開できるのでしょうか

同じ水には、恐怖も匂いもあります

『やまなし』で「共同世界」という言葉を使うときは、少し注意が必要です。

ここには、人間同士の共同体はありません。誰かが対立し、話し合って仲直りする物語でもありません。あるのは、同じ谷川の底を通過していく、複数の出来事です。蟹がいて、魚が泳ぎ、かわせみが飛び込む。樺の花が流れ、やまなしが落ちる。水は流れ続ける。

五月の恐怖は、十二月になって解決されたのでしょうか。そうは書かれていません。十二月のやまなしが、五月に魚がさらわれたことを埋め合わせたわけでもありません。それでも、時間は続いています。

蟹の子どもたちは大きくなっています。五月に恐ろしいものとして経験した水面からの侵入は、十二月にもまた起こります。子どもたちは一度、かわせみだと思います。けれども、今度は父親がよく見ます。やまなしだとわかります。そして、すぐ食べるのではなく、二日ほど待つことになります。

同じ水の中には、恐怖の経験も、よい匂いも、捕食もあります。成熟を待つ時間もあります。どちらかが、もう一方を消してはいません。だから、第5回で共同世界の再開を語るなら、「恐怖のあとに恵みが来て、世界が癒やされた」とまとめるべきではありません。

五月を残したまま、十二月が来る。異なる出来事を一つの答えにせず、それでも時間が続く。『やまなし』が見せるのは、まずそのことです。

8 「未完成な自由」との接続

意味を急がず、反応したあとで判断を変えられること

『やまなし』は、「意味を持つな」と言っている作品ではありません。蟹の父親は、かわせみを知っています。やまなしを知っています。熟していることも、その後どうなるかも知っています。知識は重要です。名前をつけることも、説明することも必要です。むしろ十二月の場面では、子どもたちの最初の判断を、父親の観察と知識が修正します。

だから、未完成な自由を、「直感を大切にして、説明や知識を疑うこと」と考えるのも違います。

五月では、わからないものに身体が震えます。父親の説明があとから来ます。十二月では、過去に知った名前を使って判断します。父親がよく見て、その判断を修正します。ここには、感じること、記憶すること、知ること、観察すること、名前をつけること、修正すること、そして待つことが、一つの流れの中にあります。

未完成な自由とは、そのどれか一つを絶対にすることではありません。世界の変化を受け取り、必要なら意味をつけ、その意味が違っていたなら見直す。その往復を閉じないことです。

第4回では、自分ではないものによって見方が変わる余地を残すことを考えました。第5回では、さらに、自分が意味を決めるより前に、すでに世界から何かを受け取っていることを忘れないことが加わります。

自由は、世界から独立することではありません。世界の中にいながら、感じたこと、知ったこと、判断したことを、もう一度組み替えられることです。

9 次の思想への問い

意味は、どこから始まるのでしょうか

『やまなし』を読むと、一つの難しい問いが残ります。

意味は、いつ始まるのでしょうか。青く光るものが飛び込んだとき、蟹の子どもたちは、まだ「かわせみ」という名前を知りません。それでも、恐怖は起きています。十二月に大きなものが落ちたとき、子どもたちは、今度は「かわせみ」だと判断します。けれども、その意味づけはあとで修正されます。

やまなしだとわかる前から、それは水へ落ちています。名前を知る前から、出来事は起きています。そして、やまなしだとわかるころには、匂いがすでに水へ広がっています。

では、意味は、人や生きものの内側だけで始まるのでしょうか。それとも、身体が何かに反応するところから、すでに何かが始まっているのでしょうか。

ここでは、答えを出しません。「意味は身体と環境のあいだに生まれる」と、この回で理論として確定することもしません。作品が許しているのは、問いまでです。

私たちは、世界について考える前に、すでに何かを見ています。音を聞いています。匂いを感じています。過去の経験によって、身をすくめることもあります。そうしたものは、判断の前にあるのでしょうか。それとも、すでに判断の一部なのでしょうか。主体と環境を、どこで分ければよいのでしょうか。

この問いは、Season3へ残します。そして、次の第6回へ向かうためにも重要です。

光や水や匂いの変化が身体へ届くように、人間の生活では、仕事の時間、食べ物の量、道具、場所、役割といった条件も、私たちが判断するときの状況を変えます。ただし、その問題は次回に譲ります。

第5回では、「私は決める前から、何に触れられているのか」という問いまでで止まります。

10 花巻で問われること

数字や名前をつける前に、何が起きているでしょうか

この問いを花巻へ持ち帰るとき、すぐに新しい観測制度やAIの仕組みを作る必要はありません。

まず、日々の風景をどう見ているかを問い直したいと思います。川を見れば、水質や流量という数字があります。農地を見れば、収量や地温、降水量があります。観光地を見れば、来訪者数や滞在時間があります。こうした数値は必要です。名前や分類も必要です。

