<S2第2部・人間の外へ開かれる> 第4回 鹿を見るのではなく 鹿の世界へ入る(8/18改稿)
――宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』を読む
Season2第1部では、三つの作品を通して、「私」が当然だと思っている位置をずらしてきました。
第1回『狼森と笊森、盗森』では、土地を利用する人間の位置が揺らぎました。第2回『風の又三郎』では、他者を見て分類する「私たち」の位置が揺らぎました。第3回『注文の多い料理店』では、その「私」自身が、世界の外から自由に判断しているわけではないことが見えてきました。二人の紳士は、自分で文字を読み、自分で判断しているつもりで、扉の配置や言葉、空腹や期待によって少しずつ身体を動かされていきます。
ここまでが、第1部「私の位置が揺らぐ」です。
今回から、第2部に入ります。主題は、「人間の外へ開かれる」です。ただし、これは、人間を捨てて動物や自然の側へ移るという意味ではありません。人間が、自分の意思で「別の視点を選んでみる」ことだけでもありません。
第2部で起きるのは、もう少し受動的な出来事です。世界の側から、こちらの見方や身体が動かされる。その最初の作品が、『鹿踊りのはじまり』です。
嘉十は、鹿を理解するために野原へ戻るのではありません。忘れた手拭を取りに戻っただけです。ところが、そこで鹿たちに出会います。鹿の声が聞こえ、鹿たちの不安が伝わってきます。歌に身体が震え、夕陽とはんの木の見え方まで変わります。そして、ついには、自分と鹿との違いを忘れてしまいます。けれども、嘉十は鹿にはなれません。『鹿踊りのはじまり』の核心は、この二つが同時に起こるところにあります。
世界の外へ出ることはできない。しかし、自分の世界だけに閉じてもいられない。第2部は、この境界から始まります。
(Season2では、文末に「今回の要点」を置きました。全文を読む時間のない方は、これを読むだけでも理解していただけると思います)
1 作品の場面
嘉十は鹿を見に行ったのではありません
物語の冒頭から、すでに少し不思議なことが起きています。語り手は、苔の野原で眠っているうちに、吹いていた風がしだいに人間の言葉のように聞こえ、その風から鹿踊りの「ほんとうの精神」を聞いた、と語ります。最初から、人間がすべてを語っているわけではありません。しかし、だからといって「本当に風が言葉を話す」と一般化する必要もないでしょう。
まずは、賢治がこの物語を、風から聞いた話として始めていることを受け取っておきます。
その物語の中で、嘉十は北上川の東から移ってきて、畑を開き、粟や稗を作っています。あるとき、栗の木から落ちて左膝を悪くし、山の中の湯へ向かいます。食料と味噌と鍋を背負い、すすきの野原を、少しびっこを引きながら歩いていきます。途中で休み、栃と粟の団子を食べます。
食べ残した一かけを、鹿にやろうと思い、うめばちそうの白い花の下へ置きます。ここではまだ、嘉十が行為する側です。嘉十が食べ物を置き、鹿が来れば食べる。人間から動物へ向かう、一つの行為です。
ところが、少し歩いたところで、嘉十は手拭を忘れたことに気づきます。戻ってみると、鹿の気配がします。嘉十はすすきに触れないように気をつけ、爪立ちになり、息をこらして鹿たちを覗きます。六疋ほどの鹿が、芝原を環になって回っています。嘉十は鹿を見る者になります。
しかし、鹿たちが見ていたものは、嘉十ではありません。鹿たちは、嘉十が落としていった白い手拭を見ています。人間にはただの忘れ物。けれども、鹿たちにとって、それが何なのかはまだわかりません。ここから、作品の向きが変わり始めます。
2 通常の読解では見落とされる転倒
鹿もまた、世界を確かめています
鹿たちは、手拭の周りを回ります。近づこうとして、離れます。生き物ではないか、毒きのこではないか、年寄りの番兵ではないか。一疋ずつ近づきます。匂いをかぎ、風で手拭が動けば驚きます。鼻を押しつけ、舐めます。そして、仲間のところへ戻って報告します。やがて一疋が手拭をくわえて持ってくると、鹿たちは安心し、歌いながら手拭の周囲を回り、角でついたり、足で踏んだりします。嘉十は、それを隠れて見ています。
ここで面白いのは、人間と鹿のどちらが正しいかではありません。
私たちは、手拭が何であるかを知っています。布、嘉十の持ち物、忘れ物です。だから、鹿たちの言葉は「誤解」に見えます。しかし、鹿たちは人間の説明を持っていません。目の前に現れた白く長いものを、近づき、匂いをかぎ、動きを見て、触れて、舐めながら確かめています。手拭という同じものが、嘉十にとって現れる仕方と、鹿たちにとって現れる仕方は違います。
