京都案内 東西○北の天王社
洛中には社号に方位を冠した天王社が鎮座しています。
東天王社
金戒光明寺の南側、丸太町通に面して「岡﨑神社」が鎮座しています。

岡﨑神社のHPによれば、こちらが東天王社と位置付けられているとのことです。
桓武天皇、延暦十三年(七九四)長岡京よりの平安京遷都に際し王城鎮護の為平安京の四方に建立された社の一つで、陽のいずる都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した。
清和天皇貞観十一年(八六九)勅命により社殿を造営し、播磨国広峰(現在の兵庫県姫路市北方)より祇園牛頭天王(速素戔鳴尊)等を迎え祀り悪疫の治まりを祈願した(諸社根元記)。平家物語では東天王を官幣四十一所の一つに加えている。
URL:https://okazakijinja.jp/history/

御祭神は、速素戔嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子神の三柱で、神社由緒書には「速素戔嗚尊」=「牛頭天王」と説明されています。
ということは、明治の神仏分離令以前の御祭神は、牛頭天王、頗梨采女、八王子であったと思われます。
西天王社
聖護院門跡積善院(五大力さん)と春日北通を挟んで南側に「須賀神社・交通神社」が鎮座しています。

現地の説明札によれば、こちらが西天王社のようです。
もとの社地は平安神宮蒼竜楼の東北にある西天王塚で、当社は岡崎の東天王社と相対して古くは西天王社と呼ばれた。その後、吉田神楽岡に転じ、今の地に移ったのは大正一三年(一九二四)のことである。

もともとの御祭神は素戔嗚尊、櫛稲田比売命、久那斗神、八衢比古神、八衢比売神の五柱であったとされています。
大正13年(1924年)に現在地に遷座してから40年後、昭和39年(1964年)に、久那斗神、八衢比古神、八衢比売神の三柱が分祠されて「交通神社」の祭神になっています。
以前の記事で紹介しましたように、この三柱は分岐点を護る神様なわけですが、分祠時は急激なモータリゼーションによる第一次交通戦争の真っ只中で、こういった世相を反映して「交通神社」と命名されたのでしょう。
分祠の結果、素戔嗚尊と櫛稲田比売命の二柱が須賀神社の祭神となっています。
こちらも、神仏分離以前は牛頭天王と頗梨采女であったのでしょう。
須賀神社といえば、節分の懸想文売りでも有名ですね。
2026年は2月2日(月)、3日(火)の二日間とのことです。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sanj%C5%ABroku_kasen,_Kes%C5%8Dbumi,_Genroku_koro_fujin_by_Mizuno_Toshikata.jpg
北天王社
詩仙堂の東側に「八大神社」が鎮座しています。

こちらは宮本武蔵とゆかりが深く、境内に一乗寺下り松の古木が祀られています。

八大神社の御由緒によれば、
祇園八坂神社と御同神をお祀りし、北天王(北の祇園社)とも称され京の表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。
URL:https://www.hatidai-jinja.com/about-us/
ということで、こちらが「北天王社」ということになります。
南天王社は?
はてさて、残る「南天王社」はいずこ?
洛中で、明確に南天王社を名乗る神社は見当たりません。
なさそうですね・・・
木屋町仏光寺の交差点の北東側に「天王町」という町名がありますが、江戸末期の古地図では別町名なので、これは明治以降の新しい町名かも知れません。
いいなと思ったら応援しよう!
お役に立てましたでしょうか。
チップは今後の探究活動に活用させて頂き、新記事の作成に役立てて参りたいと存じます。