しかし、『やまなし』の川底から考えるなら、その前に起きている変化があります。水の濁り方が、いつもと違う。土の乾き方が違う。風の匂いが変わった。虫の姿を、あまり見なくなった。作物の葉がいつもと違う。ある場所で、人がなぜか立ち止まる。ある道を、子どもが怖がる。それらが、すべて正しい判断だとは限りません。

十二月の蟹が、落ちてきたものを最初にかわせみだと思ったように、身体の反応や印象は間違うこともあります。だからこそ、感じたことをそのまま真実とするのでもなく、数値にならないから無視するのでもなく、何が起きたのかを、もう一度見る。その姿勢が必要になります。

第5回から花巻へ持ち帰るのは、まだ方法論の完成形ではありません。分類する前に、変化は起きている。測る前に、身体は何かを感じている。そして、感じたことも、測ったことも、あとで見直されうる。まず、この順序を忘れないことです。

11 次回へ

環境からの作用は、やがて「条件」の問題へ移ります

第4回『鹿踊りのはじまり』では、異なる生きものとの出会いによって、嘉十の見方が動かされました。第5回『やまなし』では、人間そのものがさらに後ろへ退きました。光、水、泡、影、音、匂い、過去の経験。そうした環境の変化が、正体や意味が決まるより先に、身体へ届いていました。ここまで、第2部では、「世界の側からiが動く」経験を見ています。

次回『オツベルと象』では、その問いが別の場所へ移ります。白象は、自分からオツベルの仕事場へやって来ます。最初から、鎖で連れて来られるわけではありません。働くことも、はじめから嫌がっているわけではありません。しかし、仕事の量、食べ物の量が変わり、時計や鎖や重りが身体へ加わる。いつの間にか、最初とは違う条件の中に置かれていきます。

第5回では、水や光や影のような環境が、身体へ先に届くことを見ました。第6回では、自分で始めたはずの行為が、周囲の条件が変わったとき、どこまで同じ「自分の選択」と言えるのかが問われます。環境から条件へ。反応から拘束へ。第2部は、そこで三つ目の段階へ進みます。

今回の要点

  • 今回の転倒
    『やまなし』では、人間が世界へ意味を与えるという位置そのものが後ろへ退きます。意味や正体が確定するより先に、光、水、泡、影、音、匂いが変化し、身体はすでに反応しています。

  • 通常の読解では見落とされる点
    クラムボンの正体や、五月と十二月の寓意を一つに決めることが中心ではありません。作品は「知らない」「わからない」を残したまま、出来事を流し続けます。

  • もう一つの転倒
    五月では、かわせみと知る前に蟹たちは居すくみます。十二月では、落ちてきたものを一度かわせみと思い、父親がよく見てやまなしだと判断し直します。身体の反応と意味づけは、出来事の中で往復します。

  • 理解や制度の外に残るもの
    五月を死、十二月を再生と固定しません。恐怖、美しさ、捕食、匂い、わからなさが、同じ水の時間に残ります。十二月は五月を消しません。

  • 主体はどう変わるか
    主体は、世界へ一方的に意味を与える者から、環境の変化を受け、その反応を手がかりに意味を確かめ直す者へ移ります。

  • デクノボウのiとは
    第5回のiは、意味を放棄する記号ではありません。「これは何を意味するか」と急ぐ前に、「ここで何が起きているか」を受け取り、一度つけた意味を世界の変化によって修正できる主体です。

  • 今回のiによる回転
    「世界へ意味を与える」から、「世界の変化を受け、意味を決め直す」へ。第4回の他種との遭遇から一歩進み、環境そのものの変化がiを動かします。

  • 共同世界は再開できるのか
    五月の恐怖が十二月に解決されるわけではありません。それでも時間は続きます。異なる出来事を一つの答えにせず、同じ水の時間に残したまま、次の季節が始まります。

  • 未完成な自由との接続
    未完成な自由とは、意味づけをやめることではありません。世界の変化を受け、知識や観察によって判断し、その判断を必要に応じてもう一度変えられることです。

  • 次の思想への問い
    意味は、いつ、どこから始まるのでしょうか。身体が反応することと、意味を与えることは、どこで分かれるのでしょうか。この問いはSeason3へ残します。

  • 花巻で問われること
    数値や分類は必要です。しかし、数値になる前の変化や身体の違和感を、最初から判断の外へ置いていないでしょうか。感じたことも数値も、どちらも見直せるでしょうか。

  • 第2部での位置
    第4回では他種との遭遇によって見方が動き、第5回では環境の変化そのものが身体へ届きます。次の第6回では、その作用が仕事・時間・食事・道具などの「条件・構造」へ移ります。

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