第1部でも、私たちは何度も「見る位置」を問い返してきました。けれども、第4回には少し違うところがあります。
嘉十が、自分から「鹿の立場で考えてみよう」と決めたのではありません。鹿たちが実際に動き、恐れ、近づき、離れ、匂いをかぎ、手拭を確かめている。その出来事の方が、嘉十の見方を動かし始めるのです。第2部は、ここから始まります。
3 もう一つの転倒
嘉十の身体の方が、先に変わり始めます
鹿たちを見ているうちに、嘉十に奇妙な変化が起こります。嘉十の耳が突然鳴り、身体ががたがた震えます。鹿たちの気持ちが、風に揺れる草の穂のように、「波になって伝わって来た」と語られます。そして、鹿の言葉が聞こえ始めます。
ここを、すぐに説明しない方がよいと思います。嘉十が本当に鹿語を理解したのか、それとも想像の中で鹿の言葉を聞いたのか。風景との一体感がそう聞かせたのか。作品は、私たちへ分析を求めるより先に、その出来事を起こします。
重要なのは、嘉十が「鹿の立場を想像してみよう」と意識的に視点を切り替えたのではないことです。耳が鳴り、身体が震える。鹿の気持ちが伝わってきて、声が聞こえる。身体の方が先に動いています。そして、鹿たちの歌が始まります。
太陽、はんの木、すすき、苔の野原、うめばちそう。それまで嘉十が歩いてきた同じ野原が、鹿の歌の中で別の姿を見せ始めます。鹿の一疋が歌うと、嘉十は目をつぶって震えます。鹿が太陽へ頭を下げると、嘉十もまた、太陽とはんの木を拝みます。すすきの穂まで鹿に交じって一緒に回っているように見えてきます。
第1部でiは、自分の位置を問い返してきました。ここでは、問い返すより先に、世界の方が嘉十へ入り込んできます。見る者が意識して視点を変えるのではない。見ているうちに、見え方そのものを変えられてしまう。これが、第2部最初の転倒です。
4 理解や制度の外に残るもの
嘉十は、鹿にはなれません
けれども、この作品には、もっと重要な場面があります。
嘉十は鹿たちをあまりによく見ているうちに、自分まで鹿のような気がしてきます。今にも飛び出してしまいそうになります。そのとき、自分の大きな手が、目に入ります。そして嘉十は、「やっぱりだめだ」と思い、もう一度息をこらします。
この一瞬を外すと、『鹿踊りのはじまり』は別の作品になってしまいます。
嘉十は、鹿に近づき、声を聞き、身体が震え、鹿の歌の中で野原を見ます。しかし、それでも嘉十には人間の手があります。鹿とは違う身体があります。ここで大きな手は、嘉十を人間の側へ引き戻します。
だから、題名に置いた「鹿の世界へ入る」という言葉も、慎重に使う必要があります。鹿の内面へ入り、鹿が本当は何を感じているのかを所有することではありません。鹿になったつもりになることでもありません。
鹿たちの出来事に深く巻き込まれ、自分の世界の見え方を変えられる。けれども、鹿との違いは消えない。その意味での「入る」です。近づけるが、同じにはなれない。
この境界は、失敗ではありません。むしろ、この境界があるからこそ、鹿を「わかった」と言い切らずに済みます。
5 主体は、どのように変化するか
見方を変える者から、見方を変えられる者へ
第1部の主体は、自分の位置を問い返す主体でした。土地を見ている自分、他者を分類している自分、自分で選んでいると思っている自分。
iは、その自分の位置を少しずつずらしてきました。
第4回では、主体の動きが変わります。嘉十は、「今日は鹿の視点から世界を考えてみよう」と野原へ来たのではありません。湯へ行く途中で、忘れた手拭を取りに戻り、そこで鹿に出会います。
そして、見ているうちに、耳が鳴り、身体が震え、声が聞こえ、歌に震え、太陽を拝み、自分と鹿との違いを忘れます。世界の方から、嘉十の身体と見方が動かされていきます。
この違いは大きいと思います。
第1部では、「私はどこから見ているのか」と、自分の位置を問い返しました。第2部では、「世界との出会いによって、私の見方そのものがどう変えられてしまうのか」が始まります。
主体は、世界を一方的に観察する中心ではありません。かといって、世界へ溶けて消えるのでもありません。世界に触れられ、動かされ、それでも自分の身体へ戻ってくる。嘉十の「大きな手」は、その往復を一つの場面で示しています。
6 デクノボウのiによる観測位置の回転
今回、iは自分から回るだけではありません
第1回のiは、土地を利用する位置を問い返しました。第2回では、他者を分類する自分たちの位置を問い返しました。第3回では、自分の判断そのものが、状況や言葉の中で生まれていることが見えてきました。
そして第4回。ここでiの動きが変わります。
これまでのように、「人間から鹿を見る」から「鹿の側から見てみる」というだけではありません。それでは、まだ人間が観測位置を自由に選ぶ中心に残っています。
