これもまた誰かの痛み藤の花 / これもまた誰かの祈り風薫る / うつという世界の痛み風薫る (つぶやき)
これもまた誰かの痛み藤の花
これもまた誰かの祈り風薫る
うつという世界の痛み風薫る うつスピ
三句での投稿です。
三句で発表する形式は、
私が気まぐれで名付けた形式では「トリプル」ですね。
痛みと祈り。
私のうつ病俳人としての俳句やエッセイは、この一言に尽きるのかもしれない。
何があったかと言えば「藤の花」の季語を含む俳句に、
あまりにこの世界にとっての「絶望」という単語も軽いなと傷ついた一件があったのですが、
今回、改めて、私の痛みと私の祈りについて考えることになりました。
傷ついた、と言わざるを得なかったのは、
これは、私の痛みだけじゃないからな。
絶望してそれでも未来を見ようと生きているのは、私だけじゃないからな。
という視点がどうしてもぬぐえませんでした。
私の人生には「絶望」がついて回っている。
私の中ではそれが私の日々です。
あの日の絶望を僕はもう忘れかけている
という自由律俳句を発表した記事で書いていますが、
もう、あの一年前感じた絶望を忘れそうになっているんです。
「もう戻ってこれないのかもしれない」
「もうずっとこの低空飛行が人生で続くのかもしれない」
そう思っていましたからね。
朝散歩後にnoteに記事が書ける。
ただそれだけのことで、嬉しさを感じ。
あの1年前のどうしようもない絶望を忘れてしまえそうです。
あの日って、多分普通に思えば、少し前の日だと感じて鑑賞した方も多いと思いますけれど、「一年前」ですからね?
私がそうなので思うのですが、絶望とともに歩まれている方の時間軸は、
皆さんが思うより長いのだと思います。
これもまた誰かの痛み藤の花 うつスピ
私の日々は、誰かの痛みと共にあるのだと思います。
藤の花を眺めていると、そして愛されてきた歴史、
正岡子規が愛でてきた歴史などを感じると、なおそう思いました。
藤の花の色彩や影から、誰かの痛みを想起して、
それを描けるような俳人でいたいな、と今回の一件でなお思いました。
これもまた誰かの祈り風薫る うつスピ
そしてまた、
風薫るという新緑の木々の間を吹き抜ける、さわやかで心地よい初夏の風を表す代表的な季語について、
この風薫るという季語というのは、現在感じている初夏の風は、
誰かの祈りとして届いているのかもしれない。
そうも感じました。
痛みと祈りに焦点を当て、俳句を作りました。
うつという世界の痛み風薫る うつスピ
今回の多分メインの一句はこちらです。
(みなさんにとっていいと感じる句はどれでしょうかと思い、
3句並べています。)
私は、うつ病という、私だけの痛みではない。世界の痛みを詠んでいる。
そう思いました。
だから、俳句の世界で「絶望」という単語が軽く扱われているのを、
どうしても見過ごせませんでした。
ただ、もう一度振り返ってみると、
この世界の人たちの多くは「絶望」を知らない。
あるいは、「絶望」と共に歩む日々を知らない。
「絶望」が軽く扱われているような俳句がその週の最高位の天に選ばれるのであればなおさら、
うつ病という痛みを抱えた私が、
この日々と痛みと祈りを詠んでいきたい。
そう思いました。
私の記事に、「絶望」を抱えている人が来るかもしれない。
私は寄り添えないかもしれない。
だけど、私の日々を、痛みと祈りをこれからもきっと、
私がうつ病という痛みを抱えている間は詠むので、
あなたのためになることがあればいいなとも思います。
これもまた誰かの痛み藤の花
これもまた誰かの祈り風薫る
うつという世界の痛み風薫る うつスピ
不思議な話です。
私の最近はうつ病となった現状や私の心を、
一つずつ俳句とエッセイに込めて詠んでいます。
必要に応じて、と言いますか、
みんなの句集が作りたくて、そのためには、
私自身がうつ病俳人であることを証明していかないといけないな、
ということの必要に応じて、という部分もあります。
うつ病の痛みや、それでも未来を見ようとする祈りのような日々を、
