黒羽遊園地の秘密|第5話|ミラーハウスの迷宮
黒羽遊園地の夕暮れから夜に変わる時間。それは、闇が意志を持って園内を侵食していく時間だった。
大翔と宮里加奈は、森田園長から事務所に呼び出された。
「今日はミラーハウスの清掃をお願いしたい。あそこは鏡が多い分、汚れが目立つとお客様の『没入感』を削いでしまうからね」
森田の口調は穏やかだが、その声には常に、氷の上を這うような冷たさが混じっている。
「ミラーハウスの鏡……。今日中に終わるかな」
加奈が不安げに肩をすくめる。
「君たちのような若い二人なら、すぐに終わるでしょう。……ああ、そうだ。鏡を拭くときは、あまり自分の顔をじっと見つめすぎないように。自分を見失うと、出口も見失うことになりますから」
「そんな気味悪い事言わないで下さいよ。あそこ、昼間でさえ薄気味悪いのに…」
森田の冗談とも警告ともつかない言葉に、加奈が眉間に皺を寄せ、行き渋る。大翔は、そんな加奈の肩を軽く叩いた
「さっさと終わらせちゃおう」
バケツと雑巾を手に部屋を後にする。
「ちょっと待ってよ」
加奈も急いで後を追った。
ミラーハウスは、園の北西、ひときわ寂しいエリアに位置していた。ピエロの巨大な口が入り口になっているその建物は、夜の闇の中で嘲笑っているかのように見えた。
「……ねえ、小森谷君。園長の話って怖くない?」
加奈が小声で話しかけてくる。
「森田さんはいつもあんな感じだよ。脅かして楽しんでるんだ。気にするな」
大翔は努めて明るく振る舞ったが、森田園長の言ってる事は事実なのだと分かっていた。彼がそう言うなら、本当に鏡の中に引き込まれるのだろう。懐中電灯の光がミラーハウスのガラスに反射し、無数の自分たちが暗闇の中に浮かび上がるのを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「宮里さん、怖かったら、外で待っててもいいぞ。俺一人でやるから」
「大丈夫よ。そこまで怖がりじゃないわ。さすがにこの量を一人でやるのは無理でしょ」
加奈が笑って、先にミラーハウスに入っていく。
中に入ると、そこは文字通り鏡の迷宮だった。右を見ても左を見ても、自分と加奈の姿が幾重にも重なり、どこまでが現実の通路で、どこからが鏡の中の世界なのか、一歩進むごとに感覚が狂わされていく。
「二手に分かれた方が早いよね。私は右側から回るから、小森谷君は左をお願い」
「分かった。何かあったらすぐに叫んでくれよ」
加奈は「了解!」と短く答えると、鏡の向こうへと消えていった。
キュッ、キュッ、と雑巾が鏡をこする乾いた音だけが、密閉された空間に響く。大翔は作業に集中しようとしたが、どうしても視界の端に映る「自分」が気になって仕方がなかった。鏡の中の自分は、自分が動いたコンマ数秒後に動いているような、奇妙な違和感がある。
(気のせいか。それともすでに『あっちの世界』に繋がってるのか……もし、そうなら…)
大翔はふと、早紀のことを思った。彼女は鏡の向こうに存在しているかもしれない。そんな淡い期待を込めて、鏡を見つめた。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
一方、加奈は迷宮の深部へと足を踏み入れていた。
鏡を拭くたびに映る自分の顔を見つめる。
加奈は子供の頃から、自分の顔が嫌いだった。
生意気そうで、華やかさも、愛らしさもない。
黙ってると「怒ってる?」とよく言われた。
大学生になって覚えた化粧も、コンプレックスを覆い隠すには至らなかった。周囲の女の子たちが鮮やかに色づいていく中で、自分だけがモノクロの世界に取り残されているような、拭い去れない疎外感。
あの時までは…。
他学部との合コン。賑やかな喧騒の中で、加奈の正面だけがぽっかりと空席だった。自分の居場所のなさを象徴するようなその空間に、『いつもの事だ』と半ば諦めていた時、遅れてやってきた海斗が滑り込んだ。
「ラッキー。いい席、空いてた!」
屈託のない笑顔とともに放たれたその言葉は、加奈の卑屈な心を鮮やかに裏切った。その日、彼は会話の波に乗り切れない加奈を、一度も独りにはしなかった。彼の何気ない気遣いに触れるたび、加奈の強張った表情は少しずつ解け、自分でも驚くほど自然な笑みがこぼれた。
彼にとっては、ささいな親切だったのかもしれない。けれど、加奈にとって、それは何物にも代えがたい救いだった。
この遊園地のアルバイトを選んだのも、時給のためではない。彼がここで働くと大翔と話しているのを、偶然耳にしたからだ。
面接の日、再会した彼は、あの日と同じ子犬のような笑顔で加奈に声を掛けた。
「あれ? 宮里さんも? 楽しくなりそうだな、よろしく!」
名前を覚えられていた。
ただそれだけのことが、加奈の胸を震わせた。
海斗がいるだけで、彼女の世界はモノクロからカラーに変わる。
加奈はフッと笑うと、雑巾を握り直して、一気に手を動かした。
最初はいつもの自分の顔だった。しかし、十枚目、二十枚目と鏡を拭いていくうちに、鏡の中の自分の表情が、現実の自分とは微妙に食い違っていることに気づき始めた。
加奈が不安に駆られて眉を寄せると、鏡の中の彼女が、なぜか口角を吊り上げて微笑んでいる。
「……え?」
加奈は動きを止めた。
鏡の中の自分も動きを止める。だが、その目は笑っていない。冷たく、飢えたような光を宿して、じっとこちらを観察している。
加奈は恐怖を感じ、後ずさりした。だが、後ろにあるはずの通路も、いつの間にか鏡に変わっていた。え!?なんで!?
