あの日の絶望を僕はもう忘れかけている(つぶやき)


あの日の絶望を僕はもう忘れかけている うつスピ


ここはみなさん、温かい目でみてもらって、
「自由律俳句」ということになりませんかね?


書けるうちに書いておこうと思っているのですが、
朝散歩を終えて、「記事を書こう!」という気力がある訳ですよ。

そんなことだ、と思う人もいるでしょうけれど、

散歩後にプラスアルファの行動だけでも、
「出来ない日」「しようともできない日」がまぁ軽く1年間ぐらい続いているわけです。

「今日は帰ったら記事書けるかもー」(るんるん)
って言う心の動きの中で、

「魂の夜明けの気配」かも、
「春のしっぽが見えてきた」のかも、
なんて思っているわけですが、

もう、あの一年前感じた絶望を忘れそうになっているんです。

「もう戻ってこれないのかもしれない」
「もうずっとこの低空飛行が人生で続くのかもしれない」

そう思っていましたからね。

朝散歩後にnoteに記事が書ける。
ただそれだけのことで、嬉しさを感じ。
あの1年前のどうしようもない絶望を忘れてしまえそうです。

いや本当に。

私は単純だなぁ。
それでも、生きていくってこの機能が大事なのかもしれないな。

あの1年前の日に。
絶望した中で、手を差し伸べてくれた方がいるかもしれません。

それに手を伸ばせなくても。
自分の絶望という感情のままに、せめて払いのけようとしなかった自分を。

ありがとうと小声ですら言えなくても。

態度を保留にして、
あいまいな肯定のまま、生きてこれたことも素晴らしいことなのかもしれません。

手を差し伸べてくれた方に手を伸ばし返せ。
ありがとうって言え。

いや、これは本当の絶望の中で出来ないよねって。

でもせめて、というか、
手を払いのけなかった。
ツラさのままに跳ね付けなかった。

この小さな小さな自分をほめていたいというか。


絶望はするんだけど、
そこでの言葉が良くも悪くも飛んでくるんだけど。

違う違う。って思うアドバイスも内心あるでしょう。

「態度保留」も、立派な態度だと、自分自身で思っています。

はねつけたくなるんですけどねぇ。

そんなことを考えます。

すっごく難しいのだけれど、
家族による、善意のアドバイス?
え、私の何を見てきたの?私はすごく勉強して日々あがいている中、それ?

って「うるせぇ!」ってなったこともありましたよ。

だけどまぁ、友達だとか、善意の言葉だろうなっていう人たち。
病気についてなら、理解がどれだけあるかや、
自分の置かれたことに対して適切なアドバイスって難しい訳ですよね。

これに対して積極的に言い返すほどのことではないよね。
気持ちだけありがとう。(だけど本当は自分には届かないなぁ)
みたいな「あいまいな肯定戦略」、
それって、ちょっと私自身頑張ったよね。
それで良かったと思っているのかなぁと私自身は思います。

あなたの絶望の理由は分からない。
私の場合はうつ病だった。
それに対して世間の理解、そう広まっているわけではないし、
うつに対してこうアドバイスを、
と広まった言説さえ私に適切かって分からないわけじゃないですか。

そう考えると、アドバイスが心に届くことって、
本当は少ないのかもしれないですよね。
「絶望」って自分自身への感情と、
周りからの働きかけ、両方で襲ってくるのかもしれない。

時に届かない言葉に対して、
出来る限りあいまいにして生きて来た自分をほめてみました。


こう振り返ると、いろいろとあったなぁ。


元気になれるのなら、
あの日の絶望なんて、軽く忘れられるよ。
そんな日だなぁ。

愛を込めて。

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