今回起きているのは、
人間が鹿を見ている
➡️
鹿の声、動き、歌、風景によって、人間の見方そのものが動かされる
という回転です。
嘉十は鹿の位置を所有しません。鹿の世界へ完全に移住するわけでもありません。むしろ、鹿との出来事によって、自分の位置を保てなくなる。そして大きな手によって、もう一度人間である自分へ戻される。
第2部のiは、ここから少し性格を変えます。自分が世界を見るためのiから、世界に触れられて動くiへ。ただし、その回転によって、鹿の本当の声がわかるわけではありません。わからなさは残ります。
第4回でiが学ぶのは、鹿になる方法ではありません。人間だけで決めていた自分の位置が、世界との遭遇によって動きうることです。
7 「未完成な自由」との接続
自由とは、世界に変えられる余地を残すことです
自由という言葉には、自分で決める、自分で選ぶ、自分で行動するという響きがあります。それは大切です。けれども、『鹿踊りのはじまり』を読むと、それだけでは足りないことが見えてきます。
嘉十を変えたものは、嘉十自身が用意した思想ではありません。鹿であり、風です。歌であり、光です。すすきであり、はんの木です。それらとの出来事です。つまり、人間は、自分の内側だけから変わるわけではありません。世界から触れられることで変わります。
未完成な自由とは、自分の意志を貫き通せることだけではない。自分ではないものによって、自分の見方が変わる余地を失わないこと。第4回では、そこまで言えると思います。
ただし、相手に変えられることを無条件に善いものとするわけではありません。また、鹿の世界へ従えば正しい、ということでもありません。
嘉十が最後まで鹿になれないように、人間は人間の身体と生活を持っています。
だからこそ必要なのは、鹿を人間の世界へ完全に回収しないことと、人間の世界を捨てて鹿になったつもりにもならないこと。そのあいだで、自分の見方が変わることを許すことです。第2部における「未完成な自由」は、ここから始まります。
8 共同世界は、再開できるのでしょうか
同じ野原にいても、同じ世界になるわけではありません
鹿たちはやがて一列になり、太陽へ向かって立ち、歌い、踊ります。風が吹き、はんの木が輝き、すすきまで鹿たちと一緒に回っているように嘉十には見えます。そして嘉十は、ついに自分と鹿との違いを忘れます。「ホウ、やれ、やれい」。そう叫んで、すすきの陰から飛び出します。
その瞬間、鹿たちは驚きます。一度に立ち上がり、風に吹かれた木の葉のように逃げていきます。嘉十は残ります。そして、泥がつき、穴のあいた手拭を拾い、少し苦笑いをして、西へ歩き始めます。
ここを「嘉十が鹿の世界を壊した」とまで言う必要はないと思います。物語が示しているのは、もっと単純です。嘉十が飛び出し、鹿が逃げる。それまで開かれていた場面が終わる。
嘉十が鹿と一緒に踊り続けることはできませんでした。けれども、何も共有されなかったわけでもありません。嘉十は鹿の声を聞き、歌に震え、同じ太陽を拝みました。同じ野原にいました。しかし、最後まで同じ存在にはなりませんでした。
ここで共同世界を、「みんなが理解し合って一つになる場所」と考えるなら、この場面は失敗でしょう。けれども、Season2ではそう考えません。
違う身体を持つ者どうしが、一時的に同じ場へ入り、互いの違いを消さないまま、その場が開かれること。第4回で見えるのは、まずそこまでです。そして、その場は永続するとは限りません。
9 次の思想への問い
完全にはわからない世界へ、それでも影響を与えるとき
『鹿踊りのはじまり』から、問いが一つ残ります。
人間は、鹿にはなれません。鹿の身体で山を歩くことも、鹿の鼻で手拭を嗅ぐこともできません。嘉十のように鹿の声が聞こえたとしても、それを「鹿の本当の内面を理解した」と言うことはできません。では、完全にはわからない相手と、どう関わればよいのでしょうか。
この問いには、もう一つ難しいところがあります。
人間は鹿を完全には理解できない。けれども、人間の行為は、鹿のいる世界へ届いてしまいます。森を切り、道を通し、畑を作り、柵を置き、光を灯す。人間の側では一つの目的を持った行為でも、その外側で何が起きるかを、すべて知ることはできません。わからない。しかし、影響は与える。
では、そのとき人間は、何を根拠に判断すればよいのでしょうか。鹿の代弁者になることでもないし、「わからないから仕方がない」と考えることでもない。この間を、どう考えればよいのでしょうか。
ここから先は、Season3へ残します。第4回では、答えを出しません。まず、理解の限界と、影響を与えてしまうことを同時に受け取る。そこで止まりたいと思います。