「小森谷君! 小森谷君、どこ!?」
叫び声は、鏡に反射して自分自身の耳に虚しく戻ってくる。ふと、正面の鏡の奥に、大翔の背中が見えた。
「小森谷君! よかった、こっちに来て!」
加奈は振り返って大翔を呼んだ。だがそこに大翔の姿はない。もう一度正面の鏡に映った大翔に目を戻すと、その「大翔」は、鏡から鏡へと移動している。
(どう…いうこと…?)
彼女は鏡の表面に震えながら手を触れた。冷たい感触があるはずだった。しかし、彼女の指先は、水面に触れた時のように、鏡の向こう側へと沈み込んでいった。
「え!?……あ……」
バランスを崩した加奈の体は、鏡を通り抜け、音もなく「あっち側」へ転がり落ちる。
気づくと、加奈は見たこともない広間に出ていた。
そこも鏡張りだったが、現実のミラーハウスよりもずっと広く、天井が見えないほど高い。
そして、そこには「加奈」がいた。
一人ではない。数十、数百という数の宮里加奈が、無表情に立ち尽くしていた。
「「「ねえ、遊ぼうよ」」」
一斉に、声が響いた。それは加奈自身の声でありながら、古いレコードを逆再生したような、不快なノイズを孕んでいた。
「……誰? あなたたち、誰なの!?」
「私たちは、あなた。あなたが鏡を見る度に生まれた、もう一人のあなた」
無数の加奈たちが、無表情のまま、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「ずっと私達と一緒にいようよ。外の世界は疲れるでしょう? ここなら、誰もあなたを傷つけないわ」
「 嫌っ! 来ないで!」
詰め寄ってくる加奈たちの顔が、徐々に崩れ始めた。
若く瑞々しい肌がドロドロと溶け出し、その下から赤黒い筋肉と、白い骨が露出する。
「お前の肉をよこせ」
「その若くて綺麗な皮を、私に頂戴」
地獄の底から聞こえてくるような、低く、おぞましい声。さっきまで自分と同じ顔をしていたものたちが、今や肉の剥げ落ちた骸骨へと変貌し、長い指先を伸ばして加奈に襲い掛かろうとしていた。
「嫌……嫌あああああ!」
加奈は床にへたり込み、頭を抱えて叫んだ。
パリン!
鼓膜を突き刺すような破砕音が響き渡った。
加奈の目の前にある「空」が割れた。いや、それは鏡だった。
割れた鏡の破片が飛び散る中、早紀と大翔が飛び込んできた。早紀は長い髪をなびかせ、その手には赤い消火器を抱えている。
「大翔君、彼女を!」
早紀の叫びに呼応するように、大翔が加奈に駆け寄る。
「宮里さん!」
大翔は加奈を背に、ポケットから懐中電灯を取り出し、迫りくる骸骨の群れに強力な光を放った。突然の眩い光は、闇に慣れた骸骨たちの眼窩を焼く。骸骨たちは耳をつんざくような悲鳴を上げ、顔を覆ってひるんだ。
「大翔君、下がって!」
早紀が消火器のピンを引き、ノズルを骸骨たちに向けた。
プシューッ! という激しい音とともに、真っ白な消火剤の煙が空間を埋め尽くす。視界を奪われ、泡まみれになった骸骨たちは、混乱して互いに衝突し、崩れ落ちていく。
「早く、彼女を連れて逃げて! ここは長くは持たないわ!」
早紀は大翔を促した。大翔は、腰が抜けて座り込んでいる加奈を抱きかかえ立ち上がると、早紀が割った鏡の穴へと走り出した。
背後では、消火剤の煙の中で骸骨たちが咆哮し、割れた鏡の破片がさらなる異変を呼ぶように不気味に震えている。
穴へ飛び込む寸前で、大翔は早紀を振り返った。
「早紀さん! また会えますよね!?」
煙の向こうで早紀の姿が揺れる。
「…多分ね……。早く! 鏡が修復される前に行って!」
早紀の鋭い声に背中を押され、大翔は加奈を抱えたまま、光り輝く亀裂へと飛び込んだ。
視界が激しく明滅し、鼓膜の奥でガラスが軋むような音が響く。次の瞬間、大翔は冷たいタイルの床に膝をついていた。
「……はぁ、はぁ……っ!」
肺に流れ込んできたのは、カビ臭い、しかし間違いなく現実のミラーハウスの空気だった。腕の中では加奈が「う、ううん……」と小さく呻いたが、気を失っているようだった。