「自分のことを中心にして詠むことしかできない」のですが、
これもまた誰かの痛み藤の花
これもまた誰かの祈り風薫る
これもまた、誰かの痛みや祈りなのだろう、と思いながら詠んでいます。
この俳句にとって、「痛み」が過去日本で愛でられてきて、
闘病中の正岡子規さんも写実した藤の花が季語である必要があり、
「祈り」が風薫る、めぐる季節の中の気持ちの良い初夏の風である必要があるなと感じています。
風薫るという季語の中に、どこか祈りが込められているように感じます。
うつという世界の痛み風薫る
私は、自分のうつ病という自分の痛みを詠んでいます。
だけどそれは、あなたにも通じるかもしれない。
これは世界の痛みの一つなのかもしれないな、とも思います。
この句は、風薫るという初夏の風に支えられて美しく立っている。
そんな風に私には感じられます。
私でありあなたである俳句をこれからも詠んでいきます。
そしてそれは、「今の」私にしかできないな、と思います。
「今の」と書いたのは、
いつか、うつ病俳人と名乗らなくて済むような日々を本当は望んでいます。
元気になったらいいなとも思います。
逆に言えば、今の私にしか書けない輝きがあると信じて、今を丁寧に詠んでいきます。
今、世界で一番読まれるべき俳句は、うつ病のリアルを丁寧に描いた、
「うつスピさんの俳句たち」だとも思っています。
中の人は俳句をやっていますが、中の人の日々や俳句より、
うつ病の部分だけを抜き出したこのアカウントの「うつスピの俳句」の方が、
悔しいながら100倍や1000倍、世界に届きうる。
そして世界の人々に届き、救われる未来があるのでは、とも思っています。
日本の文化としての俳句が、体感を持って読んだ人に入ってくる。
俳人たちのエッセイでは省かれがちな
季語選択の理由や、描いたフレーズの説明もしてますから、
自然と俳句というものが、
私の俳句や記事やエッセイから入ってくるんだと思います。
そしてまた、メッセージ性。
うつ病の中での痛みや祈りが根底にあり、
AIから、「痛々しくて愛おしい」俳人だと過去言われましたが、
痛みだけだと読んでいくと痛みに引っ張られますし、
根底には良くなりたいという願いがあるので、
うつ病というあまりに重いテーマにしては、読後もひっぱられにくいのではないか。
さらに言えば、うつ病という病気への理解にもつながるかもしれない。
うつ病俳人うつスピが、
実は街で(元気そうに)歩いているあの人かもしれない。
ぐらいの感じであればいいのかもしれません。
近くにうつ病の方がいる方には理解につながり、
いない方も、いつ身近な人がうつ病になるか分かりませんし、
もしかしたらという感覚で過ごせる日々が理想なのかもとも思います。
俳人を名乗り、うつ病俳人を名乗り始めた私うつスピとして、
現代の2020年代の俳句に求められているのは、
私の俳句とエッセイたちではないかな、と思います。
俳句が、分かっている人たちのために書かれていて、
今俳句を始める人たちに届く言葉が、なかなかないのではないかな?と感じています。
その部分を考えた上で、発信している人が、私であり、「うつスピの俳句エッセイ」なのではないかなと思います。
中の人、うつ病以外の俳句も作っていますよ?
だけど、根底にある覚悟や強さが、
うつ病の「うつスピ」の俳句群として発表することで、群を抜いて際立つ。 世の中に届くのは、間違いなくこの句たちだよね、って思います。
(※いつか中の人の俳句も届きますように)
うつ病の痛みというのは、
私の痛みであり、世界の痛みであると思っています。
そして私のうつ病が良くなりますようにと歩み続ける日々は、
世界の祈りでもあるとも思います。
これからもこのペースを維持して俳句とエッセイを出していって、
いつか世界に届く日を信じて歩んでいこうと思います。
(たぶん、みんなで句集を作る未来は来るよ!
そして、うつ病俳人の歩みが映像化される未来があるよ!
主演は誰でしょうね?(笑))
愛を込めて。