10 花巻で問われること
「野生動物」という言葉で、何を見ているでしょうか
この問いを花巻へ戻すと、野生動物との関係が見えてきます。山があり、森があり、川があり、田畑があります。そして、そこには人間以外の生き物もいます。
農業や地域の安全を考えるとき、野生動物はしばしば「被害」や「管理」の言葉で現れます。作物を荒らす、人里へ出てくる、危険がある。こうした問題を軽く扱うことはできません。農家の生活も、人の安全も守らなければなりません。だから、『鹿踊りのはじまり』から「動物を守るために人間が我慢すべきだ」という結論を導くつもりはありません。
第4回で問いたいのは、その前です。
私たちが「被害を与える動物」と呼ぶとき、その言葉で見えているものは何でしょうか。そして、その言葉だけでは見えなくなるものはないでしょうか。
嘉十にとって手拭は手拭でしたが、鹿たちはそうは見ませんでした。同じ場所、同じものが、別の身体にとって同じように現れるとは限りません。
花巻の山や森や田畑も、人間だけの一つの風景ではないかもしれません。だから、まず、人間にはこう見えている。けれども、それだけがこの場所のすべてではない。そう考えられるかどうか。
第4回から花巻へ持ち帰りたいのは、まだその問いまでです。具体的な制度や管理方法は、もっと先で考えます。
11 次回へ
見方が動かされるところから、身体が先に応答するところへ
第4回で、第2部が始まりました。第1部では、iが自分の位置を問い返しました。第2部では、そのiが世界の側から動かされ始めます。
『鹿踊りのはじまり』で嘉十は、鹿を見ているうちに、耳が鳴り、身体が震え、歌に動かされ、野原の見え方そのものを変えられました。しかし、大きな手が目に入ります。嘉十は鹿になれません。だから、第4回は、「鹿の世界を理解した」では終わりません。「自分とは異なる世界との遭遇によって、自分の見方が変えられた」ところで止まります。
次回『やまなし』では、さらに人間が後ろへ退きます。舞台は谷川の底です。蟹の親子、魚、かわせみ、光、影、泡、水、そして、やまなし。そこでは、「これは何を意味するのか」と説明されるより先に、光が揺れ、影が走り、水が動き、蟹の身体が反応します。
第4回では、世界との遭遇によって人間の見方が動きました。第5回では、人間が意味を与えるより先に、世界と身体のあいだですでに何かが起きているところへ進みます。
第2部「人間の外へ開かれる」は、ここからさらに、人間が意味づける前の世界へ降りていきます。
今回の要点
今回の転倒
『鹿踊りのはじまり』では、嘉十が鹿を観察する側にいたはずが、鹿の声、動き、歌、風景によって、嘉十自身の見方と身体が動かされていきます。通常の読解では見落とされる点
鹿たちは、嘉十の手拭を人間とは違う仕方で確かめます。重要なのは鹿の判断が「正しい」ことではなく、同じものが別の身体には別の仕方で現れていることです。もう一つの転倒
嘉十は自分から鹿の視点を選ぶのではありません。耳が鳴り、身体が震え、鹿の声が聞こえ、歌に動かされます。第2部では、世界の側から主体が動かされ始めます。理解や制度の外に残るもの
嘉十は自分まで鹿のように感じますが、「大きな手」を見て「やっぱりだめだ」と思います。鹿へ近づくことと、鹿になることは同じではありません。主体はどう変わるか
主体は、自分で見方を変える者から、世界との遭遇によって見方を変えられる者へ移ります。ただし、自分と鹿との差異は消えません。デクノボウのiとは
第4回のiは、鹿の側へ移って鹿を代弁する記号ではありません。鹿の声や動きによって、自分の観測位置そのものが動かされる主体です。今回のiによる回転
「人間が鹿を見る」から、「鹿との出来事によって、人間の見方が動かされる」へ。ここから第2部のiは、世界の側から回り始めます。共同世界は再開できるのか
嘉十は鹿と同じ場へ深く巻き込まれますが、飛び出した瞬間に鹿は逃げます。共有された場は開かれても、同一化や永続はしません。未完成な自由との接続
未完成な自由とは、自分の意志だけで世界を見ることではありません。自分ではないものによって、自分の見方が変わる余地を残すことです。次の思想への問い
人間は他の生き物を完全には理解できません。それでも人間の行為は、その世界へ影響します。この「わからないが、影響は与える」という条件の中で、どう判断すればよいのでしょうか。花巻で問われること
野生動物を「被害」「管理対象」と呼ぶとき、その言葉だけでは見えなくなるものはないでしょうか。人間から見える地域だけを、地域のすべてとしていないでしょうか。第2部での位置
第1部の「私の位置をずらす」から、第2部の「世界の側からiが動く」へ。第4回は、その最初の一歩です。