大翔は慌てて振り返った。だが、そこにあるのは、割れた鏡と古く汚れた壁だけだった。
「早紀さん」
虚空に向かって呼びかけるが、返事はない。ただ、割れた鏡の欠片に一瞬だけ彼女の穏やかな微笑みが映ったような気がしたが、それも霧のように消えていった。
大翔は加奈を抱きかかえ、ふらつく足取りで出口へと向かった。外に出ると、夜の風が驚くほど心地よかった。
休憩室のソファに加奈を寝かせると、彼女は大きな欠伸をして目を覚ました。
「あれ? 私、なんでここに……? ミラーハウスにいたと思ったんだけど……?」
彼女が周りをキョロキョロと見回す。大翔は安堵とともに、深い疲労感に襲われた。
「……宮里さん、鏡に囲まれて酔ったみたいで、途中で倒れちゃったんだ」
大翔は何気ないフリをした。
「そうなんだ。小森谷君、運んでくれたんだね…。ありがとう。ごめんね、重かったでしょ」
加奈は床を見つめながら呟いた。
「…変な夢を見たの。鏡の奥に入り込んこんじゃって、そこには私がいっぱい居て…やだな、園長のせいで、臆病風に吹かれたみたい」
自嘲気味に笑う加奈。
「後は俺がやっとくから、ここで休んでるといいよ」
大翔は休憩室に加奈を残して、ミラーハウスへ戻った。
早紀が消火器で割った、そして加奈を連れて飛び出した鏡の前まで戻ると、大翔は目を見張った。
そこは何事もなかったように、綺麗に磨かれた鏡が大翔の姿を映し出している。
「確かに割れたはずなのに…」
「誰が割ったのですか?」
不意に背後から声がして振り返ると、森田園長が立っていた。
彼は、大翔ではなく、鏡に目を向けている。
「いえ、その…」
大翔が言い淀むのを制して、森田が鏡に近寄る。
「割ったのは君じゃないでしょう?」
その言葉に、大翔がハッとして頭を上げる。
森田は鏡の向こうに話しかけているようだった。その口元に、歪んだ笑みが浮かんでいる。
「今夜の業務は終了です。お疲れ様でした。……無茶もほどほどに」
最後の言葉は、幻聴のように小さく闇に消えて行った。
帰りのバスの車内。隣に座る海斗は、走行の振動に合わせてコクリコクリと舟を漕いでいる。大翔は流れていく車窓の景色を見つめながら、ミラーハウスで起きた出来事を考えていた。
加奈が鏡の向こうへ吸い込まれた瞬間、大翔が磨いていた鏡の表面が揺らぎ、不意に早紀が映し出された。彼女は小さく微笑むと、鏡の中からしなやかな両腕を伸ばし、大翔の首に回した。
大翔は手にしていた雑巾を投げ捨て、思わずその細い体を抱き締めると、鏡の世界からこちら側へ引き寄せた。
「そう言えば、君の名前、まだ聞いてなかったね」
「大翔。小森谷大翔です」
耳元で囁かれた早紀の声は、甘く、どこか非現実的だった。夢心地のまま彼女の体温を感じていると、自分の心臓の音が、部屋はおろか、世界のすべてに響き渡るのではないかと思うほど激しく高鳴った。彼女を抱き締めていた時間は数秒にも満たなかったはずなのに、大翔には永遠に感じられた。
やがて彼女がそっと体を離す。
「彼女を助けに行きましょう、大翔君」
早紀は通路の隅にあった消火器を掴み、迷いなく別の鏡を打ち砕いた。
「来て」
砕け散る鏡の破片が、きらめきながら宙を舞う。その光の渦の中心で、早紀が振り返り、大翔へと手を差し伸べた。一瞬が永遠に引き延ばされたかのような美しい光景だった。彼は吸い寄せられるようにその手を握りしめ、鏡の向こう側に広がる未知の深淵へと飛び込んだのだった。
早紀の温もりは、今も鮮烈に思い出すことができる。それは、彼の心臓を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。
彼女への想いが、もう自分一人では抱えきれないほど肥大し、制御不能なほどに膨れ上がっていることを、大翔は夜の静寂の中で痛感していた。
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