冬の浅間山公園スケッチ:武蔵野のススキ原と多摩丘陵から’いにしえ’を思う
先月から今月初めにかけて、シリーズ記事<植物画とは何か>に対する補足のため、下記の二つの記事を投稿しました。
その内容は、植物の持っている「美」の由来を求めて、外に出て実際の植物を自分の眼で見て確かめたのですが、その対象として秋の七草の代表植物であるススキを取り上げました。
この記事の中で、私は江戸以前の日本列島はススキに覆われていたことが推定でき、その根拠として、月岡芳年の《藤原保昌月下弄笛図》、歌川広重の《木曽街道六拾九次之内・小田井》、喜多川歌麿の《武蔵野》を例に挙げました。
その時には書きませんでしたが、「武蔵野」「ススキ」「月」の組み合わせは、江戸時代には「武蔵野図」として工芸品に用いる模様として確立されていました。
さて、この記事をきっかけに、これまで街歩きスケッチで植物を描く時に、知らず知らず派手な園芸種の花や珍しい造形の樹木を探している自分がいることに気が付きました。
西洋も日本もなぜか市民の間に大園芸ブームが起きますが、それはたかだか数百年前のことで、それ以前は「秋草図」に見られるようにありふれた草、それも茎、葉、花総体として描くのが普通で、花に注目して描く例外があるとすれば中国では牡丹、梅の花、日本では桜の花ぐらいでしょう。
と言う訳で、最近はありふれた樹木、雑草にも眼が行くようになりました。
今回の記事では、府中市にある都立浅間山公園のススキ原を描いたので紹介します(図1、2)。


以下、なぜここを選んだのか、いきさつを書いてみます。
府中の教室の生徒さんの一人に、この公園を定期的に訪れて、野生の植物や動植物を描いている女性がいます。
雑木林の中、動植物を描くのは意外に難しく、受ける相談も簡単な内容ではありません。私も現場に四季折々訪れてスケッチしてきました。
もともとこの場所は、古代の多摩川が武蔵野台地を削っていったときに、地質の関係から削り残された場所で、ムサシノキスゲのような希少種やヤマユリ、そしてキンランやギンランなどの山野草が群生して花の見ごろには見事な景観を作り、昔ながらの光景を見ることが出来ます。
しかし、冬は何もないだろうと考えてこれまで訪れていませんでした。
今回、思い立って訪れたところ、入り口付近から、今や東京近郊では見ることが出来ない、葉を落とした見事な雑木林が青空の下に拡がっていました(図3)。

麓をめぐる小道を東に進むと、これまで気にも留めていなかった、下草の笹の群生が広がっていることに気が付きました(図4)。茎と葉が風にそよいで、水墨画の竹の絵を思い出します。

浅間山を構成する三つの山のうち、東の山の頂に向かうと、今度は山頂付近にススキの群れが見えてきました(図5)。

これは予想していませんでした。すでに秋は終わっているからです。
山頂広場の中心にある祠の周囲を一周して、ススキの群生に注目すると、南西方面に山頂から山腹にかけてススキ原が拡がっています。
眼下の府中市街の先には、多摩川(見えません)を挟んではるか多摩丘陵の稜線が見え隠れしています。


奈良時代、北九州防御のために召集された防人は、国府(現在の府中)に集められそこから出発して、多摩丘陵を経て西へ向かったと言われています。
実際、万葉集には防人の妻が読んだ次の和歌があります。
赤駒を 山野にはがし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩(かし)ゆか遣らむ
(注)「多摩の横山」は、府中市南の多摩丘陵の山道
まったくの妄想ですが、古代のススキ原の武蔵野台地から多摩丘陵の道をとぼとぼ歩む夫を思いやる妻の姿が見えるような気がしました。
と言う訳で、祠の横にある石に座り、古代を思いながら鳥居越しにススキと雑木林、多摩丘陵の稜線を入れて描くことにしました(図2)。
(おしまい)
前回の記事は、下記をご覧ください。
